第65話 恐怖の裏側
ナダブは、いくつもの窓を眺めながら、ガラスの海を歩いた。
ガラスの海に入ってすぐは、深い霧でなにも見えなかったが、そのうち窓が現れるようになった。水晶のようにかがやくガラスの壁に、窓がある。
窓の向こうには、様々なものが見えた。
ひとつの窓をのぞくと、なつかしい景色があった。
ナダブが、座天使に世話されていた家を出た日の風景だった。おなじ家で育った天使が、家の前に集まって談笑している。新しい生活にわくわくと顔を輝かせている。
みんな、大人の姿をしていた。
見た目の年齢に差はあっても、みんな大人だった。
ナダブ以外は。
マグディエルの隣で、なにか話している自分の姿が見えた。大人になったマグディエルより、背も小さく、たよりなげな子供のような姿の自分がいる。
ナダブは、その窓をはなれて先へ進んだ。
また、窓が現れる。
窓の先に、自分がいた。今の自分と背丈は変わらなさそうだが、細くてひょろっとしている。
鍛える前だな。
ほんと、ちっさいし、ひょろひょろだし、頼りなさそう。
次の窓をのぞく。
いつだったか、マグディエルとアズバと地上に行った時の、風景だった。夜の社交場に入ろうとして、止められている自分の姿があった。
不便なんだよな、この姿。
お酒とか煙草とか、この姿だと地上で楽しむのに一苦労だ。煙草は吸わないけど。
次の窓では、マグディエルが泣いていた。
ずっと泣いているのに、誰もマグディエルの背をなでるものがいない。
大丈夫かよ……。
次の窓にもマグディエルがいた。
サタンの腕に抱かれ、炎につつまれて、ゲヘナに下ってゆく。
分かった。
これは恐れだ。
マグディエルが一人で泣いてるとか、サタンに連れ去られるとかは、最近のはっきりとした心配事だ。それに、むかしの記憶は、自分が成長できないことへの恐れだった。
なるほどな。
ガラスの海は恐れを見せるのか。
そうと理解したとたん、霧がはれた。
ふん、あらためて見せてくれなくても、わかってるよ。余計なお世話だ。
ナダブは歩きながら、先に見え始めた出口に向かった。壁にある窓をひとつずつのぞいていく。半分くらいマグディエルだった。
おれ、どんだけ、マグディエルのこと心配してんだよ。
ナダブはおかしくなって笑った。
あいつ、ほんと、心配ばっかりかけるからな。
しょうがない。
ガラスの海はあっという間に終わった。
出口を出ると、すぐそこにイエスがいた。
ナダブはぎょっとして立ち止まった。
イエスのとなりにルシファーがいる。
ナダブは思わず言った。
「びっ……くりしたあ」
ルシファーがナダブに気付いて、穏やかに微笑み、あいさつをした。
「やあ、ナダブだね、こんにちわ」
「こ、こんにちわ」
ナダブは挨拶を返してから、息をすいこんだ。
とんでもなく、いい匂いだな。
出口からアズバが出てきた。
「あら、ルシファー、こんにちわ」
「やあ、アズバ、こんにちわ」
アズバとルシファーが、普通のことのように挨拶する。
なんで?
ナダブが戸惑っていると、イエスがニコッとして言う。
「ルシファーも一緒に御座観光したいんですって」
「えっ!」
それって、あり?
戸惑ったままでいると、出口からペトロが出てきた。
ペトロはルシファーに気付くと、イエスのもとに走った。走って、イエスをルシファーから隠すように立ち、大きな声で叫んだ。
「サタンよ去れーーーーーッ‼」
近くを歩いていた人が驚いた顔で立ち止まり、そのあとひそひそ話しながら、去ってゆく。
ナダブはおそるおそるルシファーを見た。
気分を害しているかと思ったが、微笑んでいる。何を考えているかは読めない感じの顔だった。ペトロの目の前まで、ルシファーがゆっくりと近づいた。微笑んだまま。
こわ。
ペトロは若干、表情はひるみつつも、イエスの前に守るように立ち、動かない。
イエスがペトロのうしろで嬉しそうに言った。
「もう、ケファったら~。かっこいい♡」
ペトロとルシファーが至近距離で、見つめ合う。
どうするつもりだ、と思っていると、ルシファーが姿を変えた。ナダブよりも背の低い天使の姿になる。ペトロの胸ほどの高さしかない。
あどけない少女の姿だった。
かわいい。
アズバが小さい声で「かわいい!」と叫んだ。
ルシファーは、ペトロの顔を見上げて、目をうるませた。
いかにも悲しいという顔で言う。
「ペトロは、わたしのことが嫌いなの?」
あ、これは、きつい。
嫌いなんて言えるか、これ?
アズバが小さい声で「かわいそう!」と叫んだ。
ペトロが苦しそうな顔で声を発した。
「き……、きら……、うぅっ」
ルシファーが胸元にちいさな手を重ねるようにして言った。
「どうしたら、好きになってくれる?」
ペトロが苦しそうなうめき声を出した。
イエスがペトロの肩先から、ルシファーのほうをのぞきこんで言った。
「ごめんなさい、したら仲良くなれるんじゃないですか? ペトロはいまだに、私が磔にされたのがトラウマなんです」
ルシファーは眉をさげて、もうほんのすこしで泣きそうだよ、という顔をして言った。
「ペトロ、ごめんなさい。ゆるしてくれる?」
それでも答えないペトロに、ルシファーが震える声でとどめをさす。
「だめ?」
そう言って、美しく輝く右の目から、ひとつポロリと涙をながした。
ゆるさないとかできるか、これ?
無理だろ。
ペトロが頭をかかえて「イヤーッ!」と叫んだあと、疲れ果てた顔で言った。
「ゆるします」
「じゃあ、キスしてくれる?」
びっくりした。まだ、とどめがあった。
差し出されたルシファーの頬が、涙でぬれている。
ペトロがそっと涙をぬぐってから、キスをした。
これはもう、完全に落ちたな。
ペトロの顔が離れると、ルシファーが泣いていたのが噓のように満面の笑みで言った。
「チーズケーキを買ってきたんだ。ペトロが気に入ってくれるといいけど」
ペトロが胸をおさえて「うぅ」と言った。
可愛いと思ってるな、あれは。
イエスが急にペトロを横におしのけて叫んだ。
「どこのチーズケーキですか‼」
「りくろーおじさん」
「なんですってー‼ まさか朝から並んでくれたんですか⁉」
「うん。人数分あるよ」
イエスが、何かよく分からない叫び声を天に向かって叫んだ。
ルシファーがナダブの目の前にくる。
ルシファーのほうが背丈が小さい。
明けの星が輝くひとみが、こちらを見上げて微笑んでいる。
「ナダブとは、はじめて話すね。仲良くしてくれる?」
「お……は、はい」
あぶない、見た目が小さいから、おう、って言うところだった。
ルシファーが、すこし首をかしげて言った。
「ねえ、ナダブはもしかして、丁寧に話すの苦手?」
「うん」
「じゃあ、もっと気楽に話してくれるとうれしいな。そうしてくれる?」
「え、いいの?」
「うん」
もしかして、すごくいいやつかもしれない。
ルシファーが、アズバのところに行く。
「アズバひさしぶり。今日はゆっくり話せるね」
「ええ、ルシファーその姿とってもかわいいですね!」
「アズバのほうが可愛いよ」
「あら」
アズバが嬉しそうに微笑んだ。
「これは、アズバに似合いそうだったから、特別に」
ルシファーのてのひらの上に、美しい細工の何かがあった。
アズバが受け取る。
「わあ、かわいい手鏡。いいんですか?」
「うん、もらってくれると嬉しいな」
アズバが嬉しそうに、手鏡をぎゅっとした。
しばらく雑談していると、ペトロが、ガラスの海の門を眺めながら言った。
「マグディエル出てきませんね」
イエスがニコッとして言う。
「イエスノー占いしてみましょうか。マグディエルが出てくるまで、どのくらい時間かかると思います?」
ルシファーが「三時間」と答えた。
おそ。
イエスがコインをかまえて言った。
「よーし、では、マグディエルは三時間以内に出てくる! イエスなのかい! ノーなのかい! どっちなんだいッ‼」
コインが飛ぶ。
「でてくーーーーー」
裏だった。
「ない‼ え! 三時間以上かかりますか。大変ですね、マグディエル」
その後、イエスは一時間ごとに刻んで占った。
結果は、五時間以内には出てこない、六時間以内には出てくる、だった。
アズバが不安そうな声を出した。
「五時間も出てこないの、マグディエル」
ルシファーがなぐさめるように、アズバの手を握った。アズバが「かわいい」と言って、ルシファーを抱きしめる。
ナダブはため息をついて言った。
「え~、めちゃくちゃ暇じゃん」
マグディエル、あいつは、どこまで不器用なんだ。
ほんとに、無事に出てくるんだろうな。
ルシファーがアズバの腕の中から言った。
「ナダブ、ゲーム好き?」
「ゲーム、好き」
「スイッチ2買ってきたから、一緒にしよう」
「スイッチ2⁉」
発売したばっかりの⁉
神じゃん。
ルシファーのおかげで、退屈せずにすんだし、チーズケーキは今まで食べたことがないほど美味しかった。特にペトロがチーズケーキを気に入りすぎて、ルシファーが「また買ってくるね」というと、ルシファーの頬に感謝のキスをするほどだった。
そろそろ五時間たつ、という頃に、じゃんけんで負けて、ペトロがガラスの海の門でマグディエルを待つことになった。
しばらくして、ルシファーが元の姿に戻って言った。
「心配だから、わたしも見にいってくるよ」
ルシファーはマリオカート一位の座を、明け渡して門へ行った。
ルシファー、やっぱり、いいやつじゃん。




