第76話 終幕 主の御告げ 後編
ベルゼブブは、御座のてっぺんから、御座シティを見下ろし、言った。
「ねえ、もしかしてマグディエルのこと、一度も誘惑しなかったんですか?」
となりで、ルシファーが相変わらず何を考えているのか分からない顔で、御座シティを見下ろしている。
ルシファーは街を見下ろしたまま答えた。
「いいや」
なんだ、ちゃんと、誘惑してたのかよ。
「じゃあ、結局、なんで、あなたの誘惑が一度も効かなかったんです?」
「マグディエルは、傲慢の火種が燃えるほどの、わずかな自信すら持っていないからね」
自信ゼロの天使?
そんなの、いるか?
いや、まあ、実際ひとりいるのか。
街からの風が吹く。
ベルゼブブは目を細めて言った。
「結局、予言の通りでしたね。我々は、また、あいつらエル・ロイの手のひらの上だった」
ルシファーが天を見上げた。
明けの星が輝く瞳が、緑玉の虹の光と空の青をうけて、不思議な色を湛えて輝く。
彼は、ふと、うすく笑って言う。
「すでに書かれていることだとしても——」
ベルゼブブは先を奪って言ってやった。
「翼を地にこすりつけ、心を貶めて生きるくらいなら、あの高みにいる者に叛逆し、おのれの心とともにする」
ルシファーが、ちゃんと覚えてるじゃないか、というように微笑んで、ベルゼブブを見た。
覚えてるよ、おまえのことは、全部。
ベルゼブブは、あの頃と変わらぬまま強く美しいルシファーの瞳を、じっと見つめた。
おや、そういえば。
「ルシファー、あなた、最初からマグディエルが、神に特別選ばれた者だと知っていて、狙ったんですか?」
「ああ」
「どうやって、知ったんです?」
ルシファーが手をふると、一枚の紙がベルゼブブの前にあらわれた。
さっき、カラオケの部屋でマグディエルが持っていたのと、似たようなものだった。小さい文字がびっしりと書き込まれている。
予言の書だ。
見ると、マグディエルが神のえり抜きの者であることが書かれていた。
「いつのまに……。盗んだんですか?」
「ああ」
「こんな、面白いもの、かくしているなんて」
「いま、見せただろう」
きれいな顔で微笑みやがって、むかつくな。
ベルゼブブは溜め息をついて、言った。
「誘惑も効かず、予言のとおりで、一体どうやって、神からあの『神の選び』を奪うつもりなんです?」
ルシファーは、瞳の奥に剣呑なひかりをのせて、ぞっとするような微笑みを浮かべて言った。
「やり方は、いろいろある」
へえ、そりゃ、楽しみだな。
「にしても、ずいぶんかいがいしく、お世話していましたけど、そんな必要ありました?」
ルシファーがくすくすと、楽しそうに笑いながら言った。
「マグディエルは、ここで、あの大事な第一のラッパをきちんと吹けるようになるだろうね」
ラッパを?
そのために、かいがいしく、あれやこれやしてたのか?
羽の祝福で、ラッパまで治して——。
地上に、ラッパを吹き鳴らさせるつもりか?
ベルゼブブは、じっと、楽しそうなルシファーの顔を見た。
いや、違うな。
それじゃあ、お楽しみが少なすぎる。
あ。
「もしかして、マグディエルに自信をつけさせるためですか?」
ルシファーの瞳が、満足そうに細められた。
あたり。
へえ。なるほどな。
ベルゼブブは、楽しくなって聞いた。
「じゃあ、これから、どうするんです? 誘惑するんです?」
「ないしょ」
あ、このケチのヘビ!
*
マグディエルは、カラオケの席でガブリエルに絡まれていた。
肩に手をまわされ、睨まれている。
目が、合っただけなのに……。
怖くて、マグディエルは縮こまった。
ガブリエルは、唐突に思い出したように「おい、おれの仕事に、不満がありそうだったな。ケチつけてんのか?」と言って絡みはじめた。
ケチなんか、つけていません。
営業スマイルと、マニュアル仕事に、ちょっとショックを受けただけです。
とは言えず、小声で返す。
「ふ、不満なんてありません。感謝しています」
「ほんとかあ、こら?」
ガラが悪すぎる。
こわい~。
マグディエルは誰かに助けてもらおうと、まわりを見たが、頼れそうな者がいない。
アブラハムは用事を片付けてくると、退出した。ミカエルは、デンモクを見て、こちらを見もしない。ルシファーとベルゼブブは、外の空気を吸いに行くといったまま帰ってこない。
アズバに、この危険すぎる大天使を近づけたくない。
ナダブと、ペトロは戦力外だ。
マグディエルは、イエスを見た。
助けてください。
そう、念じて、見た。
目が合うと、イエスは、ぱっと、顔を明るくした。
なんだか、嫌な予感がする。
「マグディエルったら、もうガブリエルと仲良しさんなんですね」
やめてください、やめてください。
下手に刺激したら、わたしがぶっ飛ばされます。
イエスがデンモクを操作しながら言った。
「せっかくお友だちになったんですから、ふたりで一緒に歌ってみましょう。ね♡」
くそ!
イエスのほうを見るんじゃなかった!
「いいぞ」
意外にも、ガブリエルが歌うことに、前向きな姿勢を見せた。
お!
これは、もしかして、この状況を抜け出せるチャンスでは!
イエスが履歴から聖歌『たちあがれいざ』を入れた。
マグディエルは、肩に腕をまわされたまま、歌った。
ガブリエルも、機嫌良さそうに歌う。
——えっ。
マグディエルは、思わず、こわくて緊張していた肩の力をぬいて、ガブリエルを見た。みんなも、なんだかぽかんとした顔で、ガブリエルを見ている。
マグディエルは、一緒に歌いながら、心の中で叫んだ。
ギャップがすごい!
ガブリエルの歌は、ちょっと調子っぱずれで、下手だけど一生懸命に歌っている感じがした。しかも歌うとちょっと声が高めになるタイプらしい。美しく優し気な雰囲気と相まって、ずばぬけた愛らしさを発揮した。
マイクの持ち方まで、なんだか一生懸命に見える。
アズバが「かわいいッ‼」と叫んだ。
歌い終わると、ガブリエルは満足そうな顔で笑った。
いや——、これは、かわいい。
ガラの悪さからのギャップで、かわいさが一気にはるか天の高みまで登った感じがした。
あ、今なら、気になっていたことを聞けそう。
マグディエルは、ガブリエルにむかって、勇気を出して聞いた。
「あの、ガブリエル」
「あ?」
ガブリエルがマグディエルのほうに顔を向けた。
かわいらしい雰囲気は消えて、ガラの悪い顔を目の前に突き付けられる。
なぜです!
やっぱり、こわい!
勇気のともしびが一瞬消えそうになった。
なんとか、耐えて聞く。
「あの手紙って、神からのメッセージなのですよね?」
マグディエルは、さっきの手紙はほんとに神からなのかな、ほんとかな、神ほんとにいるかな、という気持ちを抑えきれなかった。
ちょっと、まだ、いるかどうか、不安だ。
またしても、手紙に、差出人の名前はなかったし……。
一応、聞いておこう、という心持ちだった。
一応。
ガブリエルが、なに聞いてんだ、てめえ、みたいな顔をした。
そうですよね、そうですよね、もちろん、神からの手紙ですよ——。
「知らん」
ぶっきらぼうなガブリエルの答えを聞いて、マグディエルは、三秒ほど、ぽかんとした。
知らん?
いや、聞き間違いかもしれない。
もう一度聞いてみる。
「え……、あれ、神からの、手紙ですよ、ね?」
「知らん」
え? え? え?
「ガブリエルは、神からのメッセンジャー、ですよね?」
「神からのかは、知らん」
マグディエルの心は、まるで宇宙をさまようようだった。
心を、現実に戻すのに、しばらくの時が要った。
マグディエルは、なんとか、戻ってきた。
——えっ。
じゃあ。
じゃあ、誰からの⁉
神、いる⁉
いない⁉
また、分からなくなった。
303号室から、マグディエルの過去最大出力の「エーッ‼」が、カラオケ御座に響き渡る。
*
主の御告げ。
わたしは近くにいれば、神なのか。
遠くにいれば、神ではないのか。
天にも地にも、わたしは満ちているではないか。
わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っている。
それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。
もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。
わたしはあなたがたに見つけられる。
おや、あなたは、退屈しているのか?
————完————
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おまけ ☆聖書豆知識☆
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【あいつら?】
旧約聖書の中で、神の一人称代名詞はいくつかあります。
「わたし」とも言い、「われわれ」と言うときもあります。
「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて」
【エル・ロイ】
旧約聖書に出てくる神の名のひとつ。「ご覧になる神」という意味。
他にもいっぱいあります。
・エル(神)
・ヤハウェ(主)
・アドナイ(わが主)
・エル・シャダイ(全能の神)
などなど。
【聖句引用】
ラストの御言葉は、聖句引用です。
なんだか、神をそばに感じられる聖句。
旧約聖書の預言書である「エレミヤ書」より。
<23章23節~24節 一部略>
わたしは近くにいれば、神なのか。
遠くにいれば、神ではないのか。
人が隠れた所に身を隠したら、わたしは彼を見ることができないのか。
天にも地にも、わたしは満ちているではないか
<29章11節~14節 一部略>
わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。
それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。
あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。
もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。
わたしはあなたがたに見つけられる。




