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第42話 ルシファーの最高に素敵なキスの行方

 マグディエルが、ルシファーに運んでもらって、家に帰ったときには、すっかり暗くなっていた。パンデモニウムがあまりに明るかったからか、なんだか目が慣れない。


 ルシファーにそっと降ろされて、家の方を見ると、扉の前で、アズバが座っていて、いままさに立ち上がろうとしたところだった。


 マグディエルは駆け寄った。

 アズバもこちらに駆けてくる。


「アズバ」

「マグディエル、おかえり」


 お互いの頬にキスする。

 マグディエルの姿が男の姿に戻った。


 アズバがマグディエルの後ろに向かって、礼儀正しく挨拶した。


「こんばんは」


 ルシファーが優しい顔で、挨拶をかえす。


「こんばんは。きみは、アズバだね。おそくなって、心配をかけてしまったかな」

「いいえ、マグディエルの友だちだもの、心配なんてしません。わたしも、お菓子いただきました。とっても美味しかったです」


 マグディエルはお菓子と聞いて思い出した。


「通りもん!」

「気に入ったのかい?」


 ルシファーに聞かれて、つい、ひとつしか食べれなかったと、ぐちぐち言ってしまう。

 ルシファーがくすくす笑いながら言った。


「ふたりとも、手をだして」


 マグディエルとアズバが手を出すと、ルシファーがさっとその上に手をかざす。彼の手が通り過ぎると、それぞれの手の上に、求めていた博多通りもん(はかたとおりもん)が、ひとつずつあった。


「では、またね、マグディエル」


 ルシファーはそう言って微笑むと、あっという間に消えた。

 マグディエルは、消える前に、と、おもいっきり息を吸い込む。


「いい匂いね」


 アズバもうっとりした顔で言った。

 ふたりで深呼吸する。


 マグディエルとアズバは、家の前にある、切り株の上に、ふたりでぎゅっとなって座った。ナダブはもう寝ているらしいので、ふたりで、こっそり博多通りもんを食べることにする。


 アズバが饅頭まんじゅうを、すこしずつ大事そうに食べながら言う。


「楽しかった?」

「うん、とっても。ごめんね、ヨハネの家の修理手伝えなくて」

「そんなこと、気にしなくていいわ」


 マグディエルはかじりかけの饅頭を見ながら言った。


「ねえ、アズバ、天国も地獄もわたしたちの知らないことだらけだね」

「どうしたの急に」

「ルシファーは、とっても親切だし、正直だ。からかってくるときは、本当にむかつくし、悪魔っぽいなと思うけど……。狡猾なヘビとか、よこしまな竜とか、知らずにそう言っていたけど、実際はそんな風には思えないよ」


 アズバが頷いて、言った。


「わたしにもルシファーのこと、もっと聞かせて。あなたのお友だちなら、きっと素敵な天使ね」


 マグディエルは嬉しくなった。だれよりも、アズバに話を聞いてもらうのが、好きだ。今日あったことについて、たくさん話した。


 地獄の首都パンデモニウムが地上のどんな都会よりも都会っぽかったこと、ルシファーの家の庭園の果物を食べてみたかったこと、家の中が豪華すぎて眩暈めまいがしたこと、シアタールームで大好きなタイタニックを観たこと、アズバに持って帰りたかったくらい美味しい食べものと飲みもののこと、特にプリンが美味しすぎたこと、ゲームだと自分は負けず嫌いになるらしいと分かったこと、全部話した。


 状態異常についてだけは……、なかったことにした。


 アズバがやさしい顔で話を聞いてくれる。


 ふと、アズバの唇がきになった。

 つい、目が行く。


 はっとして、アズバの眼を見る。


 マグディエルは、そのまま、シェムハザに会った話もした。


「昨日の夜、グリゴリの天使に会ったよ」

「地下世界に封じられた、あのグリゴリ?」

「そう」


 マグディエルはウリムとトンミムをさがしに出かけて出会った、不思議な出来事についても、すっかりアズバに話した。


「ねえ、わたしも彼のために祈りたいわ」


 アズバが悲しい顔をして言った。

 二人で穴があった場所に行くことにした。



     *



「本当にすっかり、穴があったなんてわからないわね」


 アズバが言った通り、穴があった場所には、草も花もあって、まるで昔からそこには地面がありましたよ、というような顔をしていた。


 ふたりで、穴があった場所に膝をつく。

 下草がやわらかい。


「シェムハザは、もうずっと、彼女の魂を集めてるのね。何千年も」

「うん、そうだね」

「わたしたちが、生きたよりも長い時間よね」

「……うん」


 グリゴリたちが地下世界に封じられたのは、旧約の時代だ。それも、ノアのころなら、その長い歴史の中でも、ずいぶんと最初のあたりになる。創世の時代の話だ。


 一体、どれほどの時間だろうか。

 四千年? 五千年? もっと?


「わたし、シェムハザを尊敬するわ」


 アズバが草地に手をそっとふれて、続けて言った。


「ネフィリムが、ちゃんと愛されていて良かった。生まれてきたのに、誰にも愛されないまま、罪をおかすだけだったら、つらいもの」

「そうだね。……どこに、罪があるのだろうね」

「すごく、むずかしいわね」

「うん」


 アズバが、胸の前で手を組んで、目をつむる。

 やさしい香りが、あたりに立ちのぼった。


 マグディエルも、同じようにして、祈ろうとしたが、目を瞑ると、なぜかアズバの顔を見たい気持ちになった。うっすらと目をあけて、隣で祈りをあげるアズバを盗み見る。


 しんとする森にさす、はっきりとした月明かりに、アズバの頬が照らされている。やわらかな頬にかかる、まつげの影。ととのって美しい鼻筋に、きれいなかたちの唇。いつでも、優しさを含んだような表情をつくる、アズバのやわらかそうな唇から、目がはなせない。その輪郭が、月の光をうけて、いつもより、はっきりとした印象を与えていた。


 マグディエルは、ルシファーのキスを思い出した。帰り際に、ルシファーがしてくれた親愛のキスが、はっきりとした形をもってよみがえる。



 あんなに——、素敵なキスはされたことがない。



 ほんとうに、すべてを明け渡すような、最高に素敵な親愛のキスだった。あなたに心をゆだねます、あなたを信頼します、そう伝えるようなキスだった。


 アズバの唇に、そんなキスをしたら……。

 彼女はどんな反応をするだろうか。


 驚くだろうか。


 それとも……、困るだろうか。


 もしかして、マグディエルがルシファーのキスを素敵だと感じたように、素敵だと感じてくれるだろうか。もし、そうだったら、すごくいいのに。


 アズバが、祈りをおえて、こちらに目を向けた。

 固まったままのマグディエルを見て、首をかしげる。


「マグディエル? どうしたの?」


 どうしよう!


 マグディエルも、ルシファーがしたような、心の底から素敵だと思えるキスを、アズバに渡したかった。


 マグディエルは、そのままひざで移動して、アズバの正面にまわった。

 お互いに跪いて見つめ合う。


 アズバが「ん?」みたいな顔をしつつ、見守ってくれている。


 マグディエルは、落ち着こうと、息をはいた。


 どうしよう、なんだか、喉がイガイガしてきた。心拍数も上がってきた気がする。今すぐ、ウワーッと言って、走り去りたいような気もする。


 マグディエルは、一度エヘンとやってから、ルシファーのあの感じを再現しようとした。


「キ、キ、キ」

「キ?」


 だめだ、さいしょからつまづいた。


「キス、してもいい?」


 ルシファーみたいにさらっと言えなかった。


「もちろんよ」


 アズバが笑顔で答える。


 きっといつもみたいに、頬か額にされると思っている。マグディエルだって、ルシファーの時にそう思っていた。


 マグディエルは、アズバが嫌なら、よけられるように、ゆっくりと顔を近付けた。


 心臓と一緒に身体が震えていないかな。


 アズバの瞳は、まっすぐにマグディエルを見つめていた。

 アズバはよけない。

 近づくと、彼女のまつげがすこし伏せられる。


 もう、触れる、というところで、ためらう。


 ああ、なんか、もう、だめかもしれない。心臓がそのまま跳ねてどこかに行きそうだし、キスってどうするんだっけ。アズバのまつげ、長くてふさふさだな。やっぱり、唇にキスしたいって言っておくべきだったかも。


 そのとき、アズバの指先が、そっと、マグディエルの手にふれた。


 お互いの手を握る。触れあった掌から、アズバの、大丈夫だよ、という気持ちが流れ込んでくるようだった。


 マグディエルは、そっとアズバの唇に、自分の唇をよせた。


 ほんのすこし触れるだけの、唇のさきがくすぐったいような、キスだった。

 一瞬だったような、すごく長い時間だったような気がした。


 マグディエルが唇を離すと、アズバが微笑む。


 綺麗だ。


 今度は、アズバがそっと、マグディエルの唇に親愛のキスを返した。


 さっきよりも、ちゃんと唇がふれあって、アズバのやわらかな唇が心地よかった。そっくりそのまま返すよ、と言うような、大切なものにするような、素敵なキスだった。


 握り合ったままの手から、嬉しいきもちが、彼女に伝わればいいのに。


 どちらともなく、ふたりで、額を寄せ合って、鼻と鼻をくっつけ、押し合う。


 お互い照れ隠しみたいに笑った。


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