5-17.
「なるほどね、状況はわかったわ」
京子ちゃん先生は、そう言いつつも困ったような顔で俺と明を見比べた。
生徒相談室の扉一枚隔てた廊下から、野球部の掛け声が聞こえる。今日は雨でグラウンドが使えないから、中で筋トレメニューでもこなしているのだろう。
京子ちゃん先生が考え込んでいる間、することがなくてそんなことを考える。俺の隣に座っている明も、同じようにソワソワと落ち着きなく、窓の外と、京子ちゃん先生と、俺と、廊下のほうを見回していた。
「……でも、厳しいわね」
京子ちゃん先生の口からこぼれた声は、いつものサバっとしたようなものでも、ちょっと意地悪な女性らしいものでもなくて、大人の……それも、真剣なものだった。
「なんでっすか」
俺のつっけんどんな返答も予測済みだと言いたげに、京子ちゃん先生は「あのねぇ」と切り出す。
「大道くんが困っていることはわかるわ。助けてあげたいとも思う。でもね、先生はあくまでも先生で、ご両親の教育方針に口を出せる立場にはないの。ご両親には責任がある。子供をきちんと育てるという義務が。先生の立場じゃその責任を負えないのよ」
「……明からスマホ取り上げて、外出禁止にして、軟禁状態でもっすか?」
「そりゃ、虐待ってなったら話は別よ。第三者が介入する余地がある。でも、今時点では……そこまでとは言えない」
淡々と話す京子ちゃん先生の態度が癪に触って、俺は思わず声を荒げた。
「でも、明は困ってんすよ!」
明がそんな俺を「りょ、亮くん」と咎め、俺はハッと我に返る。口をつぐめば、京子ちゃん先生は小さくため息をついた。それから、俺ではなく明を見て、眉を下げながら綺麗に笑みを作る。
「ねえ、大道くん」
「は、はい……」
「自分でなんとかするしかないの。わかるよね?」
明はびくりと姿勢を正し、俺にチラと視線を投げる。それが俺に助けを求めているようで、俺は「京子ちゃん先生」とその名を呼んだ。だが、京子ちゃん先生は「今は、大道くんと話してるでしょう」と明から視線をそらさない。
「大道くんは、自業自得だってわかっているから、ご両親のことを責められない。でも、もしも本当に困っているなら、親と、ちゃんと自分の言葉で話すことも大切よ」
明は唇を噛みしめてうつむく。
俺がなんとかする、なんて言っておいて、今、俺ができることはなんにもなかった。
「本当に大切なことは、失ってからじゃ遅いのよ」
京子ちゃん先生は綺麗に作られた笑みを、子供みたいにくしゃっとした笑みにかえて、ようやく明から目を離した。
「なんて、ちょっとかっこつけすぎかしらね」
明はフルフルと小さく首を横に振って、「ありがとうございます」と呟く。そして、覚悟を決めたように、ひざの上に置いていた手をぎゅっと握りしめて顔をあげた。
「……僕、ちゃんと、話してみます」
決して大きくはないけれど、今度は、意志のこもった強い声だった。
「先生に焚きつけられた、なんて言わないでちょうだいねぇ」
京子ちゃん先生はいつもの口調に戻って、カラッと笑う。明もまた、控えめな笑みを浮かべてうなずいた。
「勉強も、頑張ります」
「うん、そうだね。大変だと思うけど、両立しよう」
「はい! ありがとうございました!」
明がガバリと頭を下げ、京子ちゃん先生もうんうんとうなずいている。
俺だけがなんだか取り残されたみたいだった。いや、よかったけどさ。なんていうか。俺、別にいらなかったんじゃねって。そんな感じ。
卑屈な気持ちがせりあがってきたのがわかって、俺が慌ててそれを飲み込もうと奥歯を噛みしめると、明と京子ちゃん先生が同時に俺を見た。
「亮くん、ありがとう」
「いい友達ね」
二人の満面の笑みが、俺の奥歯に潜んでいた薄暗い感情を、ほんの一瞬で吹き飛ばしてしまう。自分でも単純だなって笑いそうになるくらいだった。
「……別に、俺、なんにもしてねぇし……」
謙遜というよりも、本当にそう思ったから言ったのに、明が不満げな顔をした。そんなことないって表情全体で訴えている。京子ちゃん先生も生暖かい目で俺を見つめていて、「若いわねぇ」なんて、からかうみたいに笑った。
居心地が悪くなって、俺はリュックを片手に立ち上がる。
「話、終わったんなら行くぞ」
失礼しました、と、ありがとうございます、を明と一緒に告げて、京子ちゃん先生と別れる。
生徒指導室の外で筋トレをしている野球部が俺たちを物珍し気に見つめ、俺と明は足早に昇降口へと向かった。
靴箱からスニーカーを出すと同時、
「りょ、亮くん」
と明が俺を呼び止める。
「なに」
振り返れば、明はなにかを言いたげにもじもじと体を揺らした。
「あ、あのさ……」
玄関の外に降る雨が、明の緊張したような小さな声をより強調している。
「なに」
促すようにもう一度尋ねれば、明はゆっくりと俺を見つめ、それからやっぱりせわしなく視線を左右に動かし、けれど、最後には観念したというように俺のもとへと視線を戻した。
きゅっと引き結ばれていた唇が、こまかな震えをおさめてゆっくりと開かれる。
「……きょ、今日は、本当にありがとう」
明のやわらかな笑みを見たのはいつぶりだろう。
波音みたいなゆったりとしたハスキーボイスも、やっぱり耳馴染みがよくて、どうしてか、俺が泣きたくなった。
泣きそうなのを必死にこらえているのがわかる明の顔を、雨雲の隙間から差し込んだ夕日が照らす。
それが、今まで歩んできた人生のどんな瞬間よりも大切な気がして、俺は、自分ができるかぎりで、明の助けになりたいと思った。
「これからもさ、なんでも言えよ。できること、限られてるらしいけど」
多分、こんな風に伝えれば、明だって、言えるだろ。言いたいことの半分でも、こいつが素直になれたらいい。
俺の予想と期待をくみ取るように、明は笑い声をあげ、素直にうなずく。
「僕、帰ったら、話してみるよ」
「親に?」
「うん。た、たしかに、勉強も大事だって、わかってるんだけど……」
明は笑みに少しの苦さを加えて「でも」と付け加えた。その声には強さが加わっている。
「僕が本当にやりたいことは、亮くんと、一番になることだから」
明の覚悟が雨上がりを連れてくる。
同時、昇降口から吹きこんだ風は雨の匂いを散らし、夕暮れの太陽の香りを運んできた。
俺は明に拳を突き出す。
頑張れよって意味と、俺も、頑張らなきゃなって意味。二つを込めて、指きりの代わりにする。
明の小さな拳が俺の拳とぶつかって、その感触を惜しむように離れた。
「また、明日な」
「うん。また、明日」
俺も、明も、今度こそ、明日が来ることを疑わずに拳を開いて、その手を振った。




