第44話 番外編 アズバの書
「キス、してもいい?」
マグディエルが、月明かりにもはっきりとわかるほど、耳を赤くして、そう言うのを、アズバはおかしな気持ちで聞いていた。
一体、どんな斬新なキスでもするつもりかしら。
アズバが「もちろんよ」と答えると、マグディエルは、アズバのもとまであともう一歩、というところまで近づいた。足元にある花をよけて、近寄って来る。やさしいマグディエルらしくて、つい笑いそうになる。でも、彼がやたらと真剣な様子だから、表情に出さないようにした。
マグディエルがすこし屈むようにして、ゆっくりと顔を寄せてくる。
ちら、と伺うようにアズバの瞳を見つめて、すぐに恥ずかしそうに眼を伏せた。月が、彼のやわらかな前髪を、照らしていた。ひいでた美しい額、はっきりとしたまつげに縁どられた瞳、すっと通った好ましい鼻筋に、すこし薄くて親切そうな唇。
マグディエルが顔を傾けると、顎から首筋の男性らしいラインが、月明かりのなかに、魅力的に照らし出された。
唇に、キスするつもりなんだ。
もう触れる、というところで、マグディエルがピタっと止まった。
ん~、これは、なにか、ややこしいことを考えているわね。
アズバは、ちらと目線をやって、マグディエルのしっかりと握りしめられた手を見た。手を頬にそえて引き寄せる、くらいのことをしてもいいだろうに、両手とも、自分の身体のよこで耐えるように握りしめているところが、なんだか愛らしい。
アズバは片方の手で、マグディエルの握りしめられた手をちょんとつついた。
すると、思いのほか、つよい力で手を握りしめられる。
なんだか、切実な感じがした。
対照的に唇は、まるで繊細なものを壊すまいとするかのように、本当にそっと触れるだけだった。ほんのすこし触れただけなのに、大好き、大切、という気持ちがはっきりと感じられる素敵な親愛のキスだった。
可愛い。
それに、かっこいい。
マグディエルはきっと、気づいていない。アズバにとって、マグディエルはいちばん頼りにしている友だちだ。いちばん心配な友だちでもあるけれど。
いつから、そんなふうに思うようになったんだっけ。
アズバは、古い記憶を思い出した。
*
まだ幼い頃、アズバたちは同じころに生まれた天使たちと一緒に、座天使に世話されながら、ひとつの家で暮らしていた。
その日、部屋は泣き声でいっぱいだった。
座天使たちが、喧嘩をしているふたりのまだ幼い天使の服を引っ張って、引き離そうとする。何がきっかけだったのか、ひどい喧嘩になった。取っ組み合いの喧嘩をしていたが、もう今はそこらじゅうにあるものを、片っ端から投げ合っている。
ナダブがアズバの羽のうしろにかくれた。
他の子たちも同じようにして、アズバの羽のうしろにかくれようとする。腕っぷしのつよいアズバを頼って、みんながそうして隠れようとするものだから、アズバの身体が前へ押し出される。
やだなあ。
あんなに勢いよく投げたもの、ぶつかったら痛そうだ。
すると、マグディエルがアズバを守るように羽をひろげて前に立った。
一番、弱いくせに。
案の定、飛んできた物がおでこに当たって、そのあとマグディエルは大泣きした。大泣きしながら、「アズバ、なにもあたらなかった?」と聞いてくる。嬉しいような、笑ってしまうような、へんてこな気持ちになった。
マグディエルは、いつもそんな風だった。
こわがりだし、すぐ泣くくせに、なにかあったときには、誰かを守ろうとした。
アズバにとって、そんな風にしてくれるのは、マグディエルしかいなかった。他の子たちはみんな、アズバの後ろに隠れる子ばっかりだ。
それは、成長して、ラッパ吹きの丘で、それぞれに暮らすようになってからも、そうだった。
たまに地上におりて人の様子を見たりするようになったころ、マグディエルがお芝居にどっぷりはまった時期があった。恋の物語を見るのが、どうやら好きらしい。
「何がそんなにいいの?」
「男の人がかっこよくて憧れる」
まさかマグディエルが、そちら側にあこがれを抱いているとは意外だった。
「女のほうじゃないんだ」
「うん、女の人を守る、男の人がかっこいいなって。戦士とか」
絶対に、向いていないと思うけど。
「アズバも、一緒に観に行こうよ」
そんなに興味はそそられなかったけど、アズバは「うん、いいよ」と答えた。
お芝居の内容は、マグディエルみたいに何度も観に行くほどではなかったけれど、けっこう面白かった。マグディエルは、男の人がかっこよくて憧れる、と言っていたけれど、アズバは、女の人のほうがいいな、と思った。
かわいらしくて、かよわくて、誰かに大切に思われて、守られる。自分とは真逆なところが、魅力的でうらやましい。
芝居の感想を話しながら、ふたりで地上をそぞろ歩いていると、なにやら広場で人々がもめているところに出くわしてしまった。中央で処刑でもしようというところなのか、群衆が石を投げたりしながら、わめいている。
アズバとマグディエルは、すぐにその場から離れようとしたが、あとからあとから集まる人の波に手間取る。群衆の怒りのようなものが、そこいらじゅうに広がり始めた。あちこちで、暴れる者がではじめる。
まずいな。
叫び声が上がった。
途端に、叫び声のあったほうから、恐怖の波と一緒に、人々がいっせいに逃げようと動く。そこらじゅうに、叫び声、怒声、投げられた石が飛び交った。
人の波でろくに動けない中、マグディエルに腕を引かれた。人の群れの隙間から抜け出て、置いてあった荷車の横で身をひくくする。マグディエルが、飛んでくる石が当たらないように、アズバをかばった。震える手で、アズバの肩や頭を抱え込むようにする。
まただ。
震えるほど、こわいくせに。
でも……、今日見たお芝居に出てくる男の人のようで、かっこいい。そうすると、自分は、お芝居に出てきた女の人のようかもしれない。だれかに守られるというのは、なんだかすごく安心する。
飛んできた石がぶつかって、マグディエルが叫んだ。
「痛―ッ!」
その後も、マグディエルは痛い痛いと言いながら、でも、しっかりとアズバのことを守った。
群衆の波が引いたころ、マグディエルが泣きながら、心配そうな顔をして言う。
「アズバ、大丈夫? 当たらなかった?」
「うん」
マグディエルは「なら良かった」と言って微笑んだ。泣きながらだから、なさけない顔と言ってしまえば、そうだけど。でも、ほっとするような、頼もしい感じがあった。
やっぱり、かっこいいかもしれない。
その後、しばらくして、なんとなく思い立った。
女の姿で過ごしてみたら——、どんな感じがするかな。
女の姿で、まずはナダブの家に遊びに行ってみた。
「アズバか? なんだそれ。へんなの」
にこりともせず、そう言い放ったナダブの頬を打つ。
次に、マグディエルの家に遊びに行ってみた。
扉があいて、目が合うと、マグディエルが驚いた顔をした。でも、一瞬のことで、すぐに、嬉しそうな顔をして言った。
「わあ、アズバ、すごく綺麗だね」
「そう? 変じゃない?」
「変じゃないよ。すごく可愛いし、すごく綺麗だ」
「ね、話し方まで女っぽくなったら、変かな」
「え! いいと思う! してみて!」
「えっ、うーん、急に言われても」
「この前のお芝居のセリフはどう? 『わたし、あなたと一緒にいるのが、好きよ』だよ。はい」
すごい、セリフまで覚えている。
「わ、わたし、あなたと一緒にいるのが、好きよ」
その後のマグディエルの喜びようがすごかった。アズバがげっそりするまで、色んなセリフを言わされる。おかげで、なんとなく女っぽい喋り方が分かったかもしれない。
*
アズバは、マグディエルの唇に親愛のキスを返した。
今のふたりの姿は、あのお芝居にでてきた、男の人と女の人みたいに見えるかもしれない。
変な感じ。
でも、とっても嬉しい。
あの日、偽りを言ったわけじゃないけれど、女の姿になったもうひとつの理由を、なんとなく言わずにいた。湖でレビヤタンを追い払ったとき、マグディエルに聞かれた『なんで急に女の姿に変えたの?』の答えのうち、ひとつは、力がつよすぎるから。そして、もうひとつは、あのお芝居の女の人みたいになってみたかったからだ。
マグディエルが守ってくれるとき、女の姿でいたら、どんな気分がするかなって、そう思った。
でも、別に、姿は関係なかったのかもしれない。
レビヤタンにラッパを奪われた後、マグディエルは歩くこともできないほど、しんどそうな様子で、男の姿をしたアズバの腕の中でぐったりしていた。ちいさな女の姿になったマグディエルは、そんな状態でも、湖の荒れ狂う水からアズバを守るために、翼を広げた。
あの湖の壁が崩壊する中、マグディエルの翼はぴったりと閉じて、アズバの身体を守った。すごい勢いで対岸へと押し流される中、アズバの身体にはほとんど水流の衝撃はなかった。
唇を離すと、マグディエルの優しい瞳と目が合う。
嬉しそう。
マグディエルの瞳に、同じように嬉しそうな顔をした自分が映る。
森に、ふたりの、ちいさく湧き上がるような笑い声が響いた。
マグディエルは、きっと、これも気づいていない。
わたしが優しくしているのは、あなただけよ。
わたしのいちばんの友だち。




