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第60話 欺瞞、そして、誘惑

 ガラスの海の壁には大きなひとつの門があった。門は大きく開け放たれている。門の向こうは濃霧がたちこめ、すこし先も見通せなかった。


 身体の大きなアヒさんが右肩に小さいネフィリムを乗せ、左手で大きなネフィリムを抱えて言った。


「門の先は、一緒に入ったとしても、ひとりで進むしかない。御座みざにふさわしいものだけが通れるようになっているんだ。まあ、慣れたらふらっと歩いて御座からこっちまで遊びに来れるくらいだ。気負う必要はないが、飛ぶことはできないからな。気をつけて行くんだぞ。ネフィリムはわたしが森まで送ってやるから心配するな」


 なんで平気そうなんだろう。


 マグディエルはじんわり痛む頭で、元気そうなアヒさんを羨ましく見上げた。昨日の夜、間違いなく一番酒を飲んだのはアヒさんだった。テキーラをひとりで三瓶まるっと空けた勢いだった。


 昨夜は完全に騒ぎすぎた。


 気づいたときには、マグディエルはペトロと一緒に浜辺で転がって寝ていた。アズバとナダブは早々にコテージに引き上げたらしく、けろっとして起きてきた。アヒさんとイエスとネフィリムふたりは、どうやら朝まで飲んでいたらしい。しかし四人とも平気そうにしている。


 おそるべし、シェムハザの子。


 あの小さな体で、飲み物がいったいどこに消えているのか分からないが、アヒさんの次に飲み、アヒさんが飲み友達認定していた。


 マグディエルたちは、アヒさんとネフィリムに、それぞれ別れの挨拶をして、門の前に立った。


「さて、行きましょうか。中ではひとりで進みますから、次に会うのは御座の前です」


 イエスの言葉にみな頷く。


「では」


 マグディエルたちは並んで、門の内側、濃霧の中へと進んだ。



     *



 ガラスの海の内側に入ると、濃い霧に包まれて、すぐに誰の姿も見えなくなった。呼びかけても、誰も答えない。しばらく、真っ白な霧の中をおそるおそる進んでいると、少し霧がうすくなった。まだ先の方までは見通せないが、周りの様子はわかる。


 まるで迷路だった。


 白みがかった水晶のようなガラスの壁が、入り組んだ道を作り上げている。道幅は広くなったり狭くなったりしながら、二股に分かれたり、行き止まりになったりする。


 一時間ほども歩いただろうか、マグディエルはふと、かぎなれた香りがしたような気がして立ち止まった。


 ルシファー?


 進む先の霧のむこうから、ほのかに漂ってくるかぐわしい香り。よくかいでみる。間違いなく、彼の香りがした。


 先へ進むと、ひらけた公園のような場所に出た。まわりにいくつか木が生えていて、ベンチもある。


 そこに、ルシファーがいた。


 マグディエルに気づくと、ルシファーは魅力的な微笑みをこちらに向けた。


「やあ、マグディエル」


 マグディエルは走り寄って、問うた。


「ルシファー? なぜここに?」

「やり方を変えようと思ってね」


 ルシファーの微笑みはいつも通り優しそうに見えるのに、なぜだか怖い感じがした。


「やり方?」

「きみがわたしに、つれなくしてばかりだから、やり方を変えることにしたんだ」


 マグディエルは戸惑って訊いた。


「ルシファー? 何の話をしているのです?」


 ルシファーがマグディエルの腕をつかんで引き寄せた。とたんに、マグディエルの姿が女になる。


「友だちになる話だよ」

「わたしたちは、もう、友です」


 ルシファーがしょうがないな、という風に笑った。


「わたしは悪魔だからね。とっても欲深いんだ。きみのとっておきの友だちになりたいんだよ」

「わたしは、あなたのことを大切に思っています」

「知っている。でもそれじゃ満足できないんだ」


 ルシファーは微笑んでいるのに、冷え冷えするような眼をしていた。


「わたしのために、お返ししてくれるんだろう?」


 マグディエルは、おそるおそる答えた。


「はい、親切なあなたのために、わたしにできることはありますか?」

「あるよ。わたしを一番の友だちにしてほしい」


 マグディエルには答えられなかった。そのルシファーの望みに答えるために、一体どうすればいいのかが分からない。


「わたしには、どうすればいいのか分かりません。大切に思うだけではいけませんか?」


 ルシファーがマグディエルに顔をよせて、耳元で囁いた。


「マグディエル、わたしではなく、神を呼んだな」


 ぞっとするような声だった。小さな囁きだったのに、怒りを感じる。


 ルシファーがゆっくりと顔をはなして、微笑んだ。


「きみがわたしのことを呼ぶように、誘惑したが、きみにはそのやり方は効かないらしい。だから、やり方をかえることにした」


 マグディエルの腕のふるえに気づいて、ルシファーがなぐさめるように優しい顔をして言った。


「ああ、こわいのかい? わたしたちは友だちなのに? ずいぶん前に言ったことがあったろう。『わたしはきみの望まないことはしたくない。望むことだけを叶えてあげる』とね。——きみがわたしだけを望むようにしてあげる」


 マグディエルはおそろしくなって、ルシファーの腕から逃れようともがいた。


「動くな」


 まるで呪いのような力のある言葉だった。ルシファーにそう言われると、マグディエルの身体は硬直したようにその場から動かなくなった。


「わたしがいいと言うまで、声を出してもいけないよ」


 マグディエルの喉が、今までのやり方を忘れたように、何の音も出せなくなった。


 ルシファーがマグディエルからすこし離れると、公園の向こうから足音が聞こえた。霧の中からアズバが現れる。不安そうにまわりを見ながら進んできた。


 ルシファーに気づく。


「ルシファー?」

「やあ、アズバ、こんにちは」


 優しい声でルシファーが答える。アズバは礼儀正しく挨拶を返した。すぐ近くにいるのに、アズバはマグディエルのほうには目もくれない。


 見えていないんだ。


「もしかして、マグディエルに会いに来たんですか?」

「いいや、今日はきみに会いに来たんだ」

「わたしに?」


 ルシファーが、アズバの足元をみて言った。


「もしかして、転んだのかい?」


 アズバの膝のあたりの服が、土で汚れていた。


「あ、ええ、霧の中でうっかり足をひっかけてしまって」

「痛む?」

「すこし」

「おいで」


 ルシファーがアズバの手をとって、マグディエルの目の前にあるベンチに彼女をすわらせた。ルシファーがとなりに座った。


「見せて、アズバ。きみがいやでなければね」


 アズバは頷いて、裾をたくしあげた。膝が赤くなっている。擦りむいてはいないようだった。ルシファーがそっと撫でると、赤みが消える。


「どう? 痛くない?」

「はい。ありがとうございます、ルシファー」


 ルシファーは、アズバの裾をそっともどして、土をはらった。アズバは嬉しそうに、恥じらった。


「今日は、わたしに何かご用ですか?」

「用事がないと来てはだめ? ただ君に会いたかったんだ」


 アズバが恥じらうと、ルシファーが「迷惑だった?」と遠慮するように首をかしげた。


「いいえ、迷惑だなんて。マグディエルから、あなたがとっても親切だって聞いています。彼の友だちなら、わたしもぜひ仲良くしたいです」

「よかった。前に会ってから、ずっと君のことを考えてた。とっても魅力的だから」


 アズバが口元に手をやって笑った。


「やだ、からかわないでください」


 ルシファーが彼女の手をそっと取って、近寄る。


「わたしは、からかったりしない。本気なんだ、アズバ。きみがのぞむなら、何だってしてあげる。きみにはそれだけの価値がある」

「価値が?」


 そう言った、アズバの目が、ぼうっとルシファーを見た。


「そうだよ。さあ、きみの望むものを見せてごらん」


 ルシファーがアズバの瞳をのぞきこむ。


「ふうん、きみは、物語にあるような人の女と人の男の関係に興味があるんだ」


 アズバが目をそらそうとすると、ルシファーの手がそれを阻んだ。かるく顔に手をそえただけのように見えるが、アズバはそのままルシファーから目を離せなくなったようだった。


「人の女のように、守られて大切にされてみたいんだ。かわいいね」

「変ですよね」

「なぜ? 変じゃないよ。きみはじゅうぶんに魅力的だし、そうされるだけの価値がある」

「ほんとうに?」


 アズバの表情が、躊躇うようなものから、様子を伺うようなものに変化した。


「ああ、アズバ。きみが許してくれるなら、わたしがそうしたい。わたしではだめ?」

「でも」

「まだ、よく知らないからこわい?」


 アズバが頷いた。


「わたしはきみの望まないことはしたくない。望むことだけを叶えてあげる」


 ルシファーはアズバをとらえていた手を放した。そして、アズバの額に祝福のキスをした。マグディエルのところにまで、ぼうっとするようなルシファーの香りが漂ってくる。


 ルシファーが手をひとふりすると、アズバの姿が人の女に変わり、ルシファーの姿は人の男に変わった。


「きみのなかに、もうひとつ、望みが見えるよ、アズバ」


 アズバがじっとルシファーを見た。


「きみは、求められてみたいんだ」


 アズバが恐れるようにして立ち上がった。

 ルシファーもゆっくりと立ち上がって、彼女の前に立つ。


「人の女がされるように、男から求められてみたい。ちがう?」


 アズバはショックを受けたような顔をしていた。


「恐れることはない。きみはただ、誰よりも大切にされ、必要とされ、求められ、だれかの腕の中で守ってもらいたいだけだ。それは、おかしなことじゃない」

「いいえ、おかしいです。そんなことを望むのは変よ」


 アズバはそう言うと、ぎゅっと眉を寄せた。彼女の瞳に、じわと涙があふれる。


「わたしは望んでいるよ。きみが欲しい。アズバ」


 ルシファーがそっとアズバの涙を拭う。


「マグディエルに守ってもらいたかった?」


 ルシファーがそう言うと、アズバは大粒の涙を流した。


「でも、彼はきみを守れない。そうだろう? 守るどころか、きみにいじわるを言って、傷つけた」


 アズバは苦しそうな顔をした。


「ああ、アズバ、泣かないで。きみが悲しむと、わたしも悲しい。どうかわたしに、きみを守らせてほしいんだ。きみの身も心も、魂さえも、すべて守るよ」


 ルシファーがアズバの涙を唇でぬぐい、抱きしめた。アズバはしばらく、ルシファーの腕の中で泣いていた。ルシファーがその背をやさしくなでる。


 アズバが泣き止むと、ルシファーは彼女の唇にキスをした。


 アズバは最初、戸惑っていたようだったが、ルシファーがその背や肩を落ち着かせるようにゆっくりと撫でると、そのうち、受け入れた。


 それは、天使がするような、与えるだけのキスではなかった。


 ルシファーは、アズバの機嫌を伺うかのように、なんどもついばむようなキスを与えた。アズバが肩の力を抜いて受け入れると、まるで彼女から何かを奪おうとするかのように長いキスをする。抵抗するように握り締められていたアズバの手は、何度目かの深いキスで、ひらいて、ルシファーの腕に触れた。


 そのキスは、与えあうようにも見え、求めあうようにも見え、また、奪い合うようにも見える。


 残酷だけれど、ふたりのその姿は美しかった。



 マグディエルは、ただ黙って見ているしかなかった。


 声を失っていなかったとしても、きっと、そうだったに違いない。


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