第8話 レッツ、泣きっ面に蜂
マグディエルは、特に何の感情もなく、ただ歩いていた。
ラッパを失くしたことに気付いた後、たっぷり一時間以上も盛大に泣いたが、そのあとはもう、何の感情も起こらなかった。
目が、ぼわぼわする。
なんで、歩いているんだろう。
家に帰りたいなあ。
誰も何も話さなかった。
マグディエルの右手をアズバが、左手をナダブがにぎって、先へと連れてゆく。マグディエルは自分から進む気力もなかったが、引かれる手を振り払う気力もない。ただ引かれるがまま歩いた。
ラッパ吹きたちが暮らす、何もない丘が、急に恋しくなった。
あそこにいれば、こんなことにはならなかったのに。
どうして、のこのこと出てきてしまったんだろうか。
——。
自分でのぞんで出てきたくせに、そんな風に思うなんて——。
マグディエルは、とことん自分のことが嫌になった。
レビヤタンに押さえつけられたとき、ラッパを守るのを忘れて、自分の身だけを守ろうとしていたことに嫌気がさす。
これが第一のラッパ吹きだなんて。
ふと、喉が痛んで、咳がでた。
アズバが振り向いて、怪訝な顔をした。
「ねえ、マグディエルの手、なんだか熱くない?」
アズバはナダブの方を見て言った。
「え、そう言われてみると確かに……。なんか顔も赤くない?」
ナダブの言葉がぼんやり聞こえた。
アズバがマグディエルの頬に手をやる。
「え……、すごく熱くない?」
ナダブもマグディエルの首筋に手をあてる。
「うわ! ほんとだ。なにこれ、天使が熱出すとか聞いたことないんだけど」
熱?
そういえば、さっきから身体が寒くなったり熱くなったりしている。頭がぼやっとして考えがまとまらないし、頭も痛いし、歯も痛い、気がする。あと、関節も痛い。喉も痛い。
「ちょっと休みましょう。マグディエル、座って」
座り込んでしまうと、身体がだるくて、もうそのまま寝転んでしまいたい気がした。
こらえるが、身体がゆれる。
「どうしよう?」
アズバの心配そうな声が聞こえる。
マグディエルは、頭が重くて、顔をあげられなかった。
「どうしようって言ってもなあ。進むしかないんじゃない? もうずいぶん進んできたし、戻るよりは進んだ方がいい気がするけど」
「そうね。私が背負っていこうか」
「それがいいんじゃない」
アズバとナダブの会話が遠くで聞こえるような気がした。
耳までおかしくなったのかもしれない。
アズバがマグディエルの両頬をかかえて持ち上げた。
「マグディエル、女の姿になれる?」
アズバがそう言って、男の姿に変えた。
「よしよし、いい子」
そう言われたので、ちゃんと姿を変えられたのかもしれないが、マグディエルにはよく分からなかった。
地面が微かに揺れているような気がした。
自分が揺れているだけかもしれない。
「ねえ、あの音——、何だろう」
ナダブが言った。
「うそでしょ」
アズバが答える。
どど、と地の底から響くような音があった。
アズバがマグディエルを乱暴に横抱きに抱えた。
「走れ!」
ナダブの鋭い声が聞こえた。
アズバが走っている。
マグディエルを横抱きにして、飛ぶように走った。
マグディエルは、アズバの肩越しに、音のする後方を見た。
水の壁が、閉じようとしている。
水はすごい勢いで、今まであった道をのみ込み、うねり、どどうと音をさせて荒くれていた。
このままでは、追いつかれる。
「アズバ、降ろして」
マグディエルは痛む喉から、声をしぼりだした。
アズバは「うるさい」と小さく叫んだ。
「このままじゃ、アズバまでのみこまれる。わたしのことは置いて行ってくれ」
「うるさい!」
アズバが大声で言って、マグディエルの身体を抱える腕に力をこめた。
アズバの腕から抜けようともがいたが、力が出ない。びくともしなかった。
うねりは、すぐそこまで迫っていた。
マグディエルはアズバの首に手をまわして、抱きしめた。
「アズバ、ごめん」
迷惑かけて、ごめん。
アズバは答えない。ひたすらに走った。
ナダブは、逃げ切れるだろうか。
もうマグディエルは周りを見渡す力も出なかった。
顔に水しぶきがかかった。
大きなうねりが、まさにアズバに覆いかぶさろうとしたその時、マグディエルは羽を広げてアズバを包んだ。
神よ、おられるのなら、どうかアズバとナダブをお守りください。
そこで、マグディエルの意識は途切れた。
*
目を覚ますと、見慣れない天井が見えた。
顔をかたむけると、石造りの壁と、木製の小さなテーブルとイスがひとつ、目に入る。
質素なたたずまいの、小さな家だった。
扉が開いて、一人の男が入ってきた。人間だ。彫りの深い顔立ちだが、なんとなく可愛らしい雰囲気がある。年は三十ほどに見える。
マグディエルと目が合うと、嬉しそうに微笑んだ。
「目を覚まされましたね。安心しました」
目を覚ます? はて、なんでここで寝てたんだったか、と思うにいたって、マグディエルはすべて思い出した。
「アズバとナダブは——!」
勢いよく起き上がろうとしたが、全身が痛んで半分ほども身を起こせなかった。
「おっと、無理はなさいませぬよう。大丈夫ですよ、お二人とも無事です」
男はマグディエルの背をささえて、座るのを手伝ってくれた。
「とりあえず、自己紹介は後程させていただきましょう。アズバとナダブにも、あなたが起きたと教えてあげないと。ずいぶん心配されていましたから」
男は、そう言うと盆にのせてもってきた器をマグディエルの前に差し出した。
「でも、そのまえにこれを飲み切ってくださいね。そうしたら、ふたりを呼んできますから」
にっこりと、邪気のない顔で渡される。
にごった緑色のどろどろが器に満タン入っていた。
手渡されたスプーンで、おそるおそるひとさじ口に含む。
「うぅっ——」
天国中の苦いものでも集めたのか、というくらい苦い。
「さぁさぁ、どんどん飲んでください。勢いが大事ですよ。時間がかかるほど苦しみますから」
男はにっこりしたまま言った。
この人、こわい人かもしれない。
マグディエルはなんとか飲み切った後、そそくさとベッドに横になった。
もうぜったい、何も、口に入れたくない。
そのぐらい苦かった。
男は盆にのせていたものをつまんで、マグディエルの口元にもってきた。
まだ、あるのか。
「はい、あーんしてくださいね」
ためらったが、男のにこにこに負けて口をあける。
大きな飴だった。
マグディエルは口の中でころころして、甘さを堪能した。
男は「ふたりを呼んできます」と言って、出て行った。
しばらくすると、扉を勢いよくあけてアズバとナダブが飛び込んできた。
二人とも、見た感じは特に怪我もなさそうだった。
「マグディエル! 目が覚めたのね! 良かった。どう、まだしんどい?」
アズバがベッドの横に跪いて、マグディエルの顔をのぞきこむ。お互いに見慣れた姿に戻っていた。
「どんだけ寝るんだよ、おじさん」
ベッドに腰掛けたナダブが軽口をたたく。
ころころ。
「ちょっと、マグディエル。何でなにも言わないのよ」
ころころ。
「こいつ、飴食ってない?」
飴が大きすぎて、何もしゃべれなかった。
飴が小さくなってから、マグディエルは、まだ痛むのどをおさえて言った。
「ふたりとも無事でよかった」
「おう」
「あなたもね」
「あのあと、どうなったの?」
どうやってあの湖から逃れたのだろう。
「これ」
アズバが持っていた紙をひろげた。
「わたしたち号外に載ったわ」
号外?
紙には『ガリラヤ新聞 号外』と書かれている。
天国に新聞なんてあるんだ。
アズバが言うには地方紙みたいなものらしい、ということだった。
一面にでかでかと大見出しがある。
『ペトロ、天使をとる漁師になる』
「ペトロ? 『人間をとる漁師』のペトロ?」
「そう、『鶏が鳴く前に三度知らないと言う』のペトロ」
ナダブがすかさず答える。
ペトロは神の子イエスに『人をとる漁師にしてあげよう』と謎の勧誘をされてついていった元漁師で、イエスの一番弟子だ。イエスが捕まったときに、お前も仲間かと聞かれて三度も「イエスのことなんて知らない」と言ったことを、ずーっとこすり続けられている。
天国ではもはや伝統漫才的な扱いになっている。
アズバが読んでくれた新聞の内容は、こうだった。
湖で趣味の漁を楽しんでいたペトロ氏が三人の天使を釣り上げた!
網をひくと、ずっしりと重く、大漁だと喜んだペトロ氏だったが、あがってきたのはなんと三人の天使だった。うち二人の天使は意識があり、自分たちはヨハネの黙示録に出てくるラッパ吹きの御使いだと語ったという。のこりの一人は意識不明の重体だ。
ペトロ氏に知り合いですかと聞くと「いいや、知らない」とのことだった。
そこまで読んで、アズバが新聞から目をあげる。
すごい。
ペトロの『知らない』のネタを、なにがなんでもこすらずにはいられないのだろうか。
「ああ、じゃあ、もしかしてさっきの男の人がペトロかな?」
ナダブが「はずれー」と言う。
「え、じゃあ……」
そのとき、扉がひらいて話題の男が入ってきた。
また盆の上に何か器をのせている。
マグディエルの口の中がきゅっとなった。
「彼はユダだよ」
ナダブがにっこりと答えた。
☆聖書豆知識☆
【ガリラヤ】
聖母マリアが天使ガブリエルから受胎告知を受けた地。
また、イエスが宣教を開始した地。
【ペトロ】
ガリラヤ湖で漁をしているときに、イエスに声をかけられて最初の弟子になった。
三度知らないと言う話は「ペテロの否認」と言われ、絵画でも何度も描かれている。




