第74話 ラッパッパのパ!
マグディエルは意を決して、ラッパをかまえた。
息を吸って、吹き込む。
「ぱぁ」
マグディエルは目を見開いて、ラッパからそっと唇をはなした。
マグディエルの耳に、聞こえた。右肩下がりの、なんだか情けない音。
ぱぁ、って。
急いで、もう一度吹いてみる。
「ぱぁ」
でた。
音。
音、でた……。
吹けたんだ。
吹けた。
ほんとうに、吹けたんだ!
マグディエルは、勢いよく立ち上がった。
立ち上がって、右往左往する。
出たい! 出たいけど! これ、出口どこ⁉
マグディエルは右往左往しながら、出口をさがした。とりあえず、入ってきたあたりの壁にふれてみる。水面のような波紋がひろがった。
勢いよく飛び込む。
飛び込んだ先は、虹色に輝くガラスにかこまれた、広い空間だった。
出れた!
マグディエルは走った。階段をかけあがる。
303号室。303号室って言ってた。
マグディエルは、駆け上がった先のドアを開けようとした、が、開かない。
え、なんで、開くって言ってたのに!
力をこめて押しまくるが、びくともしない。
なんでだ!
はっとして、扉を引く。
開いた!
引かなきゃいけないドアを押していた。
マグディエルは廊下の表示案内を、じれったくその場で駆け足しつつ見て、303号室をさがした。
どこ! 303! あった!
走る。
いくつものドアが後ろに流れて、目当てのドアが目の前に来た。ドアから、七色の光が漏れていて、音楽が聞こえる。
マグディエルは、勢いよくドアをあけて、飛び込んだ。
ちょうど、ナダブとアズバが一緒にマイクを持って、楽しそうに聖歌『たちあがれいざ』を歌っているところだった。マグディエルと目が合って、ふたりとも、びっくりしたようにマイクをはなした。
ナダブがデンモクを操作すると、音がやむ。
七色のミラーボールだけがそのまま回って、広いパーティールームをにぎわせているが、音はなく、しんとした。
ナダブがそばに来て、マグディエルの口元にマイクを向けた。
マグディエルは上がった息を整えて、みんなを見た。
みんな、こちらを見ている。
イエスとペトロがフードメニューの紙をにぎったまま、こちらを見ている。
アズバとマトレドが、お互いの手をぎゅっと握ってこちらを見た。
ミカエルとベルゼブブはルシファーをはさむようにして、くっついている。ルシファーが持っているデンモクを見ていたっぽい。
ナダブが、マグディエルにマイクを向けて「感想は?」と言った。
ラッパの音が鳴ったよ!
ぱぁって!
なさけない音だったけど、鳴った!
そう言おうとした。
言おうとして、口をひらいたとたん、マグディエルの両目からぼろぼろっと涙がこぼれた。あふれた涙は、両頬から勢いよく地にふりそそいで行くようだった。
ナダブが小さい声で「うわ」と言った。
マグディエルはそのまま、マイクに向かって言った。
涙でひきつれた喉が、しゃくりあげて、邪魔をする。
なさけないけれど、止められない。
「ら……らッ……ラッパッ……うぅ、ラッパぁぁ……、ラッパ……ッ……の……ぉと……、うぇぇ、ぱぁ……ってぇぇ。ラッパ……ッパの…………パぁぁぁ。うわぁぁぁぁ」
アズバが飛んできて、マグディエルを抱きしめた。
何度も、アズバがキスしてくれる。
額にも、頬にも、まぶたにも。
歓びがあった。
こんなに、嬉しくても、泣けるんだ。
感謝の気持ちが両目からあふれるみたいだった。
誰に?
みんなに?
すべてに感謝したかった。
イエスが拍手した。すると、みんなも拍手する。
マグディエルは泣きながら笑った。笑って、ありがとう、と言おうとした。でも、涙に流されて、ちゃんと音にできない。
イエスが優しい顔で言った。
「大丈夫ですよ、マグディエル。ちゃんと、伝わっています」
マグディエルは息をとめて、なんとか早口で言った。
「ありがと」
とつぜん。
風が起こった。
かぐわしい香りがあたりを包む。
眩い光とともに美しい天使が目の前に現れた。白い衣は太陽の暖かさと光を放っている。かがやく六枚の羽根は透き通るように白い。
あの日——、はじまりの日に、マグディエルの前に現れた天使がそこにいた。
手紙の天使だ。
美しい天使は、マグディエルの涙にぬれた両頬を、手でふわりと包み込み、額に祝福のキスをした。
「神は、渇く者には、いのちの水の泉から、値なしに飲ませます」
天使は優しく尊い声でそう言って、マグディエルの手に一通の手紙を乗せた。
マグディエルが、ぼうっと、天使を見つめると、彼は、慈愛に満ちた笑顔をマグディエルに向けた。
今まで見た熾天使の中で、いちばんに、優しく慈悲深く、天使らしく見えた。
なんて、美しいんだろう。
「ガブリエル、久しぶりですねえ」
ベルゼブブの声に、天使が急に表情を消した。
そのまま、ゆっくりとベルゼブブのほうに顔を向ける。
マグディエルは、表情が消えても美しいその天使の横顔を、ぼうっと見つめながら思った。
ガブリエルなんだ。
アズバが言っていたように、手紙の天使は、神のメッセージを伝える大天使だったんだ。
そうか。
それなら、神はい——。
「お前がなんでここにいるんだ、コバエ」
こわい声だった。
ガブリエルが、美しい顔をベルゼブブに向けて、優しく尊い雰囲気の声をひるがえし、乱暴な声で言った。
あまりの急変に、驚いてマグディエルの涙がひっこむ。
ベルゼブブが楽しそうな顔で答えた。
「コバエほども早く飛べない、ひよこに何を言われてもねえ」
たしかに、ガブリエルの髪は、ひよこっぽい色で、ふわふわしている。
急に、ガブリエルが、ベルゼブブに飛び掛かった。
なにごと⁉
突然の乱闘に、場が荒れる。
揺れるテーブル。倒れるグラス。中身がこぼれる。タンバリンが床に落ちて、ジャーンと鳴った。デンモクが地に転がる。
ガブリエルがベルゼブブを殴ろうとして、ソファを破壊する。
ベルゼブブはそれを避けながら、ガブリエルを蹴った。
蹴り飛ばされたガブリエルがぶっ飛んで、イエスとペトロを巻き込み床に倒れこむ。
ナダブとマトレドがおそれるように叫んだ。
アズバが嬉しそうな声で叫ぶ。
ガブリエルは、イエスとペトロを踏みつけながら、またベルゼブブに飛び掛かった。部屋の中で、熾天使の翼がおおきく羽ばたくたびに、何かが破壊される。歌詞を映し出していたモニターが壁から外れて、落ちて、すごい音をたてた。
ルシファーとミカエルは、乱闘の様子を興味なさそうに座ったまま見ていた。
ガブリエルがベルゼブブにつかみかかって、投げる。
投げた先には、マグディエルがいた。
うそだ!
マグディエルは、身構えて、目をぎゅっとつぶった。
あれ。
衝撃はなかった。
かぐわしい香りがする。
目をあけると、目の前にルシファーの横顔があった。
おや?
マグディエルは、ルシファーに横抱きにされて、彼の膝の上に座っていた。さっきまで正面に見えていた、ミカエルとルシファーが座っていたソファのある場所に、マグディエルはいた。
いつのまに?
自分の手を見ると、いつのまにか女の姿に変わっている。
近くにあるルシファーの顔を見ると、変わらず興味なさそうな顔で、さっきまでマグディエルがいたドアのあたりを見ている。
ドアがなくなっていた。
ドアが外れて廊下に横倒しに倒れている。
その上で、まだベルゼブブとガブリエルが取っ組み合いをしていた。
なぜかベルゼブブは、嬉しそうな顔をしていた。
なぜ?
マグディエルはとなりに座っている、ミカエルに向かって言った。
「止めてください」
「え~」
「え~、じゃありません、このままでは、カラオケ御座が破壊しつくされてしまいます」
「くそ、非番なのに」
ミカエルはしぶしぶと言った様子で立ち上がり、暴れているふたりの間に入った。
片方の手でガブリエルの腕をつかみ、もう片方の手でベルゼブブの腕をつかむ。ふたりとも、ミカエルの腕を振り払えず、その場から動けなくなったようだった。
——ミカエルって、強いんだ。
そこに、アブラハムが来て、ドアのないドアから、部屋を覗きこんで言った。手には、ドリンクを持っている。
「いやはや、ドリンクバーで飲み物を選んでいる間に、とんでもないことになりましたな」
本当に、とんでもないことです。
ミカエルに押さえられて、ようやっと落ち着いたガブリエルが、そのままパーティールームに加わった。荒れ果てた部屋の、破壊されていないソファに、みんなで座りなおす。
マグディエルも、ルシファーの膝から降りて、隣に座りなおした。
マグディエルはすこしの憤りを乗せて、言った。
「いったい、なんだって急に取っ組み合いをはじめるんですか」
まったく!
ラッパが吹けた感動の、あの感じを返してほしい。
完全に涙はひっこみ、歓びに打ち震えた心は、ドアと一緒に破壊されて消えた。
ガブリエルは、なんだかガラの悪い表情をして、ぷいっと顔をそむけた。
ベルゼブブが、答える。
「わたしたち、幼馴染なんです」
「えぇっ!」
一体、どんな複雑な事情があって、幼馴染と会った瞬間に殴り合うんだ。
ベルゼブブは、マグディエルの表情を見て察したのか、説明した。
「あ、これは、別にもめているわけじゃないですよ。愛情表現の一種です。ね、ガブリエル」
そう言うベルゼブブに、ガブリエルがまた、腕を振りかぶったのを、ミカエルが掴んで止めた。
こわいな、あの大天使。
どういう愛情表現なんだ。
ミカエルが、ガブリエルの腕をつかんだまま、やれやれといった声で言った。
「おまえ、相変わらずだな。天軍をクビになってから、よくその感じでメッセンジャー務まってるな」
ベルゼブブが、なんだかうっとりした顔で、ガブリエルに顔をよせて言った。
「相変わらず、ず~っと怒ってて、可愛らしいですねえ。よく見せてください、顔」
そういえば、ベルゼブブは怒っている顔が好きなんだっけ。
にしても……。
マグディエルはミカエルに向かって訊いた。
「天軍をクビに?」
「知らないのか? そっか、若い天使は知らないかもな。こいつ、熾天使の中では『狂犬』って呼ばれてるんだよ」
狂犬……。
「すぐ暴れるから、天軍をクビになって、ひとりでメッセンジャーをさせられてるんだ。まわりに誰かいたら、すぐに殴りかかろうとするからな」
なぜかアズバが憧れる、みたいな顔で「へぇ」と言った。
やめてください。
「でも、ガブリエルは、以前も今回も、わたしに手紙を届けてくれたときは、あんなに優しそうな……」
ガブリエルが、なんだこら、みたいな顔をマグディエルに向けたので、それ以上言えなかった。
こわい。
あんなに、熾天使の中で、いちばんに、優しく慈悲深く、天使らしく見えたのに。どういうこと?
ベルゼブブがガブリエルの顔を、うっとり見つめたまま言った。
「あ~、それは、ちゃんと営業スマイルですよね? お仕事はちゃんとしてるんですね~、えらいですね~ひよこちゃん」
ガブリエルがまた暴れようとして、ミカエルが押さえながら言った。
「おい、ベルゼブブ、煽るのやめろ」
あの、最高に天使らしい慈悲深い笑顔が……、営業スマイル……。
マグディエルは、ショックを受けたまま訊いた。
「じゃあ、あの、手紙を渡す前の、優しいことばと、あの尊い感じのキスは……」
ガブリエルが、がらの悪い顔でマグディエルの方を見て言った。
「なんだよ、なんか文句あるのか。ちゃんとマニュアルどおりやってるぞ、おれは」
マニュアル……。
マグディエルは、ショックのあまり、がっくりと項垂れた。
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おまけ ☆聖書豆知識☆
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【たちあがれいざ】
聖歌303番『たちあがれいざ』
ラッパ吹きの御使いが好きそうな二番の歌詞です。
ご唱和ください。
聞か~ずやラッパ~の♪ 声ぞ響く~♪
従~いまつ~れ♪ 主の招きに~♪
御力を~主~は♪ 授けませば~♪
群が~る仇も♪ 何か~は~あ~ら~ん♪
【渇く者には、いのちの水の泉から、値なしに飲ませる】
ヨハネの黙示録において、最も中二力が高いと思われる神のことば。
御座に着いておられる方が言われた。
「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。わたしは、渇く者には、いのちの水の泉から、値なしに飲ませる」
【ガブリエル】
「神の人」という意味の名前。
聖書においてガブリエルは「神のことばを伝える天使」として、よく登場します。
聖母マリアの元を訪れて、イエスの誕生を告げた「受胎告知」もガブリエルのお仕事。
西洋美術では、優美な青年の姿で描かれることが多いです。




