第58話 主よ、人の望みの喜びよ
マグディエルは祈った。
どうか。
どうか、彼らの思いをお守りください。
どうか、彼らにその手を差しのべてください。
罪をはかるというのなら、わたしにその罪の重さを、ともに持たせてください。
ゆるしの時がまだだというのなら、わたしの時を彼らに与えてください。
主よ、彼らをささえてください。あなたが定められたさばきのうちに、どうか、愛のゆるしを与えてください。彼らがよろめきたおれてしまわぬよう。彼らが手を取り合えるよう。
その手が冷え切ってしまわぬよう、どうかみひかりで彼らをあたためてください。
マグディエルの瞳から、ぽとりと落ちた涙のひとしずくが、ネフィリムの頬におちた。
ネフィリムの頬にあるしずくが、ゆらいで光る。
足元から、光を放つものがあった。
ウリムとトンミムが、じわりと光を放っていた。呼吸するように、やわらかな光が波打つ。何度目かの波ののちに、光がはじけた。
ウリムとトンミムが、太陽のごとく光を強める。
マグディエルはあまりのまぶしさに、ぎゅっと目を瞑った。
光の中で、かすかに声が聞こえた。優しい声だった。マグディエルには分からない、古い言葉なのに、なぜか、伝わってくる。
『どうか君のもとに幸せがおとずれますように。いつだって、ぼくがきみの幸せを願っていることを忘れないで』
だれかの幸せを願う、純粋な思いがあたりに満ちる。
マグディエルの右肩に、あたたかなものが触れた。
目をあけると、ウリムとトンミムの光は消えていた。
だが、光があった。
イエスが、マグディエルの右肩に手をかけて、そこにいた。
彼はネフィリムの上に手をかざして言う。
「あなたは、癒された。起きてあなたを思う者たちに挨拶なさい」
すると、ネフィリムは、マグディエルの掌の上で、ぐったりとしていたのが噓のように、元気に起き上がった。小さな体を折り曲げるようにして、白い靄の女たちに向かって、ぺこりとお辞儀する。
イエスが、今度は白い靄の女たちに向かって言った。
「あなたがたの、魂は保たれる。さあ、行きなさい。あなたたちを探す者があります」
マグディエルに微笑みかけた白い靄の女の顔も、手も、砂時計がまきもどるように、たちまち元通りのかたちに戻った。すべての女たちの傷が癒されてゆく。だれひとり、失われるものはなかった。
女たちは、起き上がったネフィリムを見て、安心したように、ひとり、またひとり、靄をほどくように消えていった。
女たちがすべて消えると、ネフィリムがマグディエルのほうをふりむいた。動かなくなっていた右手を、つつんでいた布から出して、マグディエルにむかってふる。もう、心配ないよ、というようだった。
マグディエルは、小さなネフィリムをそっと頬に寄せて抱きしめた。
ネフィリムの小さな翼が、歓びをしめすようにぱたぱたと、愛らしく羽ばたく。小さな手が、なぐさめるようにマグディエルの頬をなでた。
良かった。
主よ、感謝いたします。
安堵から、涙がつぎつぎにあふれる。
イエスが足元にあるウリムとトンミムを拾い上げて、衣で土をぬぐった。
「ウリムとトンミムが場所を教えてくれてよかった。おもいのほか複雑なかたちをしていて、なかなかここに辿り着けませんでしたよ」
ネフィリムが、イエスの差し出した手をよじのぼって、彼の肩に移動する。ちょこんと肩に座ったネフィリムに、イエスがウリムとトンミムを渡す。ネフィリムは両手で抱え込むようにしてぎゅっと石を抱きしめた。ふたつの異なる輝きをもつ石が、ネフィリムの腕のなかでかがやく。
イエスが、そっとマグディエルの涙をぬぐった。
「祈りが聞こえました。やさしい祈りでしたね、マグディエル」
イエスの優しい声に、マグディエルは声をあげて泣いた。
そっと抱きしめられる。
イエスの手が、マグディエルの背をやさしくたたいた。
マグディエルの口から、涙と一緒に、まとまらない思いがあふれ出す。
「シェムハザと、人の娘と、ネフィリムを会わせることはできないのですか。あなたは、『癒された』と言うだけで、ネフィリムを癒された。なぜ、いますぐ、彼らを会わせては下さらないのです」
イエスがマグディエルの額になぐさめのキスをした。
「言ったでしょう、マグディエル。すべてのことは、つながっています。悲しみも、歓びも。彼らが思い合い、ゆく道を、わたしははばみません」
「いますぐ彼らが会ってともに暮らせば、幸せになれるではありませんか」
イエスの瞳が、マグディエルの瞳をじっと見つめる。
彼はやさしく微笑んで言った。
「ひとつを変えることは、すべてを変えることです。すべては完全にできているのです。何も変える必要はありません」
「わたしにはそうは思えません」
「あなたのその思いも、美しい」
じっと見つめるイエスの瞳のおくに、また星のひかりが見えた。
不思議なかがやきをもつその瞳の内側に、すべてが見える。
一瞬のことだったが。
はるかにながい時でもあった。
幼いシェムハザが見えた。彼は、泣いている天使の世話を焼いている。なぐさめて、なでて、抱きしめて、とても大切にしているようだった。様々の場面が映し出される。丘を走り回る姿、星空のしたで他の天使と身をよせあって眠る姿、笑い合う姿が見えた。
成長したシェムハザが、幼い人の子を見守っているところが見えた。ひどく泣いている子供を見て、懐かしむようにしたあと、困ったように微笑んで、その子に手をさしのべた。シェムハザが、世界を見つめる姿があった。ただ見つめるだけではなく、彼はいずれの場面でも、やさしく手をさしのべている。
そんなシェムハザに、手をさしのべた娘の姿が見えた。ウリムとトンミムがいつか映した、あの素敵な彼女だった。
そして、巨大なネフィリムを見つめるシェムハザが見えた。ネフィリムは涙をながしながら、岩を食べようとしていた。シェムハザはネフィリムによりそうように、そばにいた。その顔には、苦しみがある。
水が見えた。ネフィリムの大きな身体が、波のなかに沈んでゆく。ネフィリムは、手を天に向かってのばした。ネフィリムが天を見上げる顔が、徐々に水に沈んでゆく。まだ水に沈んでいないネフィリムの手に、シェムハザの姿があった。ネフィリムの指先に、うずくまるようにして彼はいた。
ひどく、泣いている。
同じように、絡まりあう運命のなかで、愛し合う者たちの姿が無数に見えた。
あるものは、シェムハザの優しさに救われて、感謝し、その命を愛のなかにつないだ。だが、それをねたみ、恨むものもいた。
あるものは、ネフィリムに大切な人の命をうばわれ、憎しみの炎を抱いて、地獄へと下ってゆく。だが、ネフィリムによって奪われた命が、罪深い者であり、それによって救われる者もいた。
急に、すべてが巻き戻った。
シェムハザと人の娘が出会うことのない世界が見えた。
彼らは、それぞれに、異なる愛と異なる苦しみとともにあった。ちがうのは、二人が出会うことがなく、その愛も、その子も、存在しない世界だということだった。シェムハザが沈みゆくネフィリムを目の当たりにする悲しみもないが、娘と愛し合い、子の誕生をよろこびあうこともない世界だった。
また、別の世界が見えた。
幼いネフィリムがすべて、人の手によって摘み取られた世界だった。
ネフィリムに奪われることのなかった命があった。あるものは育ち、愛をはぐくんだ。あるものは育ち、人の命を多く奪った。あるものは、歓び、あるものは、絶望する。
すべてが、繋がっていた。
ひとつが変わった世界は、すべてが連鎖して変わってゆく。
イエスが地下世界の扉を、終わりの時がくる前に開ける世界と、開けない世界が、マグディエルの前に無数に提示された。まるで異なる千の世界だった。
マグディエルは大きく広がって、自分が希薄になるような気がした。世界に溶け込んで、自分がうすまってゆく。世界が広がりつづけると、マグディエルの感覚も広がりつづける。
広がって、うすまって、まるで己がほどけて消えていく。
そっと、イエスの手がマグディエルの瞳を覆った。
広がりが急激に収束する。マグディエルの感覚が、身体にぴったりとはまる。すこし窮屈に感じた。
イエスの声が聞こえる。
「マグディエル。わたしはこの世界を愛しています」
イエスの心が流れ込んでくる。すべて、愛しているのだと、聞こえた。歓びだけではなく、悲しみも、苦しみも、罪でさえも、今あるすべてを愛していると——、そう聞こえた。
世界のあり方は大きすぎて、マグディエルには、よく分からない。でも、愛ゆえに、いま大きく運命を変えるようなことはしないのだと、それだけは、なんとなく分かった。
イエスの手がおろされる。
目の前に、いつもの優しいイエスの瞳があった。
この瞳には、いつも、すべてが見えているのだろうか。だれかに手をさしのべるとき、千の世界をいつも見るのだろうか。そして、すべてを見て、選ぶのだろうか。神によって予言されている道を。この世界のために書かれた未来を。
もっとも、つらいのは、この方ではないか。
一体、いつ安らぐのだろう。
イエスにとって、つらいことでなければいいけれど。
そうであってほしい。
マグディエルは祈った。
イエスが、はっとした顔をした。
「マグディエル~、わたしのために祈ってくださるのですか。え~もう~、好きになってしまいます。ルシファーの気持ちがわかりました。ぎゅっとしてください」
マグディエルはイエスをぎゅっとした。
ああ、どうか、神の子のこころに平和とやすらぎがありますように。
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おまけ ☆聖書豆知識☆
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【イエスの行った奇跡】
色々ありますが、人を癒す奇跡もたくさんあります。
「きよくなれ」と言うだけで病を癒したり、
「開け」というだけで盲目を癒したり、
「出てきなさい」と言うだけで人が墓から出てきたりします。




