第68話 イエス VS ルシファー
マグディエルは、テニスコートを見てぽかんとした。
え、すごい人いる。
ホテルのテニスコートは、本格的で、コートの四方を観客席が取り囲んでいる。そこには、ひしめくようにたくさんの人がいた。
アズバが観客席の上部を指して言った。
「すごい、なにあの横断幕」
ナダブが感心したみたいに言う。
「手作り感がすごいな」
「さっき書きましたって感じよね」
赤いペンキで文字が書かれている。乾かないうちに吊るしたのか、ペンキがたれて、まるでおどろおどろしい、血文字みたいになってしまっている。
横断幕にはこう書かれていた。
「イエス VS ルシファー 天国と地獄の真剣勝負! 真の明けの明星の座はどちらに⁉」
ナダブが突っ込む。
「テニスで明けの明星の座をきそうなよ」
イエスとルシファーが、御座シティでテニスの勝負?
マグディエルは、心配になって言った。
「ルシファーがアウェイすぎない?」
ここは天の国の、しかも神のための座である御座のおひざもとだ。
ナダブが頷いて言った。
「おれらはルシファー応援するか」
午後はかるくテニスをして遊ぶくらいのつもりでいたのに、一体なぜこんなことになってしまったんだろう。
遅れて合流したロトとペトロに聞いてみる。
「いつの間に、こんなの用意してたんですか? おふたりとも知ってました?」
ペトロは「いいえ、わたしも今知りました」と答える。
ロトはにっこりして言った。
「実は昨日、みなさんが部屋に行かれた時に、わたしからイエスとルシファーにお願いしたんですよ。御座シティは、あんまり新しい娯楽とかないですからね」
アズバがしれっと言った。
「わたし、実は知ってたわ」
「えっ、そうなの?」
「ええ、たまたま、聞いちゃったのよね。でも、イエスがどうしてもサプライズしたいから、秘密にしといてくれっていうの」
なるほど。
イエスなら、言いそう。
ロトが観客席をながめて感心したように言った。
「あの観客席、昨日から突貫工事で座天使たちが作ってくれたのですが、かなり本格的ですね」
「えっ」
イエスとルシファーの試合のためだけに作ったのか。
ロトに案内されて、マグディエルたちは観客席ではなく、テニスコートの横にある、腰上ほどの高さの防壁の裏に陣取った。テニスコートを間近に観ることができる。
しばらくするとイエスが出てきた。
観客席から歓声があがる。
ひきしまった筋肉質の身体に、ウェアがよく似合っている。
次にルシファーがあらわれた。
観客席がしん、とした。
マグディルたちだけが、必死に拍手して「よっ! ルシファー! かっこいい! サタン様!」とか叫んで応援した。しんとする会場にむなしく響く。
なに、この空気、こわい。
マグディエルの胃がきりきり痛む。
ルシファーはとくに何とも思っていなさそうな顔だった。羽ばたいて飛び上がり、一方の観客席に近づく、観客席から恐れるような声がちいさく聞こえた。ルシファーはしばらく、じっと惑わすような微笑みをむけたあと——。
キスを投げた。
とたんに、女性陣から黄色い声が上がった。
四面の客席すべてに、しっかり投げてまわる。
よく、そんなことできるな。
いや、ルシファーだからできるのか。
そして、姿を女に変えた。
うわぁぁっ、なんて、まぶしいスコート姿!
ルシファーはもう一度、四面すべての客席に、今度は満面の笑顔と、両手でかわいく手を振って見せた。客席からは男性からも女性からも歓声と「かわいい」の声が飛んだ。
そして、テニスコート中央の上空に移動すると、手をひとふりした。
花火があがる。
客席から、完全に歓迎的な歓声があがった。
一気にアウェイの空気を一掃するルシファー。
そしてルシファーが手をかざしながら、ぐるりと観客席の上空を旋回した。
何か降ってくる。
マグディエルの手元にも降ってきた。マグディエルの目の前で、どうぞ、というようにふわふわと浮いている。どうやら観客席すべてに降り注いでいるようだった。
ミニサイズの団扇だ。
片面にイエスが印刷されていて、もう片面にルシファーの女と男の姿が印刷されている。両面に『明星決戦!』と書かれていた。
いつのまに、こんなもの用意したんだ。
ちょっと暑いから団扇は助かる。使える無料配布、すごい。
アズバが団扇を見て言った。
「昨日イエスとルシファーが言ってたの、これのことだったのね」
「何て言ってたの?」
「日本の印刷業者なら、なんとかしてくれるって言ってたわ」
日本の印刷業者?
わざわざ、日本で印刷したのか。
試合がはじまると、最初のうち、ふたりは普通に打ち合っていた。ルシファーは、気分でなのか、気まぐれに女に姿を変えたり、男に姿を変えたりしながら、打ち返している。
器用だな。
徐々に、ラリーが白熱する。
ふたりとも、前後左右に大きく走る局面がふえてきた。
ルシファーの打ったボールが、イエスの位置から遠い場所をするどく狙った。
あ、イエス、もしかして間に合わないかも?
そのとき、イエスが叫んだ。
「ボール来なさーいッ!」
すると、ボールがまるで呼び寄せられるようにイエスの方にぐいっと曲がって飛んだ。
反則では……。
御座ゲートの受付にいた女性が審判をしていたが、イエスの反則じみた技を見て、ぽかんとしていた。
そうだよね……。
ボールを呼んではいけないっていうルールはないだろうし、もう、ぽかんとするしかないよね。
イエスは、手元に来たボールを調子よく打ち返した。
イエスのとんでもない技に対抗してか、それまで、翼を使わなかったルシファーが、飛び上がって色んな場所から打ち返し始める。もうそれは、放っておいたらエリア外でしょう、というボールまですべて、すごい勢いで打ち返し始めた。
飛んではいけないという、ルールもないか……。
人のための遊戯に、神の子とサタンをしばるルールなど存在しない。
イエスは「ボール来なさい!」を連発した。
しかし、徐々にスピードを増すラリーにイエスの言葉が追い付かなくなる。ボールの着地寸前での「来なさい」が増えて来た。
打ち返しながら、イエスが大きな声で叫んだ。
「光あれーッ!」
ボールが光った。
とんでもない発光体になったボールは小太陽のようだった。
まぶしくて見えない。
同時にルシファーが大きな声で返した。
「冥府の門よひらけ」
あたりが闇につつまれる。
闇に抑えられて、なんとか光のボールが目視できるようになる。
いきなり、炎が上がった。すごい勢いで燃え上がる。暗い赤のようにも、金色にも見える炎が、テニスコートと観客席を取り囲むように燃え上がった。
観客席から恐怖の声が上がる。
闇につつまれるテニスコートと観客席を、冥府の炎と、光のボールが照らし出していた。
イエスとルシファーは、おかまいなしに、そのままラリーをつづけている。どうやら、ボールがまぶしすぎて、ふたりとも先ほどより勢いがない。イエスは自分で光らせたのに「まぶしーッ」とか「目が痛―いッ」とか文句を言いながら、打っていた。
突如、上空の闇の中から、なだれ込んで来るものがあった。
天使に似た姿のものもいるし、黒い翼を持つ者も、獣のような姿のものもいる。
悪魔の群れだ。
闇の中から、次々と、悪魔が入り込んできた。悪魔たちは、まるで見ものするようにテニスコートの上をぐるぐると旋回し始めた。
観客席からは、いよいよ、恐怖の声が高まる。
ロトが、そんなに焦っていなさそうな声で言った。
「とんでもないことになってきましたねえ」
「とんでもなさすぎますよ!」
マグディエルは、もう胃が痛み過ぎて、吐き気までしてきた。
悪魔の群れの中から、ゆったりと優雅に、マグディエルのもとに降り立つ者がいた。
ベルゼブブだった。
「こんにちわ、マグディエル。なんだか面白いことになっていますね」
「面白くはないです。あの飛んでいるの、すべて悪魔なんですか」
「ええ、そうですよ。みんな面白がって地獄から見に来たんです。天国に向かってこんな大きな門がガッバガバであいたら、誰だって覗きたくなるでしょう?」
イエスがラリーをつづけながら叫んだ。
「ルシファー! やりすぎですよ! 冥府の門を開くなんて!」
ルシファーも打ち返しながら答える。
「さきにズルしたのは、そっちだろう」
それは、そう。
イエスは光るボールを打ち返しながら、続けて言った。
「しょうがない! 天軍カモーンです!」
すると、イエスの背後に光が広がった。
まるで大きな光の門のように見える。
しばらくすると、そこから、勢いよくなだれ込んで来る者があった。
天軍だ。
先頭をミカエルが飛んでいる。
勢いよくなだれ込んだ天軍は、悪魔たちの旋回するテニスコートの上空に舞い上がって、同じように旋回しはじめた。悪魔も、天使も、お互いの様子をうかがいながら、けん制し合うように上空を旋回する。
ナダブが上空を指して叫んだ。
「マトレドだ!」
目をこらすと、悪魔の中に混じって、マトレドが大きな翼をひろげて、立派に飛んでいる。
かっこいい。
こんな状況になっても、イエスとルシファーのラリーはおかまいなしに続いていた。
旋回している天使の群れの中から、輝く六枚の翼をひらめかせて、急降下してくる者があった。
ミカエルだ。
ミカエルは、マグディエルのそばに降り立ち、厳しい顔つきで睨んだ。
睨む先には、ベルゼブブがいる。
ちょうど、マグディエルを挟み合うような形で、おそろしい視線を交わす二人に、マグディエルは震えた。
もういやだ!
テニスで遊ぶだけだと思っていたのに!
なんで、こんなことに!




