第52話 ベルゼブブ兄さんの、こわい性癖
マグディエルは、喉から絞り出すようにして声を出した。
「いやです」
ベルゼブブが楽しそうな顔を、一変し、冷たい顔をする。
「なぜです? 迷惑していたじゃあないですか。二度とルシファーには近づかないと誓えば、すぐにラッパをもどしてさしあげますよ」
マグディエルの首にかかるベルゼブブの手が、ぎゅっと締め上げるように握られる。マグディエルは声を出そうとしたが、押さえつけられた喉がつぶれるように痛んだだけだった。
「さあ、マグディエル。簡単でしょう。もうルシファーとは関わらない、お友だちごっこはやめる、そう言うだけです」
マグディエルの瞳から、涙が落ちた。
恐れではなく、苦しみからくる生理的な涙だった。
マグディエルは、ベルゼブブを睨み返す。
ベルゼブブが、おや、という顔をして手の力をゆるめた。
マグディエルは、腹の底からこみあげる怒りとともに、痛む喉で言った。
「わたしは、ルシファーのことが好きです。友として大切に思っています。ルシファーが望まないのなら近づきはしませんが——、あなたに言われて友と離れるようなことはしません!」
ベルゼブブが、表情のよめない顔で、じっと、マグディエルを見つめる。そして、こわいような微笑みを浮かべた。
「わたし、その顔好きなんですよねえ。ぞくぞくしちゃいますね」
ベルゼブブはしばらく堪能するように、マグディエルの顔を見たあと、アヒさんに向かって言った。
「あなた、ラッパを取ってきてくださいます?」
「はい! ただいまーーッッ‼」
アヒさんは、素早い動きで部屋のすみに転がるラッパを、ベルゼブブのもとまで持ってきた。
「ベルゼブブ兄さん、どうぞ」
「はい、どうも」
ベルゼブブはラッパを受けとると、マグディエルの胸の上においた。
マグディエルの身体にあった不調が、たちまち消え去る。
ベルゼブブが、にっこりと笑った。
「これで対価はいただきましたよ。わたし、あなたの怒っている顔、とっても気に入ってしまいました」
そう言って、マグディエルの頬にぞっとするような親愛のキスをした。
ベルゼブブが、立ち上がり、マグディエルに手をさしだす。マグディエルはその手を取って、立ち上がった。
今になってこわくなってきた。
怒っている顔を見るために、あんなひどいことを?
おそろしくなってベルゼブブを見つめると、ベルゼブブが、にやっとして言った。
「おやおやあ、まだ、怒っているんです? わたしたち、友だちじゃないですか。ゆるしてくださいますよね? マグディエル」
こわい。
マグディエルは、小さく頷いた。
ベルゼブブは満足そうに笑って言った。
「で、わたしが地上でふるえる力について、聞きたいんでしたっけ?」
「はい」
忘れよう。
マグディエルは、こわかったことは一旦、忘れることにした。
「マグディエル、あなた聖書読んでいないのですか?」
「えっ、読みました」
「ふうん、じゃあ、わたしが列王記で、どのような名で呼ばれているかご存知で?」
「列王記のときは、たしかバアル・ゼブブと……」
「そう、それですよ。わたし、そのころバアル・ゼブルと名乗って、地上でアンチヤハウェのロビー活動していたんです。いつ頃からか、それがばれて、ベルゼブブの名前に近くなってバアル・ゼブブと書かれているんですね」
「アンチ、ヤハウェ? ロビー活動?」
「唯一神から、人間たちの興味をそらせるために気高き主と名乗って、神のふりをしていたんです。まあまあ楽しかったですよ」
「はあ」
「列王記以外にも、わたしの名前出てきたでしょう? バアルとだけ書かれていることも多いですがね」
「バアル!」
マグディエルは思い出した。
バアルは嵐と慈雨の異教の神だ。
ということは?
「嵐を呼んだり、雨を降らせるのが、ベルゼブブの地上でふるえる力ですか?」
「ええ、天候をあやつる能力ですね。あまりに神っぽい演出ができるので、一時期はルシファーよりも能力は上なんじゃないかと噂されたりしてましたねえ。神様ごっこには都合の良い能力でしょ」
たしかに、雷なんか鳴らしたりすれば、神っぽいかもしれない。
「ベルゼブブ、ありがとうございます。教えてくださって」
「あれ、感謝のキスはしてくださらないので?」
マグディエルは過去最高のおよびごしで、びくびくしながらベルゼブブの頬に感謝のキスをした。ベルゼブブは、楽しそうにその様子を見ていた。
「また遊びましょうね、マグディエル」
楽しそうなベルゼブブに、マグディエルは一応お願いしてみる。
「会うたびに、こわいことをするのは、やめてください」
「いやです」
「——」
「では、さようなら、マグディエル」
「さようなら、ベルゼブブ」
アヒさんが、すかさず叫んだ。
「ベルゼブブ兄さん、お疲れさまでしたーッッ!」
まわりの智天使たちも叫んだ。
「お疲れしたーーッッ!」
ベルゼブブはひらひらっと手をふると、あっという間に姿を消した。
智天使たちが一斉に肩の力を抜いたように見えた。
アヒさんが、マグディエルの近くまで来て言った。
「くそー! 正解だ! ベルゼブブ本人を呼ぶなんて聞いてないぞ。こわかったじゃないか! きみの交友関係どうなってるの!」
「すみません」
アヒさんが、ガラスのほうに向かって言う。
「おまえたち、お連れ様を出してやれ!」
イエスたちが拘束を解かれて、部屋に出てきた。
アズバが真っ先にマグディエルのもとに駆け寄った。マグディエルの首にそっと手をあてて心配そうな顔をする。
「ああ、マグディエル、どうなるかと思ったわ。赤くなっているわね、痛い?」
「大丈夫だよ。ベルゼブブはちゃんと手加減してくれていたと思う。——たぶん」
アズバのむこうに、さきほどガラスのむこうでアズバを抱きしめていた智天使がいた。
目が合う。
マグディエルはアズバの背に腕をまわして、引き寄せ、ぎゅっとした。アズバが「よしよし、こわかったわね」と言って、マグディエルの背をなでる。
マグディエルは、思い切りアズバの優しい香りを吸い込んだ。
アヒさんが不満そうな声を上げた。
「くそー、すんなり終わってしまって、不満だぞ。だが、三問正解したからな。シオン山のメイン会場にご案内しよう。おまえたち、連れて行け!」
まわりの智天使たちが大きな声で答える。
「出発しまーーぁすッッ!」
智天使たちがまたイエスたちをかつぎあげる。
さきほどアズバとイチャついていた智天使がこちらに来るのを見て、マグディエルはアズバの背にまわした腕に力をこめた。
するとアズバが、アヒさんの方を向いて言った。
「わたし、アヒさんに連れて行ってもらいたいです」
「お、可愛い天使だなあ。いいぞ、わたしが連れて行ってやる」
マグディエルのそばを離れたアズバが、アヒさんの腕の中におさまる。身体の大きいアヒさんが、軽々とアズバを抱き上げた。
アズバがうっとりした顔で言った。
「アヒさん、かっこいいですね」
それを聞いて、マグディエルは息ができなかった。
か、かっこいい?
アヒさんが嬉しそうな顔をして答える。
「おー、そうだろう、そうだろう。どの顔が気に入った? 好きにさわっていいぞ」
アズバが恥ずかしそうに「しし」と言った。
アヒさんが、ししの顔をアズバのほうによせる。アズバはアヒさんのししの顔をうっとりした顔でなでた。
かっこいい?
アズバが、かっこいいって言ったの?
アヒさんに?
マグディエルはアヒさんが羨ましすぎて、唇をかんだ。
素敵、とか、かわいい、とかは、聞いたことがあるが、アズバがかっこいいと言っているのをはじめて聞いた。ダビデにだって、言ってはいなかった。ミカエルにだって。
アズバが、アヒさんのししの毛並みをなでながら、また言う。
「かっこいい」
「きみは、見る目があるな。お名前は?」
「アズバです」
「アズバちゃん。せっかくだから祝福のキスもしてやろう」
「はい」
アヒさんのししの顔が、アズバの頬をぺろっと舐めた。
アズバが、首をすくめてくすくすと笑って言う。
「ちゃんと祝福のキス、してください」
アヒさんが笑って答える。
「わかった、わかった。アズバちゃんのゆく先に、いつも光があるよう祈っているよ」
アヒさんは、ひとの顔でアズバの頬に祝福のキスをした。
アズバが嬉しそうに、アヒさんのししの顔の毛並みのふさふさしたところに顔をうずめた。アヒさんの首に腕までまわして。
マグディエルは、大きく息を吸い込み、心の内側で「ウワーッッ‼」と叫んだ。
マグディエル自身がいちばん分かっている。
かっこいいと言ってもらえそうな要素がマグディエルにはない。それなのに、アズバにかっこいいと言われたアヒさんのことが、心の底から羨ましかった。
ガラスのむこうでアズバを抱きしめていた智天使が、そばに来て、マグディエルをひょいと肩にかつぎあげた。
マグディエルは、智天使に運ばれながら、この腹の底にどろどろと、渦をまくようなきもちは、どういったものだろうか、と考えた。気を紛らわせようと、運ばれながら、床の石材の継ぎ目を数えたりしてみる。
でも、どうやっても、アヒさんに向かってうっとりとした顔で『かっこいい』と言うアズバの姿が、頭から離れなかった。
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おまけ ☆聖書豆知識☆
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【列王記】
旧約聖書は全39巻あり。
律法・歴史書・詩歌書・預言書の4種があります。
列王記は歴史書のひとつ。
【バアル】
モーセが民をひきいて目指した約束の地カナンで崇められていた、嵐と慈雨の神。
旧約聖書では、バアル、バアル・ゼブル、バアル・ゼブブなどの名前で登場します。
バアル・ゼブルと呼ばれていたのを、バアル・ゼブブとさげすんで言うようになった、らしい。
【ルシファーよりも強いかも?】
近世ヨーロッパで流布した魔術所グリモワールでは、ベルゼブブの実力はサタンを凌ぐとも言われています。




