第73話 ついに、吹く⁉
マグディエルは、膝をかかえて、砂が落ちるのを見つめていた。
さらさらと、金色の砂が、くびれたガラスの中をこぼれ落ちる。
砂時計の金の砂は、もうそろそろ、すべて落ちようとしていた。
*
アブラハムが、みんなを促して言った。
「では、マグディエル様が部屋を使われているあいだ、われわれはカラオケでも楽しんでいましょう」
マグディエルは不思議に思って訊いた。
「ここにいてはいけないのですか?」
「万が一にも、音の影響があってはいけませんから、ガラスの部屋を使う時は、ひとりで使ったほうがよいでしょう。これを」
アブラハムが、マグディエルの手の上に綺麗な細工の砂時計を置いた。
「これは?」
「これは十分はかれる砂時計です。十分もあれば、われわれは外に出て、この部屋へと通じるドアに鍵をかけることができます。砂が落ち切ってから部屋をお使いください」
なるほど。
「外に出るドアの鍵は、内側からは開くようになっておりますので、終わればそのまま出てこられます」
アブラハムは、そう言って、出口へと足を向けた。
マグディエルは、ふと、思い立って、その背中に声をかける。
「あの」
アブラハムが振り向く。
「はい」
「この部屋は、私以外は使えませんか? わたしの友も、ラッパ吹きの御使いです」
アブラハムはにっこりと微笑んで答えた。
「もちろんお使いいただけますよ」
アズバとナダブの顔がぱっと明るくなった。
アズバがそばに来て、マグディエルをぎゅっと抱きしめた。
「あとでね、マグディエル」
「うん」
ナダブもそばに来て、マグディエルの翼をぎゅっとつかむ。
「どんな音だったか聞かせろよ」
「うん!」
*
さらさらと、金の砂が落ちる。
くびれたガラスの下の空間に、こんもりと山ができた。
砂時計の砂が、すべて、落ちた。
マグディエルは、顔をあげて、虹色に輝く部屋を見た。
ゆっくりと近づいてみる。
ほんとうに、どこにもつなぎ目がない。
ぐるりと一周まわってみる。
どこにも、つなぎ目がないけれど……、あれ? これ、どうやって、入るの?
しまった。アブラハムに聞くのを忘れていた……。
マグディエルは、どこか、開けられるような場所はないかと、部屋の回りをぐるぐるまわった。
ない……。
どこにも、何も、ない。
マグディエルは、近寄って、虹色に輝く部屋のガラスに触れた。
固い感触がするはずだった。
マグディエルの指は、すっと、水に触れるように、壁をつきぬけた。触れた場所から波紋が広がる。まるで、水面のようだった。冷たくはない。濡れたような感覚もなかった。
マグディエルは、おそるおそる、手首まで入れてみた。
むこうがわで手を振ってみる。
何もあたらないし、何の感触もしない。
思い切ってひじのあたりまで突っ込んでみる。
何もあたらないし、何の感触もしない。
顔を入れるのは、何だか不安だな……。溺れたりしないよね?
マグディエルは、そうっと顔をつけてみた。目を閉じて、息を止めて。
そして、ゆっくりと目をひらく。
え?
目の前には、見慣れた、すこし懐かしい景色があった。
マグディエルの部屋だ。
ラッパ吹きの丘で暮らしている、自分の部屋が目の前にあった。
思い切って、息をしてみる。大丈夫そうだった。
マグディエルは、そのまま、前にすすんで、部屋に入った。
なんだか、なつかしい。こじんまりとした部屋に、ちいさな暖炉、ひとりには十分の質素なベッド、小さな木製のテーブルとイス、窓際にアズバがくれたうさぎの可愛い置物までちゃんとある。
これも、ガラスの海のガラスが見せる、幻だろうか。
「あっ‼」
マグディエルはテーブルに駆け寄った。
テーブルの上に石がある。
ふたつの異なる輝きを持つ石がそこにあった。
ウリムとトンミムだ。
あれ、そういえば、ガラスの海で、ルシファーのまぼろしの足元にころがったあと……。そうだ、そのまま、拾わなかった。アズバとナダブが無事か確かめたくて、必死で走ってガラスの海を出た。その時に、置き去りにしてしまった。
手にとると、もうずいぶん、なじんだ重さがあった。
「なんで、ここにあるんだろう」
不思議。
ふたつの異なる輝きは、今はじっと沈黙している。マグディエルは、ウリムとトンミムを、そっと胸元に入れた。
懐かしいイスに座ってみる。
長年座っているイスは、なんだか身体にぴったりする。
見慣れたテーブルの上にラッパを置いた。
二千年もの間、見続けていた景色なのに、なんだか、すごく懐かしい。
マグディエルは、旅の間もずっと続けていたが、このテーブルとイスと一緒にしていた日課の、ラッパ磨きをした。
はしから順に磨き上げていく。
金色のラッパに自分の姿が映り込んだ。
ずいぶん……、遠くまできたんだな。自分の家が懐かしくなるほど。
ラッパを吹きたいって、思って、本当に吹けるようになるなんて思ってもみなかった……。取扱説明書くらい、もらえないかなって、思っていたけど。
二千年もかけて、預言をもとに、ラッパが吹ける部屋が用意されているなんて、もしかして本当に、神はいるんだろうか。こんな壮大な計画、神じゃなきゃできなさそう。
でも、ここにきても、まだ、神を感じられない。
神とは、何なんだろう。
ことばは神とは、どういう意味なんだろう。
あの時、ガラスの海で、ルシファーのまぼろしに『なぜわたしを疑うのか』と言ったとき、なぜ、自分のことばに不思議な響きがあったんだろう。
マグディエルは、ガリラヤ温泉でのユダが言った聖句を思い出した。
『神はどこにもおられる。たとえ天に上ってもそこにおられ、よみに床を設けても、そこにおられる』
神がどこにでもいるというのなら——、天にも、よみにもいるのなら、もしや、外にも内にも、いるのだろうか。
エレデが、うちなる声と呼んだものは、なんだろう。
心のうちにさえ、神はいるのだろうか。
分からない。
分からないけれど。
ことばは、たしかにマグディエルの内側から現れ出た。ラッパを吹きたい。御座を見たこともなく、神も知らない。だから、御座を目指そう。たしかに、その思いと、ことばは、マグディエルの内から現れ出た。
ヨハネの預言を思いだす。
『あなたが、あなたとともにするとき、あなたのもとに主がおられる』
自分の心とともにするとき、内から現れ出たことばとともにするとき、神とともにあるのだろうか。
——。
うーん。
やっぱり、神は感じられないけどなあ。
でも、あの聖句は、信じてもいいような気がした。
『求めなさい、そうすれば与えられます。捜しなさい、そうすれば見つかります。たたきなさい、そうすれば開かれます』
ラッパを吹きたいと、求めれば、与えられた。簡単ではなかったけれど。
誰も知らなかったシオン山と御座は、捜せば、見つかった。ずいぶん、大変だったけれど。
すべての道は、たたけば開かれた。いろんなひとに助けられて。
すべての汚れを拭い去ると、ラッパは全て見えているというように、まわりの景色をうつした。マグディエルの顔がおかしくゆがんで映り込む。
「よーし」
マグディエルはラッパをかかげて、唇をあてた。
よし、吹くぞ。
——。
うん。
いったん、離す。
深呼吸。
「うんうん、よーし」
唇をぎゅっとしてから、ラッパをあてる。
よし! 吹く!
——吹く!
えいっ!
「——」
だめだ……。
こわくなってきた。
マグディエルはラッパから唇をはなして、胸を抑えた。いつものやつだ。嫌な動悸がする。
ダビデの城で百本笛をダメにした、あのおそろしい気持ちがよみがえる。
粉々になったり、しないよね?
これ、大事な、ラッパだから。
さすがに、粉々になったら、終わるよ?
粉々になったら、ルシファーの羽を全部抜いても、もとには戻せないかもしれない。
こわいよ。
なんだか、頭が痛くなってきた気がする。
涙まで、出て来た。
マグディエルは、ひとりで、ラッパを握ったまま、ぐすぐすやった。
マグディエルは泣きながら、笛をかまえた。
目をぎゅっと閉じて、息を吹きこもうとした。
そして、離して、泣く。
五回ほど繰り返した。
いったん、テーブルにラッパを置く。
深呼吸して。
こんなときは、どうするんだっけ。
こんなときは——。
そう、こんなときは、推し結界だ‼
マグディエルは思い出した。ヨハネの愛らしい顔と、鳶色の瞳、素敵な笑顔、そしてキス! 額、右頬、左頬、よし!
——あと、写真も、見ておこう。
スマホを取り出して、写真アプリをひらく。しっかりと、ヨハネとの写真を見た。あと、水着美女三人の写真も見た。ちょっと落ち着いてきた。しばらく水着の写真を見る。もう、大丈夫かもしれない。
マグディエルは意を決して、ラッパをかまえた。
息を吸って。
吹き込んだ。




