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第57話 愛する者たち、それぞれの祈り

 ネフィリムが泉のほとりで石碑を指さした。


 マグディエルは、ネフィリムの動かない腕にひびかないよう、そっと抱き上げて、泉の中をすすんだ。泉は、ひざ下ほどの深さだった。


 石碑の前まで来ると、文字が記されているのが見える。


 石碑はマグディエルの背よりもすこし高く、横幅は両手をひろげたほどだった。


「とっても、古い言葉だ」


 マグディエルは、石碑の上に書かれている、一番大きな文字を見た。

 こう書いてある。


『おとずれた者の名を記す』


 その下には、名前が記されているようだった。たくさんの名がある。百以上あるかもしれない。


「ここが地下世界なら、グリゴリたちの名かな」


 掌の上のネフィリムを見ると、じっと石碑を見つめていた。


 マグディエルは、シェムハザの名を探した。


「あ、あった」


 シェムハザの名は、かなり上のほうに記されている。石碑ができてすぐに訪れたか、それとも、石碑を建てたときにそこにいたのかもしれない。


 やはり、ここは地下世界なんだ。

 シェムハザが再びここを訪れることはあるだろうか。


「ここに、きみたちネフィリムのことを刻んでおけば、シェムハザが見るかな」


 ネフィリムがマグディエルを見上げる。


 マグディエルは、ネフィリムと、手に握り締めていたウリムとトンミムを、石碑の台座の上におろした。


 泉の中から、手ごろな石をさがす。とがった形の石をひとつひろいあげて、石碑の下のほうの、まだ名前が記されていない部分にこすりつけてみる。


「……だめだ」


 力強くこすりつけてみたが、石碑には傷一つつかなかった。


 何か、ここに、文字を記す方法はないだろうか。


 すると、ネフィリムがマグディエルに向かって手をふった。

 見ると、ネフィリムが自分の胸を指さして、トントン、とした。


「きみを使えってこと?」


 ネフィリムが身体を左右にふる。

 そして、また、自分の胸を指さして、トントン、とする。


 もしかして、わたしの?


 マグディエルは、はっとして懐に手を入れた。


 取り出したものが、手の中でぼんやりと虹色にかがやく。

 ナダブが掴んで取った、熾天使セラフィムの羽だ。


 ルシファーが熾天使の羽を使って、ラッパを治したときのことを思い出した。ラッパの上に羽を乗せ、そこに手をかざし、マグディエルには分からない古い言葉でなにごとかを呟いていた。


 もし、熾天使の羽に、あのラッパを治した力があるのだとしたら——。この羽を使って、石碑に文字を刻めるかもしれない。


 あの時、ルシファーは何を呟いたのだろうか。


『ひらけ~ごま!』


 なぜか、シオン山のダンジョン入口で、イエスがふざけて言った呪文を思い出す。


 もしや。

 ルシファーはただ命じたのだろうか。


 ナダブのことばを思い出す。


『ただ、ひらけって言えってことだろ。ことばは神なんだからな』


 ヨハネの福音書の聖句が、心におとずれる。

 初めにことばがあり、ことばは神とともにあり、そう、ことばは——、神だ。


 マグディエルは、泉の中に膝をついて、ネフィリムと視線を合わせた。


「一緒にことばを刻もう。わたしは……、信じることにする。きみの助言と、ルシファーの思いやりが与えてくれた熾天使の羽と、それに、神であることばも」


 ネフィリムが嬉しそうな顔をした。


「きみに名はあるの?」


 ネフィリムが口をぱくぱくとしたが、分からない。その手を握りしめても、名前は伝えられないようだった。


「きみたちがシオン山の裾野で待っていると、伝えよう。あと、刻んだものの名も記しておこうか。わたしと、きみの名のかわりになるものを」


 ネフィリムが微笑んだ。


 マグディエルは、ネフィリムも触れられるように、石碑の台座に近い部分に、熾天使の羽をあてた。ネフィリムも小さな手で、羽のはしに触れる。ネフィリムの背にある、小さな白い翼が、張り切るようにぴんとした。


「星の祝福よ。どうか、わたしに力をかしてください」


 マグディエルは慎重に言った。


熾天使セラフィムの羽は、石碑に、わたしの言うことばを刻め」


 とくに羽に変化はなかった。

 マグディエルは、つづけて言った。


「グリゴリと、人の娘のあいだにうまれた子、ネフィリムは、シオンの山で待つ」


 ネフィリムの小さな手が、ぴったりと羽を押さえている。


「シオンの山の裾野、ガラスの海の近くで、森を管理し、腹を空かせることなく、みんなで、あなたたちを待つ。第一のラッパ吹きである御使いマグディエルと、シェムハザとその素敵な彼女の子であるネフィリムが、ここに、このことばを刻む」


 これでいい。


「あ」


 マグディエルは、焦って追加した。


「シェムハザへ。あなたの子が、こう言っています。大好き。大好き。大好き。と」


 ネフィリムがそれを聞いて短い足でぴょんぴょんと跳ねたが、そのあとうずくまるようにした。腕にひびいたのかもしれない。


 そのとき、熾天使の羽が金色の光をあげて、端のほうから燃え上がった。触れている手は、熱くなく、ただほんのりとあたたかい。


 羽がすべて燃えてしまうと、その下に、文字が刻まれていた。マグディエルの言葉が、そのまま刻まれている。うっかり言ってしまった『あ』という文字まで刻まれてしまっている。


「ちょっと、失敗しちゃったかな。ね」


 マグディエルはそう言って、ネフィリムを見た。


 ネフィリムがうずくまったまま動かない。


 マグディエルは焦って、でも、そうっとネフィリムを抱き上げた。ぐったりとしている。小さな目がマグディエルを見て、まるで疲れたようにゆっくりと瞬きをした。


 ネフィリムの小さな手が、マグディエルの手に触れる。


 こわい。

 こわい。

 こわい。


 マグディエルは、台座に置いていたウリムとトンミムを急いで取り上げ、泉の中を横切って、入ってきた横穴にもどった。ネフィリムの身体に負担がかからないように、慎重に、けれど、急いでくぐりぬける。


 落ちて来た場所から上を見上げる。

 翼では飛べない。


 マグディエルは、片手でネフィリムを胸に抱え、片方の手で土の壁に手をかけた。ウリムとトンミムが、ころんと転がって地に落ちる。


 気にしていられなかった。


 手をかけられそうな場所に、片っ端から手をのばす。

 だが、湿り気のある土の壁は、手をかけるとすぐに剥がれ落ちた。


 マグディエルは胸に抱いたネフィリムを見た。


 ネフィリムがマグディエルの胸に手をあてた。小さな手から、なぐさめの気持ちが流れ込んでくる。だが、すぐに力尽きたように手がおろされてしまった。ネフィリムの小さな目が閉じられる。


 弱っている。


 どうしよう。

 はやく、上にもどらないと。


 ふと、マグディエルの目の端に、何かが動いた。


 はっとして、そちらを見る。


 マグディエルのすぐ隣に、白いもやが、ゆらめいていた。ゆらゆらと、ゆらいで、形をつくる。


 靄は、女の姿になった。


 女は、マグディエルの胸にいるネフィリムをのぞき込む。その、白く、不確かな女の指先が、ネフィリムにそっと触れるようにした。


 女の顔は、はっきりとしない。目も、鼻も、口もあるが、すべてゆらいで、不確かな形をつくっている。シェムハザの素敵な人かどうかは、分からなかった。


 すぐに、また近くに、べつの薄い靄の女が現れる。

 そして、同じように、白い指先をネフィリムに近づけた。


 女たちは、どんどん集まった。

 みな、ネフィリムにその白い指を、近づけようと手を延ばす。


 あたりに音が響いた。

 ガラスが軋んで割れるような音だった。


 最初に近づいてきた、白い靄の女の顔に、大きな亀裂が入った。


 また、甲高い音がした。


 つぎに近づいてきた女の手が、裂けるようにひび割れる。

 割れたあたりから、欠片がほろほろと、落ちた。


 魂のかけらが、割れて、はがれ落ちている。


 まさか。

 魂の力をネフィリムの身体にあけわたそうとしているんだ。


 マグディエルは叫んだ。


「やめてください! そんなことをしたら、魂のかたちが失われてしまう!」


 次々と、ひび割れる音がひびく。


 最初に近づいてきた、白い靄の女が、ネフィリムに向けている指先とはべつの手を、マグディエルの頬にあてるようにした。女が割れた顔で微笑む。


 亀裂の入った、女の白い瞳の中に、はっきりとしたものが見えた。ぼんやりとした靄の中に、それだけは、はっきりとした形があった。


 愛だ。


 すべて、捧げるような、愛だった。

 まるで——、歓びのようだった。


 感謝のようにも、微笑みのようにも、抱擁のようにも感じられる。


 ああ、愛しい子。

 何よりも、大切なもの。


 その思いが、流れ込んでくる。


 マグディエルの声がふるえた。


「どうか、やめてください」


 魂の欠片がひとつでも失われてしまえば、どうなる。シェムハザが集めている、彼女の魂の欠片が、ひとつでも失われてしまえば——。魂は、その形をとりもどすことができるだろうか。


 いいや。


 ひとつでも失われてしまえば。完全な形にもどることはできない。


 シェムハザが長い時をかけて、集めているのに。

 彼の言葉がよみがえった。


『素敵な人に出会ったんだ。なにもかも捧げたくなるほど』


 目が離せないほど、美しい思いを瞳にのせていた。


『子どもができたと気づいたときは……、本当に幸せだったよ。奇跡だと思った』


 そう言った、シェムハザの顔には、幸せが確かにあった。


 この地下世界で、彼は千年を何度すごしたのだろう。


 千年、また、千年。

 暗い世界で。

 シェムハザは、ずっと、失われたものを、取り戻そうとしている。


 目がぼんやりと、かすんだ。あふれた涙が視界を邪魔する。


 ひび割れるような音が、次々とあたりに響く。


「おねがいだ……、やめてください。シェムハザが悲しむ。グリゴリたちは……あなたたちの魂をあつめているのに」


 心から会いたいと、そう、願っているのに。

 この暗い地下世界で。


 マグディエルの頬にふれていた女の手が、小さくひび割れて、欠けてゆく。

 ちいさな、粒になって、ほどけてゆく。


「いやだ」


 マグディエルの瞳から涙が落ちた。


 消えてしまう。


 どうすれば。


 できることをしたい。

 なのに、何も思いつかない。



 無力な己は、彼らのために、何もできはしない。


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