第47話 大きな声で呼べるかな? ルーシファー!
マグディエルはほくほくした気持ちで朝の森を歩いていた。
天気がいい。
鳥たちはうたう。
ヨハネがしっかり長めの祈りを上げてくれた。
額と両頬にキスまでしてもらった。
スマホに、一緒に映った写真もある。
これ以上、賛美極まる出立があるだろうか。
いや、ない!
最高!
「ちょっと広めの場所がいいですね~」
イエスはそう言いながら歩を進めた。
ヨハネの家から森を抜けて、ひらけた原っぱに出る。
イエスが、止まって、周りを見渡し、言った。
「ここなら、良さそうですね」
はるか向こうに、天を突きさすほど高い山が見えている。シオン山だ。あそこに到着するまでに、どれほどの時間がかかるのだろうか。山は、遠すぎて、その色がはっきりとは見えないくらい空に溶け込んでいる。
マグディエルはイエスに向かって言った。
「ここから、どうやってシオン山に向かうのですか?」
イエスが、マグディエルの方を見て、ニッコリして言う。
「あちらから、来るのです」
そう言うと、イエスはシオン山に向き直って、言った。大きい声ではない。ただ、そこにいる者に、語りかけるような声だった。
「シオンの山よ、わたしが呼びます。今すぐに、ここへ来なさい」
すると、山が動いた。
山がどんどん近づいてくる。
まわりの景色が、蜃気楼のようにゆらめいて、変化した。山がこちらに近づいているのか、こちらが山に近づいているのか、分からない。足元に生える青草も、蜃気楼のように揺れて、その姿を変えてゆく。
場所を移動しているのだろうか。
それとも時を移動しているのだろうか。
目の前の景色が、どんどん移り変わってゆく。
そうするうちに、シオン山は、どんどんとその巨体をこちらに近づけて来た。どんどん近づいて、もはや頂上を仰ぎ見ることができないほど、近くに来た。
マグディエルの足元が、なだらかな斜面に変化する。
足元を見たのち、まわりを見ると、すっかり景色が変わってしまっていた。
マグディエルたちは、シオン山の山すそにいた。
神の子の業に、マグディエルは、ぼんやりとした気持ちでまわりを見た。
「不思議ですね」
ぽつりと言った、マグディエルの言葉に、イエスが笑って答える。
「誰でも、できますよ。ちょっとしたコツさえわかればね」
まさかね。
マグディエルは笑った。
ナダブが、もはや見えない、山のはるかてっぺんを見上げて言った。
「これを登るのか~。飛んでは行けないんだよね?」
イエスが答えた。
「高位の天使なら頂上まで飛べますが、あなたたちの翼だと、中腹までも厳しいかもしれませんね。でも、大丈夫、全部は登りませんよ。あれがあります」
「あれ?」
マグディエルは、イエスが指さす先を見た。
何やら、山すそに建物がある。
山の斜面に沿うように、ケーブルもあった。
ロープウェイだ!
*
建物では、多くの座天使たちが、なにやら忙しそうにしていた。
ロープウェイの乗り場に向かうと、大きなゴンドラリフトがあった。
近づくと座天使が「入れ」というような仕草をする。
マグディエルたちは、ゴンドラリフトに乗り込む。
かなり大きいタイプだ。マグディエルたちがのっても、ずいぶん余裕がある。もしや五十人くらい乗れるのではないだろうか。
マグディエルたち以外に乗る者はおらず、すぐにドアが閉まって、出発のベルが鳴った。
それにしても、シオン山には、誰もいないと思っていたのに、ここで働く座天使もいるのか。
マグディエルはイエスに訊いた。
「シオン山には、道を知る者しか来られないのでは?」
「そうですよ。一見さんお断りってやつです。あなたたちも、一度来たので、二度目は自分たちでも来られますよ。来たがる人も少ないですけど」
「一見さん、お断り?」
「そうです、身元のしっかりしたものだけが、来られるようになっているんです。なんせ、選ばれしものだけが登れる特別な山ですから」
「座天使たちも、選ばれしものですか?」
「彼らは、このシオン山を終わりの時までに、開発運営するのがお仕事なんですよ。終わりのときに、人が集まっても、整備されてない山じゃ登れませんからね」
あの座天使たち、シオン山の運営さんだったのか。
ゴンドラは大きく揺れることもなく、なめらかに山を登った。眼下には濃い緑の森が広がっている。
マグディエルたちは、合計三つのゴンドラを乗り継いで、山を登った。
三つ目のゴンドラで登る途中から、景色は一変して雪に包まれる。徐々に緑色の森は雪に覆われ、すこしずつ木がまばらになり、やがて、木のない、ただ真っ白な景色になった。
ペトロが腕をさすりながら言った。
「急に寒くなりましたね」
イエスが答えて言う。
「そろそろ、服着こんでおきましょうか。ゴンドラを降りたら即極寒ですよ」
イエスとペトロが完全防寒スタイルになったところで、ゴンドラが到着した。
どうやら、まだ頂上というわけでは、なさそうだった。
ドアが開いた瞬間、冷たい風が吹き込む。
「寒っ!」
マグディエルは思わず叫んだ。
大丈夫か、これ。
大丈夫じゃなさそうな寒さだけど。
アズバとナダブを見ると、平気そうな様子だった。
「まあ、寒いけど、そんな大げさに言うほどじゃないだろ」
「そうね、歩けばそのうち、あったまるわよ」
いや、そんな風には思えないくらい、強烈に寒い。
マグディエルは手を袖の中に入れて、ぎゅっとやった。
まだ壁のある建物の中で、これだと、外に出たら一体どうなってしまうんだろう。
「イエス、この先はもしや、ずっと雪山を歩くのですか?」
マグディエルは、そうじゃないと言って、と願いながら訊いた。
「いや、この先にも建物があるので、そこまでですね。一時間ほどは歩くでしょうか」
イエスが「うーん」と言いながら、窓の外の様子を見て言った。
「ちょっと視界が悪そうなので、もうすこし時間がかかるかもしれませんね」
窓の外では、風と雪が強まってきているようだった。
一時間……。
もつだろうか。
マグディエルは、推し様のキスを思い出した。額、右頬、左頬。よし。この推し結界でなんとか、耐えよう。
一行が外に出ると、外は完全に吹雪いていた。
「あぶぶぶぶ、無理かもしれないいい」
外に出た途端、あまりの寒さにマグディエルの身体が、震えに震えた。
アズバが心配そうな顔で、マグディエルの手をにぎった。
「マグディエル、そんなに寒いの?」
マグディエルはアズバの手をぎゅっと握り返して言った。
こんなところで音をあげる訳にはいかない。
「だだだだ大丈夫。とにかく急いで建物に向かおう」
イエスが、こちらを向いて言った。
「やめておきます?」
「いいえ! 行きます!」
自分が行きたいと言い出して巻き込んだのに、こんなところでみんなに迷惑をかけたくなかった。天使の身体は頑丈なんだから、なんとかなるだろう。
視界が悪いなか、イエスが先導して歩きはじめる。
マグディエルは自分の羽で身体をくるむようにした。
ちょっと、ましかもしれない。
ただし、雪で足元が悪い上に、羽にくるまっていると、歩きづらさがすごかった。雪に足をとられたと思ったら、羽につまづく。
雪の中に足を踏み込むたびに、足先の温度が奪われて、どんどん感覚がなくなってくる。羽にくるまれていない顔に雪が吹きつけて、頬が痛い。耳が冷えすぎて、頭が痛くなってきた。
羽だけは、暖かなままだった。
それ以外の部分は、すべて冷え切って、身体を動かしづらかった。
風と雪がどんどん強まる。
急激に視界が悪くなった。
息さえしづらい。
マグディエルは、みんなを見失わないように、足を速めた。
すごい風が吹いた。
身体をくるんでいた羽があおられて、バランスを失う。マグディエルはよろけて、すこしの間、みんなから視線を外す。体勢をたてなおして、視線をあげたとき、誰の姿も見当たらなかった。
真っ白な吹雪だけが目前にあった。
「えっ」
まずい。
マグディエルは身体をくるんでいた羽をうしろにやって、追い付こうと雪の中を急いだ。
「アズバ! ナダブ!」
大きな声を出すと、口の中に雪がとびこんできてむせる。
うねるような風の音が、マグディエルの声をかき消すようだった。
マグディエルは、必死で足を動かした。
だが、みんなの姿は見えない。
だんだん不安になる。
この向きであっているだろうか。
「アズバ―! ナダブー!」
こわい。
雪の中を無理に走ろうと急いだからか息があがる。動いたからか、恐怖からか、心臓が早い。寒さも、今は分からなかった。
じわ、と涙がこみあげる。
もしかして、全然ちがう方向に向かっているかもしれない。
マグディエルは、立ち止まって、あたりを見渡した。
何も見えなかった。
ただ横殴りの雪が、視界を白く染めている。
立ち止まっていると、足がどんどん雪に埋もれていく。それに、体温も急激に下がるようだった。マグディエルは、さきほど向いていただろう方向に向かって歩いた。
寒い。
もう手先の感覚もなかった。
羽で身体をくるんでも、もう、吹き込む冷たさから身体を守れそうになかった。
しばらく歩いて、マグディエルは、座り込んだ。
冷えすぎたのか、頭が痛いし、眩暈もする。
立ち上がって、歩かないと……。
そう思うのに、動けない。身体がつらくて、このまま、倒れてしまいたかった。
どうしよう。
「アズバ、ナダブ」
もう大きな声も出なかった。
「ル……」
思わず、ルシファーを呼びそうになった。
ルシファーの言葉を思い出す。
『つらくなったら私の名をよぶんだ。あと、身の危険を感じた時も。いいね』
すぐに、ベルゼブブの言葉も思い出す。
『ルシファーに価値があるから、友にしようと思ったのでしょう。困ったことがあったときに、あわよくば助けてもらおうとね』
あわよくば、助けてもらおうとしているんだ。
自分は、今、そうしようとした。
そんなことは、したくない。
ルシファーは大切な友だちだ。
まだゴリアテ饅頭くらいしか、返せていないのに。
涙が出た。
ルシファー。
助けて。
こわい。
マグディエルの口から、小さく嗚咽だけがもれた。
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おまけ ☆聖書豆知識☆
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【シオン山】
ヨハネの黙示録においては、地上から贖われた十四万四千人が立つ特別な場所とされている。終わりの時に、かれらは、御座の前で新しい歌をうたう。




