第53話 マグディエルの嫉妬、ふたたび
マグディエルを抱えた智天使は、となりの部屋に移動した。
となりの部屋はがらんと広い円形の部屋で、天井がなく、はるか上に光が見える。まるで井戸の底から空を見上げているようだった。
智天使たちが強い翼で、飛び上がる。
ぐんぐんとすごいスピードで、上昇し、あっというまに、てっぺんの光をぬけた。
抜けた先には、空が広がっていた。雲一つない透明な青空だ。
まわりには、見わたす限り視界を阻むものがない。
シオン山の頂上だった。
何もない。
頂上は、ただ、がらんと広大で、真っ平な広場になっている。
マグディエルは、広場のはしのほうに降ろされる。イエスたちも、それぞれ智天使から降ろされた。
アズバを降ろしたアヒさんが言った。
「ここはまだ、未着手部分でね。終末には、きちんとライブ会場になっているから、きみたちもぜひ、ダンジョンに挑戦して遊びにきてくれ!」
ライブ会場?
「もしかして、終末に十四万四千人が歌うのってここなんですか?」
「そうだぞ」
「御座の前だと思っていました」
「ここから御座が見えるんだよ。こっちだ」
アヒさんが、広場のはしから、下をのぞくようにした。
「あー、今日は雲がかかっていて見えないな」
マグディエルものぞいてみる。
下に雲海が見えた。
アヒさんが雲の向こうを指さす。
「雲のない日は、あそこらへんにちっちゃく御座が見えるんだ」
アズバが、アヒさんを見上げて訊いた。
「終末に、ここに来られるのは贖われた十四万四千人だけですよね? 遊びに来てもいいのですか?」
アヒさんがにやっと笑って答える。
「ここは一度に十四万四千人を収容できるライブ会場だ。ライブは……一日だけするとは限らないぞ」
そういうこと⁉
なぜか一回限りと思っていたが、たしかにこんなに豪華なダンジョンと会場が、長い年月をかけて用意されるなら、一日だけ開催というわけはないか。
アヒさんが、でれでれっとした顔でアズバに近づいて言った。
「アズバちゃん~、ちゃんと遊びに来るんだぞ。きみならお茶するだけでも歓迎だ」
「終末以外でもですか?」
「もちろんだとも。それに、呼んでくれれば、すーぐに迎えに行ってあげよう。こんど、一緒に地上にお茶しに行こうね~」
「はい」
アヒさんがししの顔をアズバに近づけて、ふざけて「がおー」とやった。アズバが嬉しそうに笑いながら逃げる素振りをする。すると、アヒさんがアズバをつかまえて、抱きしめた。
——。
今なら、ラッパ吹けそう。
マグディエルは、腰にあるラッパをぎゅっとやって耐えた。
*
マグディエルたちは、アヒさんに教えてもらった方角に向けて、雪山をくだった。
ペトロが、雪で不安定な足元を先頭で踏みしめながら言う。
「こちら側は、ロープウェイもないですから、くだりとはいえ、すこし時間がかかりそうですね」
イエスが隣で、同じように雪を踏みしめながら答えた。
「中腹あたりからは、マグディエルたちの翼でも飛べるでしょうから、そこまでは足で頑張るしかありませんね」
イエスとペトロのうしろに、ナダブがつづき、その後ろをマグディエルとアズバが並んで歩いた。
しばらく黙々と下り続けていたが、マグディエルは、アズバに話しかけた。
「ずいぶん、アヒさんのことが気に入ったんだね」
そうするつもりはなかったのに、とげとげしい言い方をしてしまう。
アズバは気づいていないのか、軽い感じで答えた。
「ダビデの町で見かけてから、ずっと、智天使って素敵だなって思っていたのよね。とくに、ししの顔がかっこいいわ」
また、かっこいいって言った。
「だろうね。ししに舐められて、ずいぶん嬉しそうにしていたもの」
とげのある言い方に気づいたのか、アズバが驚いた顔をしてこちらを見る。
「祝福のキスをしてもらっただけじゃない」
アズバがアヒさんの首に手をまわして嬉しそうにしていた姿がよみがえる。
また、マグディエルの腹の底に、どろどろとした不快な気持ちが湧き上がった。
「ガラスの向こうでも、智天使と楽しそうにばっかりしていたよね」
「してないわよ。あなたのこと応援していたでしょ」
「智天使と抱き合って、こっちなんかちっとも見ていなかったじゃないか」
言うつもりのない言葉ばかりが口から出てくる。
アズバが、眉をひそめて答えた。
「わたし、あなたのことを見てたわ」
これ以上、何も言うな。
こんなこと言いたいわけじゃない。
そう思うのに、マグディエルの口は止まらなかった。
「そんなにアヒさんのことが気に入ったなら、シオン山にのこればいいよ」
ちがう。
そんなこと、これっぽっちも思っていないはずなのに。
アズバが怒って、大きな声で言った。
「なんでそんな風に言うのよ。あなただって、ルシファーと仲良くしているじゃない。わたしがちょっと高位の天使と仲良くしたら、すぐにそんな風にいじわる言うのね」
アズバは「しばらく一人にして」と言って、道をそれて向こうへいってしまった。
全員の足が止まる。
前を見ると、ふりむいたナダブがなぜか泣きそうな顔をしていた。
イエスがもどってきて、ナダブの顔をのぞきこむ。ナダブの肩を押して、ペトロのところへやった。ペトロが、ナダブをなぐさめるように、抱きしめた。
イエスが、いつも通りの声で言った。
「さて、それでは、わたしたちはここらで、休憩するとしましょう」
イエスが懐から取り出したキットカットをペトロとナダブに渡した。
「マグディエル、あなたにはふたつあげますから、アズバと食べておいでなさい。ね」
「……はい」
イエスが、マグディエルの手に、キットカットをふたつおいた後、マグディエルの腕をやさしくなでて言った。
「大丈夫ですよ。ちゃんと伝わりますから」
マグディエルは、イエスに向かって頷いたあと、走った。
アズバが行ってしまったほうへ、走る。
少し行った先で、アズバがぽつんと立っていた。
アズバの前にまわりこむ。
彼女は、しずかに泣いていた。
ああ、なぜ。
なぜ、一番大切にしたいと思っているのに、傷つけてしまったんだろう。
マグディエルはアズバの頬にそっとふれた。
「アズバ、ごめんなさい」
アズバは何も言わない。
拒絶するように、アズバの頬が離れた。
マグディエルは、行き場のなくなった手をぎゅっとして言った。
「あんなこと言うつもりじゃなかったんだ。ただ……」
「わたし、ちゃんとあなたのこと応援してたわ」
そう言った、アズバの声が震えていた。
「ちゃんと、あなたのこと、見てたもの」
アズバの瞳から大粒の涙があふれる。
「なんで、シオン山にのこればいいなんて言うのよ」
「アズバ」
マグディエルが、アズバを抱きしめようと近寄ると、胸を押される。
はっきりとした、拒絶だった。
アズバが泣きながら言った。
「あっち行ってよ」
大きな声じゃなかったのに、まるで殴られたみたいに痛かった。
マグディエルの両目からぼろぼろっと涙がこぼれる。
ああ、かっこわるい。
マグディエルは震える声で言った。
「アヒさんが羨ましかったんだ。アズバにかっこいいって言われてるアヒさんが羨ましくて、思ってもないこと言ったんだ。アズバ、ごめんなさい。傷つけるつもりじゃなかった」
アズバはこちらを見ない。
アズバの心が離れていってしまう。
マグディエルは、ようやっと、腹の底にどろどろと、渦をまく不快な気持ちが、なんだったのか理解した。
こわかったんだ。
かっこよさのかけらもない、無価値な自分から、アズバが離れていってしまうことが、こわかった。身体が大きくて、立派な高位の天使であるアヒさんと、比べようもないほど弱い自分が惨めだった。人間なのに、アズバを守れるほどに強く、頼りになるダビデが羨ましかった。
一番のともだち。アズバがそう言ってくれたのに、自分に自信がないからって、嫉妬して、挙句の果てに傷つけるようなことをしたんだ。
最低だ。
「だれよりも、きみのことが大切で、大好きなんだ。きみに、かっこいいって言われたくて……、でも、そんなとこひとつもないから、惨めで、羨ましくて、あんな愚かなこと言ったんだ。ごめんなさい。お願いだ、ゆるしてアズバ」
しばらく、雪の中にしんとした沈黙だけがあった。
お願いだアズバ。
わたしのもとから去らないで。
どうか、こっちを見て。
マグディエルは、アズバの横顔を見ながら、必死で願った。
ようやっと、アズバが、マグディエルを見た。
涙で濡れたまつげを上げて、マグディエルを睨んで言った。
「かっこいいわよ」
マグディエルは、反省して頷いた。
そうだ、アヒさんはちゃんとかっこよかった。
「……うん、智天使はかっこいいね」
「ちがう。あなたよ」
マグディエルは何を言われたのかわからなくて、ぽかんとした。
アズバが、まっすぐマグディエルのことを見て言う。
「あなたが、いちばんかっこいいわ」
マグディエルは思わず真剣に聞いた。
「どこが?」
アズバが泣きながら、思わずと言った感じで笑ったあと、それを隠すように顔をぷいと違う方向にむけた。
「教えない」
「えっ、なんで」
「だって、あなたわたしにいじわるしたもの」
「……ごめんなさい」
「——いいわ、ゆるしてあげる」
マグディエルはその言葉を聞いて、思わず身をのりだした。
「ほんとに⁉ じゃあ、抱きしめてもいい⁉」
アズバがうなずく。
マグディエルは急いでアズバの身体をぎゅっとした。
拒絶されたとき、本当にこわくて、どうしようかと思った。
マグディエルの肩のあたりから、アズバのくぐもった声が聞こえる。
「わたし、ちゃんとあなたのこと応援してたんだから」
「うん」
アズバが、マグディエルの背に両手をまわして、ぎゅっとしながら、こわい声で言った。
「——なんだか、むかついてきたわ」
アズバの腕が容赦なくマグディエルを締め上げる。
マグディエルの口から、情けない声がでた。
背骨のあたりから、みしみしっときしむような音が聞こえた気がした。
「アズバ……っ、ごめんなさいぃっ」
ベルゼブブに首を絞められた時よりも、身の危険を感じた。
でも、うれしい。
でも……、背骨、限界かもしれない。
もう二度と、馬鹿はしません。
あーめぇん。
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おまけ ☆聖書豆知識☆
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【十四万四千人】
ヨハネの黙示録において
子羊とともにシオンの山の上に立つ者。
額に子羊の名と、その父の名の印が押される。
御座の前で「新しい歌」を歌う。




