第75話 終幕 主の御告げ 前編
マグディエルは、ガラの悪いガブリエルの顔を見るのがつらくなって、一番遠くにいたアブラハムを見た。
アブラハムがニコッとして言う。
「マグディエル様、ラッパは、吹けましたか」
「はい」
「それは良かった」
嬉しそうにしてくれるアブラハムに、ほっとして、ふと、思い出す。
「そういえば、ガラスの部屋の中で、不思議なことがありました」
「ほう」
「ガラスの海で落としたものが、中にあったのです」
マグディエルは胸元のウリムとトンミムを確かめるように、服の上からおさえた。
アブラハムが、訳知りな様子で頷く。
「あぁ、なるほど、ガラスの海はポイ捨て禁止ですからな。あの部屋のガラスもその性質を受け継いでいるんですな」
「ポイ捨て、禁止……?」
「ええ、綺麗な海はゴミを嫌いますから。ガラスの海なんかは、自らが美しいことを誇って大切にしていますので、ポイ捨てしたものには、それをそのまま返してくるのです」
へえ、そんな素敵なシステムが搭載されているんだ。
おかげで助かった。
アブラハムが目を薄くして言った。
「一度目はゆるされます」
「え」
「二度目もゆるされるかもしれません」
「——」
「三度目は……」
「さ、三度目は?」
ポイ捨て三度目で、ガラスの海が本気を出すのだろうか。
マグディエルはガラスの海で味わった、恐怖を思い出して、ぞっとした。
アブラハムが、こわい顔をして言った。
「わかりません」
がくっときた。
アブラハムが、ははと笑って言った。
「天の国には、三度もポイ捨てする者がいませんからね」
それは、そうか。
ナダブがマグディエルに向かって「おい」と言った。
「マグディエル、そんなことより、それ、開けてみないのか?」
ナダブはいかにも気になるといった様子で、マグディエルの手元を見た。ガブリエルによって届けられた手紙がある。
全員の視線が手紙にそそがれる。
ガブリエルの視線も。
マグディエルは、刺激しないように、そおっと訊いた。
「ガブリエルは、手紙の内容は知らないのですか?」
「知るか」
「あ、はい、すみません」
マグディエルは、震えそうになる手で、手紙の封をあけた。
中身はなんだろう。
前回の手紙が思い出される。『まだ』のあの二文字。マグディエルは、たった二文字の便箋を思い出して、ぶるっとした。今度はいったい、何が書かれているんだろう。
中身をそうっと取り出すと、二枚の便箋がはいっていた。
ひらくと、一枚目の紙には、びっしりと文字が書かれている。
かなり小さい文字に、マグディエルは思わず眉間にしわを寄せた。
ポケットバイブルくらい文字が小さい。
書き出しはこうだった。
『第一話 吹けなくて、二千年』
第一話?
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『今日もマグディエルは原っぱで、ぼーっとしている。日課のラッパ磨きは、ものの三十分で完璧に終わってしまった。退屈だな。ラッパ、吹いてみたいな。ごろりと寝転がって、金色の楽器を視界に入れないようにする』
マグディエルは読み進めた。
もうすこし先には、こう書かれている。
『ヘビは「素敵なラッパだね。さぞかし良い音がするんだろう?」と、何もかも打ち明けたくなるような、優しく親密な声で言った。香りのせいなのか、さきほどまでの不安が消え、マグディエルは正直に「どんな音がするかは知りません。知りたいけれど」と答えてしまった』
これは——。
マグディエルは、最後まで読んだ。
最後のほうは、こうだった。
『便箋の真ん中に、二文字だけある。『まだ』。封筒の中や便箋の裏を探すが、それ以外は何も書かれていない。目が泳いだ先で、アズバと目が合った。彼女は戸惑ったように小さく「あー……」と言ったあと、気遣うような顔でぎこちなく、にこっとした』
これは、ガブリエルから手紙をもらった、この旅のはじまりの日だ。はじまりの日にあったことが、細かく書いてある。
マグディエルは、顔を上げて、みんなを見た。
みんなの顔が「どう?」と言っているようだった。
マグディエルは思わず言った。
「え……、これ、何か分かんない」
アブラハムがすごい勢いでこけた。
イエスがそれを見て、マネする。
みんなが、なんだなんだ、というように寄ってきて、手紙をのぞきこんだ。重なり合うようにして、無理やりぎゅーぎゅーとのぞきこむ。
イエスが隙間からのぞいて言った。
「あ、予言の書ですね」
けっこう離れているのに、よくこの小さい文字が見えるな。
「予言の書?」
「ええ、預言とはちがって、かくされていないものです。もうすでに起こったことが書かれているので、予言だったもの、と言えますけどね。それは、あなたのための予言の書の一部です」
「へえ」
でも、なんで、そんなものが入っているんだろうか。
ナダブが読みながら「すごい! おれのことも書いてある!」と喜ぶ。
アズバも嬉しそうに「わたしも、書かれてるわ!」と言った。
ここに書かれている、最初に出会った時のルシファー、なんだか懐かしいな。
マグディエルはルシファーを見た。ミカエルの肩先から、じっと予言の書を見つめている。その表情からは、何を感じているのかは、分からなかった。
イエスが覗き込みながら言った。
「もう一枚ありますね」
みんなの顔が「はやく次を見せろ」と言っているようだった。
マグディエルは、慎重に、重なっている紙をずらした。
予言の書が、下へずれていくと、下の紙があらわになりはじめる。
ちょっとずつ、さげる。
さげて、さげて、——あれ?
白くないか?
もしかして、また、二文字だけとか?
マグディエルはこわくなって、次は紙をそうっと右へずらした。
ずらして、ずらして、——うそ⁉
また⁉
紙にあらわれたのは『まだ』の二文字だった。
マグディエルは震えはじめた手で、えいやっと上の紙をどけた。
そこには、続きがあった。
『まだ、退屈かな?』
はい?
まだ、退屈かな?
あれ、そういえば。
マグディエルは一枚目の予言の書の、最初の部分を見直した。
『退屈だな。ラッパ、吹いてみたいな』
そう言えば。この日以来、全然退屈する暇がなかったような。
それどころか、ラッパは割れるし、なくすし、入院するし、ルシファーは怖かったし、笛は破裂するし……。
いったい、何回、泣いたかな。
さっきまで、なんだなんだ見せろと騒いでいたみんなが、二枚目の手紙を見て、いっせいに黙る。
ナダブが、遠慮気味の声で言った。
「あー、なんだ、まあ、手紙もらえて良かったじゃん。なんか……、めちゃくちゃ短いけど」
めずらしく、気をつかっている。
アズバと目が合う。
彼女は戸惑ったように小さく「あー……」と言ったあと、気遣うような顔でぎこちなくにこっとした。
あの『まだ』の手紙をもらった時と、まったく同じ反応だった。
マグディエルはおかしくなって、笑った。
なあんだ。
あの『まだ』の手紙を見たことですら、今はおかしい。
退屈でない日々をのぞんだから、こんな、とんでもない、楽しい旅に出られたのか。
変なの。
最初の手紙の時は、もし手紙が神からのものなら、なんていじわるなんだろう、と思った。でも、今は——。
シェムハザの言葉を思い出す。
『わたしは時々ね、神はひどく優しいのかもなと思うんだよ』
ええ、シェムハザ、ほんとうに、そうかもしれません。
マグディエルの心に、あたたかな光があるようだった。
ああ、これが、神を感じるって、ことなんだろうか。
マグディエルは、胸を押さえて、この素敵な余韻を味わった。
やっぱり、神はいるんだ。
この手紙は、神からのメッセージなんだ。
神は、すべて見てくださっている。
たとえ、神の声を聞くことができなくても、文通ならできるのかもしれない。
神は、願いを、聞いてくださった。
欲しいと思った退屈でない日々も、二千年もの間、吹けなかったラッパを吹くことも、すべて与えてくださった。
心が、満ちた。
「もう、退屈なんかじゃありません」
マグディエルがそう言って笑うと、みんなほっとしたような顔で笑って、席にもどった。
アブラハムが景気の良い声で言った。
「いや~、良かった良かった。なんだか、良いかんじになりましたし——」
片手をくいっとやって、続けて言う。
「飲み放題、アルコールありのやつに変更して、楽しみましょう」
イエスとガブリエルが喜んだ。
ガブリエルが急激に馴染み始めている様子に、笑ってしまう。
みんなで、わあわあ言いながら、部屋を片付け、ドアを戻し、大人なドリンクを選ぶ。
たのしいカラオケ大会のはじまりだ!
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おまけ ☆聖書豆知識☆
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【ポケットバイブル】
いちばん小さい聖書のサイズです。
聖書は、日本で売っているものだけでも、すーごく種類があります。
大きさは主に教科書大の大型、単行本大の中型、文庫本大の小型があります。
ポケットバイブルはなんと文庫本大より小さいA7版で、驚異の文字5ポイントサイズ。
ちなみに訳もたくさんあります。
聖書協会共同訳、共同訳、新改訳、口語訳、文語訳。
さらに、おまけ的要素も色々です。
旧約聖書続編つき、引照つき、注つき、スタディ版など……。
ありすぎて草です、アーメン。
【主の御告げ】
聖書において、神が語りかける言葉や啓示を意味する。
御言葉のこと。




