第40話 ルシファーは、反省しない
マグディエルは耳を疑った。あまりにも、何でもないことのように言うルシファーの様子に戸惑う。震える指先を左右の手でぎゅっと握り込む。
騙されたんだ。
マグディエルは、本当にルシファーが、ベルゼブブの言うようにレビヤタンを使ってラッパを盗ませたのなら、きっと自分は怒りを感じるだろうと思っていた。でも、実際そうなると、怒りは湧いてこなかった。
マグディエルは、訊ねた。
「なぜ、そんなことを?」
「君と友になりたかったからだ」
「他の方法ではいけませんでしたか」
「普通に挨拶したら、きみは心をゆるしてくれた?」
マグディエルは自信がなかった。きっと、普通に挨拶をされても、心をゆだねたりはできなかっただろう。
それでも、とてもつらい。
こんなふうに騙されるのは、悲しかった。
マグディエルは恐る恐る訊いた。
「ほんとうに、私と友になりたいだけですか? それとも他にまだ、隠していることがありますか?」
「友になりたいだけだ」
ルシファーは正直だった。前回もそうだ。『神を捨てることができる自由意志』なんて、おそろしい心地のする話だったが、それも正直に話してくれた。今回も、ルシファーは正直だ。レビヤタンにラッパを盗ませたことを隠そうともしない。
少しの間、悩んだ。
ルシファーがしてくれた、数々の親切が思いおこされた。
マグディエルは、まっすぐにルシファーを見つめて言った。
「友よ、どうか、もう騙すようなことはしないでくだい」
ルシファーも、マグディエルをまっすぐに見つめ返して言った。
「わかった。二度としない」
信じよう。
彼が、友になりたいだけと言う言葉を、信じることに、マグディエルは決めた。一度は疑ってしまったのだから、もう二度と疑うようなことはしないでおうこう。
「わたしは、あなたがしてくれた親切に救われました。だから、わたしもあなたに真心を返したい。ルシファー、あなたは私の友です。わたしも、二度と疑うことはしません」
ルシファーが急にしゅんとした様子で、瞳をさげて「ごめんなさい」と言った。
マグディエルは焦って立ち上がり、ルシファーの隣に行った。焦りすぎてカウンターで膝を思いっきり打った。痛い。
ルシファーが落ち込んだ様子で「ゆるしてくれる?」と言った。
「ゆ、ゆるします。ゆるします。わたしも、あなたのことを疑いました。わたしこそ、ごめんなさい。あの、だから、その……、気にしすぎないでくださいね」
ルシファーが肩をおとして、項垂れている。
どうしよう、すごくしょんぼりしている。
マグディエルは伸びあがって、ルシファーの頬に親愛のキスをした。
ルシファーも、すぐにマグディエルの頬に親愛のキスを返す。
近づいたとき、マグディエルは息を吸い込んだ。相変わらずうっとりするほど良い香り。この空気、持って帰りたい。マグディエルは、しばらく素晴らしい香りを堪能して、あれ、と気づいた。ルシファーが顔を近づけた姿勢のまま、動かない。なんで、と思って、身体をはなしてルシファーの顔を見ると、ニヤニヤ笑っていた。
あっ!
これは、覚えがある!
ルシファーが、罪のなさそうな笑顔をして言った。
「からかうのはいいんだろう?」
「反省してますか?」
マグディエルが肩を怒らせて言うと、ルシファーがまたしょんぼりして言った。
「ごめんなさい」
「もう騙されませんよ」
すると、ルシファーが不敵に笑って言った。
「へえ、じゃあ安心だな」
マグディエルは、もうちょっとで、こいつ、と言うところだった。
*
マグディエルは大きなカウチソファの背もたれに深くもたれ、足をソファの上に放り出して寝そべるような姿で、シアタールームのスクリーンを眺めていた。
——男の姿で。
マグディエルの胸に、人の女がもたれかかって、ポップコーンをつまんでいる。
「なんで、人の女の姿になるんです?」
「からかおうと思って」
そんなことまで正直に言わなくても。
ルシファーが人の女の姿でマグディエルの足の間に陣取って、くつろいでいる。そのせいで、マグディエルの姿は男にもどっていた。
「マグディエルの好きな映画を当てる」
ルシファーはそう言って、マグディエルをシアタールームに連れて行った。家にシアタールーム? ちょっと、いや、だいぶ、マグディエルの想像する生活感の範囲からは、かけ離れていた。しかも、これまた二十人は余裕で一緒に映画を観られそうな大きさだった。スクリーンも大きい。音響も良い。応援上映とかしたい。
ルシファーが用意してくれたポップコーンとコーラを合わせて、完璧な映画鑑賞会が開催された。部屋が暗くなって、映像がはじまる。
何の映画だろう。
マグディエルはワクワクしながらオープニングを見た。
すぐ、分かった。
タイタニック!
好き!
つい、ポップコーンの存在も、ルシファーがいるのも忘れて真剣に観た。泣けるシーンになると、下からすっとタオルが差し出される。ティッシュじゃ間に合わないので、ありがたかった。あっという間にエンドロールになった。
ルシファーが完全にマグディエルにもたれかかった状態で、振り向いて言った。
「好きな映画は当たった?」
顎のあたりにルシファーの息がかかって、くすぐったい。
「はい」
「なんとなく、こういう映画が好きそうだなと思って」
なんで、ばれているんだろう。もしや、恋愛小説が好きということまで、バレてはいないよね。
ルシファーがこちらを向いて、そのまましなだれかかるようにマグディエルの上でくつろぐ。エンドロールの流れる部屋はまだ暗いままだが、あまりに近いので、はっきりとルシファーの表情が見える。なんだか楽しそうな顔をしていた。
マグディエルは、そわそわした。
ルシファーの着ている服がうすい上に、人の女の姿になったルシファーの……、なんというか、立派めの、胸が、マグディエルの身体にぴったりとくっついていて、落ち着かない。打ち消そう、打ち消そうとするのに、ミカエルの「ぴったりくっつくと気持ちいい」とか「やわらかい」という言葉が浮かんでくる。
ミカエル消えろ! ミカエル消えろ!
「マグディエル」
「はい!」
力強く念じていたので、返事まで力強くなる。
「背中がかゆいから、なでてくれる?」
「え、あ、はい」
マグディエルは両の手で、ルシファーの背をなでた。なんだか変な感じだった。羽がないから、あるべきものが、なくて……、なんか変。いつもは男の姿をしているし、背が高いので、ルシファーの背中が華奢で小さく感じられて、それも不思議な感じがした。
それにしても、羽がないと、こんな感じなんだな。上から下までなめらかに何もなくて、撫でやすい。人の背中は、天使よりも、なんだか頼りなげだ。それに、なめらかな形は、撫でるとなんだか心地よい。
ルシファーがマグディエルの頬にキスをした。
ん?
親愛のキス? かな?
背中撫でに集中していたからか、よく分からなかった。
マグディエルは心をこめて、親愛のキスをルシファーの額に返した。
ルシファーがマグディエルの首に、両腕をまわしてひっつく。頬にキスしたと思ったら、耳にも、首筋にもキスする。すごく、くすぐったい。
「あの、ルシファー、何をしてるんです?」
ルシファーが相変わらず楽しそうな顔で言う。
「マグディエルは、天使が欲情する条件を知っている?」
「いいえ」
そういえば、ミカエルが天使同士では欲情しないと言っていたっけ。その人間たちの営みは、マグディエルにとっては、小説や映画などの物語の中だけのことだったし、自分とはまったく関わり合いのない行為なので、条件など考えたこともなかった。
でも、シェムハザは人の娘と愛しあって、子をなしたのだから、天使だって、そういうことをしようと思えばできるのだろう。そうだとしても、マグディエルには縁の遠い話だった。
「前に言っただろう、天使は人間を擬態するのが得意だ。それも、無意識に擬態する」
スクリーンのひかりを受けて、印象的なルシファーのまつげが上下する。
「グリゴリの天使たちが、人の女と交わったのには、理由がある。みんな、人の女と交わった。人の男とは交わらなかったのに……。なぜだと思う?」
言われてみれば、不思議だった。
なぜ、男とは交わらなかったんだろう。
「わかりません」
ルシファーの顔がそっと近づいた。
「天使は人の女に弱いんだよ。相手にひっぱられて欲情してしまうんだ。人の男を擬態してね」
ルシファーがそう言うと、今までかいだことのない香りがルシファーからたちのぼった。
なぜか強く惹きつけられる香りだった。もっと、もっと、と求めたくなるような、衝動がある。潤いのある香りのようなのに、深く吸うと、なぜか渇く気がした。
マグディエルは、しっとりとしたルシファーの赤い唇から目が離せなくなった。この唇を舐めてみたら、どんな気持ちになるだろう。ルシファーの背中を撫でていた手に、意識が集中する。もっと撫でたい。なめらかな背を撫でて、その細い腰をつかんだらどんな心地がするだろう。目の前にある、やわらかな弧をえがく肩に、噛みついたら、ルシファーはどんな表情をするだろうか。
ルシファーがマグディエルの首筋から胸にかけて、ゆっくりと撫でた。
ぞわと鳥肌がたつ。
その感覚は、これまでマグディエルが感じたことのない感覚だった。マグディエルの一部が、自身の意志とは関係なしに変化する。これが、どういう状態かは知っている。人の男が欲情した時になる反応だ。
知ってはいるけれど、そんな風になったのは初めてで、混乱する。
まるで自分のものとは思われないような考えが、つぎつぎと押し寄せてくる。
こんなに近くにいるのに、いますぐ、もっと、ルシファーに近寄りたいと思った。
マグディエルは怖くなった。
怖いのに、ルシファーの瞳に見つめられると、今すぐおかしなことをしでかしそうだった。
いやだ。
怖い。
マグディエルはおそろしくなって、
そして、
泣いた。




