第35話 どうせなら女の子にはさまれて眠りたい
もはや倒壊せずに立っているのが奇跡みたいな震えを実践するマグディエルの目の前まで、白い靄の女が近づいてきた。女の伸ばした指先が、顔にふれそうなほど近づく。マグディエルの浅い息が早くなる。女は、じっとマグディエルを見つめるようにしたあと、手を下げ、俯いた。
悲しそうに見えた。
そのまま、ほどけるように姿を消す。
背後でナダブが呟いた。
「あいつら、なにか探してるっぽいな」
「ぶえ?」
マグディエルの、力いっぱい震えた唇から、疑問の音が出た。
「おまえさぁ……」
ナダブがあきれたような声を出して、マグディエルの腕をつかんだ。引っ張られて、土の壁とナダブの身体の間に収まる。
「怖いくせに何やってんだよ」
ナダブが笑った。マグディエルを壁に隠すようにして、周りを見渡して言う。
「お前がパニクるから、なんか逆に落ち着いてきたわ」
ナダブが、またあらわれた白い靄をじっと見つめて言った。
「ほら、やっぱり、べつにこっちに何かしてくるわけじゃなさそうだ」
ナダブの肩越しに見ると、たしかに、白い靄の女は、あらわれては何かを探し消えていくようだった。マグディエルの肩から力が抜ける。ナダブの肩に顔をうずめて、思いっきり抱きつく。深く息を吸った。すこしずつ、震えが収まってゆく。
ナダブがマグディエルの背をなでた。
「ねえ、そこに誰かいるの?」
突然はっきりとした声が響いて、マグディエルは跳び上がった。また叫びそうになったところを、ナダブに手で口をふさがれる。
「落ち着けって、アズバだ」
ナダブは上に向かって叫んだ。
「アズバ、絶対降りてくるなよ!」
「ナダブ? 叫び声が聞こえたけど、何してるのそんなところで、マグディエルもいるの?」
「ああ、いるよ。この場所は飛べないみたいだ。何か引っ張り上げられそうなもの持ってきてくれないか?」
「わかったわ。待ってて」
*
アズバがイエスに借りたロープを使って、マグディエルとナダブを引き上げた。マグディエルは穴から出て、アズバに抱きついて男の姿にもどったとたん、おいおいと泣いた。しゃくりあげながら、ふたりに手を引かれて家まで戻った。
マグディエルは、ぼわぼわに腫れた目を、アズバに濡れた布で冷やしてもらいながら言った。
「今日は、三人で寝ます」
「はぁ?」
ナダブが、あきれた顔をした。
「わたしは、真ん中で寝ます」
「よっぽど怖かったのね」
せっかく三つ目のベッドが追加されたのに、ふたつのベッドをくっつけて、マグディエルが真ん中に陣取り、三人で並んでせまっくるしく寝ころぶ。
問題が起きた。
アズバの方を向いていれば、男の姿で、ナダブの方を向くと、女の姿になってしまう。ある程度距離があれば影響されないようだが、ひっついて眠るのは難しそうだった。
「ほれ」
ナダブがマグディエルを覗き込む。
途端に女の姿にかわる。
「はい」
アズバが覗き込む。
途端に男の姿に変わる。
マグディエルは口元を押さえて言った。
「なんか、吐きそう……」
「えぇ、やめろよな」
「なんだか、ややこしいことになっちゃったわね。どうして、今になってナダブの姿にも反応するようになっちゃたのかしら」
「たぶん、ナダブに置いて行かれたくないと思ったとき、ナダブにとって価値のあるものになりたいと、そう思ってしまったんだと思う」
「どういうこと?」
マグディエルは、ルシファーから聞いた、自分が持つ『怖れ』と『欲望』について、話すことにした。『自分には価値がない』という恐れ、『価値ある者になりたい』という欲望を、自らの口にのせるのは、ひどく勇気がいった。
真剣な顔で聞いていたアズバが、マグディエルを抱きしめた。
「マグディエル、あなったったら、自分に価値がないだなんて……」
隣でナダブが怒ったような声で言った。
「ずっと、そんなふうに思ってたのか」
「ずっとじゃない。いつからかは、はっきりとは分からないけど……、最近だと思う」
アズバがマグディエルの頬にキスをした。アズバのなぐさめの心が感じられた。
マグディエルはぽつりと話した。
「最初は、なにも不安に思ったりしてなかった。いつか、使命の時がくるまで、あのラッパ吹きの丘で過ごすものなんだって、そう思ってた。でも、急に分からなくなった」
「何が分からなくなったの?」
「二千年以上も待っているのに、使命の時は来ないし、肝心のラッパを吹いたこともない。そういえば、わたしは一度も神を感じたことがないし……。自分の使命だと思っているものも、本当なんだろうかって」
「千年たったときは気にしてなかったじゃん」
ナダブに言われて、そういえば、と思い出す。
「そういえば、そうだね」
「なんで千年目は大丈夫で、二千年目はそんな風に思うんだ?」
なんでだろう。
そう言われると、たしかに変な気がした。
そのとき、なぜかマグディエルは『まだ』と書かれた手紙を届けてくれた天使の言葉を思い出した。
『さがしなさい。そうすれば、見いだすことができます』
それから、エレデが雲の上の泉で言った言葉も思い出した。
『マグディエル、進みなさい。求めれば、与えられる。まだ今は、きみが望んだことが何を起こすのかは分からないが、きみの望む通りに進むんだよ』
自分はいったい、何をさがし、何を求めて、何を望んでいるのだろうか。
御座を目指したのは、なぜかそこに行けば、神を知れると思ったからだ。神を知りたいと思ったのは、使命に迷うことがないように、ラッパの取扱説明書がほしいと思ったからだ。ラッパの説明書がほしいと思ったのは、ラッパを吹きたいと思ったからだ。エレデが言っていた、本来ならば、吹きたいと思うはずのないラッパを吹きたいと思った、その理由は……。
マグディエルはそこまで考えて、思わず大きな声を出して起き上がった。
「うわっ!」
アズバが「なになに!」と言い、ナダブが「なんの反応だよ」と言った。
うそうそ。
ラッパを吹きたい理由は、心当たりがあった。
え、まさか、それが二千年目にして、不安にとらわれるようになった理由なんだろうか。
どうしよう。
しょうもなさすぎる。
マグディエルは、アズバとナダブの顔を見た。ふたりとも心配そうな顔で、真剣に聞いてくれている。
うそだ。
わたし、最低野郎かもしれない。
言うべきか。
言いたくない。
アズバが一層心配そうな顔をして起き上がり、マグディエルの腕をなでた。
うぅっ、今はアズバの優しさが心に痛い。
マグディエルは、蚊でももうちょっと存在感あるだろうというくらいの、ちいさな声で言った。
「退屈だったから……」
アズバとナダブが同時に「え?」と言った。そのまま続けて二人同時に「なんて?」と言う。マグディエルはあきらめて、力なく言った。
「原因は、退屈だったから……かもしれない」
ナダブが怪訝な顔で「退屈……?」とつぶやいた。アズバが、よくわからないという顔をして天井を見上げる。
「いつごろからだったか、ただ使命の時が来るのを待つ毎日を、退屈だなって思うようになった。退屈で……、磨いてばかりで吹いたことのないラッパを吹いてみたいなって思ったんだ。そう思ったら、そういえば、ラッパを吹いたこともないのに使命の時に吹けるのかなって不安になった。吹いたこともないラッパを使命だと思ってるけど、本当にそうかなって疑い始めたら、そういえば神を感じたこともないことに気づいて……、で……」
ナダブが怪訝な顔のまま言った。
「で、神のことも知らない、使命のこともよく分からない、そういう自分には価値がないってとこに行きついたのか?」
マグディエルは頷いた。
ナダブが「なんで退屈から、そこに行きつくんだよ~」と言いながら脱力した。アズバが「まあ、あなたって昔から考えすぎるところ、あったわよね」とマグディエルの頭をなでた。
なんだか、申し訳ない。
自分の悩みの発生元がしょうもなさすぎる。
マグディエルはベッドに倒れ込んだ。
ナダブが寝ころんだまま、身体をこちらに向けた。そちらに向くと、マグディエルの姿が女になる。ナダブが言った。
「まあ、目指す御座は見つかったんだ。焦って変に悩んだりするなよ」
「うん」
マグディエルはじいっとナダブを見た。
「なんだよ?」
「ナダブの女の姿、見たことないなと思って」
「はあ?」
アズバが手をたたいて言った。
「たしかに! ナダブの女の姿見たことないわね!」
ナダブが不機嫌そうな声で「見なくていい」と言った。
「ナダブが女の姿になってくれたら、姿揺れしなくてすむ」
「やだね。アズバが男の姿になればいいだろ」
「え~、男の姿だとベッドのサイズぎりぎりでやだ~」
結局、アズバとナダブがじゃんけんをして、負けた方が姿を変えることになった。真ん中で寝ころぶマグディエルの上で、アズバとナダブの真剣勝負が始まった。
アズバとナダブが二人で勝負の声をあげる。
「じゃんけん、ぽん! あいこでしょ! あいこでしょ! あいこでしょ!」
ナダブ負けろ。ナダブ負けろ。
「あいこでしょ!」
「よっしゃあ!」
アズバが勇ましく勝利宣言した。
「クソーッ‼」
ナダブがのけぞってベッドに倒れる。
マグディエルはじっと、ナダブを見た。
ナダブの女の姿! 気になる!
ナダブが「くそぉぉ」と言いながら、起き上がって、しぶい顔をしたあと、ため息をついてから、姿を女に変えた。マグディエルの姿が男に戻る。
「可愛い!」
アズバとマグディエルの口から同時に、まったく同じ調子で言葉が出た。ひとまわり小さく華奢になったナダブは、生意気な雰囲気のする表情はそのままだが、男の姿の時よりも角が取れて、愛らしい様子になった。
ふたりで「可愛い」を連呼していたら、ナダブが枕でマグディエルの顔を打った。
楽しい夜になった。




