第34話 仄暗い穴の底から
マグディエルは、ひとり森の中を散歩していた。
イエスとヨハネが帰った後、どうしても博多通りもんを食べられなかったショックから立ち直れず、気晴らしにひとりで散歩することにした。
午後の陽射しが、葉陰から地に落ちて、揺れている。森をぬける風は、おだやかで、新鮮な緑の香りを運んだ。あたりには、小さな花が咲いている。
なんか、久しぶりだな、この感じ。
しばらく過ごしたダビデの町は、大きな町だった。たくさんの天使や人が行き交う町で、騒がしくもあり、それが楽しくもあった。
この森は静かで、ラッパ吹きの丘を思い出させた。
肩の力が抜ける。
ようやっと、通りもんショックから抜け出せそう。
でも、通りもん、食べたかったな。
まだある、と思っていたものがなかったから、よりショックが大きかったのかもしれない。
「はぁ、通りもん……」
ぼやーっとしながら、歩いていたら、右足を踏み出したあと、着地できずにバランスを崩した。
「わっ」
とっさに手を前に突き出して、転倒をふせごうとしたが、地面がない。
目の前に闇が広がっていた。
マグディエルは堕ちた。
思わず大声で叫んだあとで、飛べることを思い出して、翼に力をこめる。
「えっ?」
翼を動かしても、ただ重いばかりで、空気をとらえることができない。この感覚に覚えがあった。レビヤタンの養殖場の湖の上を飛べなかったときと同じだ。
マグディエルは、体勢も整えられず、背中から堕ちた。地面に打ちつけられて、息が止まる。喉の奥から、捻り出されたうめき声が出た。
衝撃と痛みで、しばらく堕ちた姿勢のまま動けなかった。
はるか高い場所に、ぽっかりまるく切り取ったように空が見える。どうやら深い穴に落ちたようだ。
しばらくして、マグディエルは、痛む腰に手をあてながら、よろよろと起き上がった。
何度か飛ぼうとしてみるが、やはり飛べない。
マグディエルは、土と石の壁をよじのぼろうとした。足をかけては、手がはずれ、手をかけては、足を踏み外し、何度やっても登れそうにない。力をこめて壁にくいこませた指先が泥だらけになって痛んだ。
どうしよう。
マグディエルはあたりを見渡した。
どうやら、横穴が広がっているようで、まわりは結構ひろい空間が広がっている。先の方は真っ暗闇で見えない。ぞっとするような冷たい風が横穴からふいてきた。
こわい。
「アズバーッ! ナダブーッ!」
ぽっかりあいた空に向かって叫ぶ。家からずいぶん離れてしまったから、聞こえはしないだろうけれど、こわくて思いっきり叫んだ。
自身の声が消えると、しんとした静けさが余計に際立った。冷たい土の壁につけた手が、冷えたせいか震える。呼吸が浅くなる。
そのとき、上から声が降ってきた。
「マグディエル?」
ナダブの声だった。
マグディエルは叫んだ。
「ナダブ、降りてく——」
来るな、と叫ぼうとしたのに、言う前にナダブが綺麗に着地した。
「よお。なにやってんの」
能天気な様子に思わず叫ぶ。
「馬鹿―ッ!」
「わ、なんだよ! うっせえな!」
「飛べないから、上がれないんだよ」
「えっ、まじ?」
ナダブが翼を何度かはばたかせて「あ、まじじゃん」と言った。
「もっと早く言えよ!」
「言おうとしたよ!」
「大体なんで、こんなとこにいるんだよ」
「それは……不注意で……」
「ばーか」
「しょうがな——」
マグディエルが言い返そうとしたとき、ナダブが怪訝な顔をして、マグディエルの背後に目をやった。
「何?」
「いや、なんか今、すーって、何か通ったような……」
マグディエルは勢いよく背後を振り返った。
横穴の暗闇が広がっている。土と埃を含んだ風が吹いていた。
「なにもいないじゃ——」
何かが横切った。
かすかに、音も聞こえた。
暗闇に白い靄のようなものがゆらめいた。
女だ。
人の女のような姿をしている。ほどけそうな、うすくて白い靄が女の姿をして歩いていた。手に何かをかかえて、ゆらゆらと揺れている。かすかに子守唄が聞こえた。
女の姿がふっと消えた。
「うわーッ‼」
マグディエルが叫ぶと、ナダブも一緒に叫んだ。お互いに抱きつく。
「ゆ、幽霊? いまの幽霊?」
「ばか、幽霊なんているわけないだろ。怖いこと言うなよおじさん!」
女がもっと近くに現われた。
「ひぃっ」
マグディエルはナダブを力いっぱい抱きしめた。
さっきとは別の女だ、白い靄の顔は輪郭しか分からない。表情のない薄靄の女が、ふらりふらりと、首をかしげながら歩き回る。
そして、また、ふっと消えた。
こわい、こわい、こわい。
ナダブが、マグディエルの腕を外して、壁に手をかけた。小さなとっかかりを使って、壁をよじのぼる。手元と、足元を確かめながら、筋力のあるナダブは軽々と登ってゆく。そのまま、あっという間に、登ってしまいそうな勢いだった。
置いていかれる。
こわい。
一人にしないで!
また、視界の端に白い靄が見えた。おそるおそる、そちらを見ると、薄靄の女がこちらに顔を向けていた。すこしずつ近寄って来る。
いやだ。
こわい。
マグディエルは壁の方を振り向いて、壁に手をつき、ナダブを見上げた。
マグディエルの喉から、震えた女の声が出た。
「ナダブ待って、置いていかないで」
ナダブが驚いた顔で、下に顔を向けた。
「おい、マグディエルおまえ……」
慌てた様子でナダブが飛び降りた。マグディエルはすかさず飛びつく。
「幽霊こわい!」
「なんで女の姿になるんだよ」
ナダブが困ったみたいな声で言った。マグディエルには今それを考えたり、説明する余裕はなかった。答えないマグディエルに、ナダブがため息をついて言う。
「しっかりしろよ。上に登って、なんか引っ張り上げられるもん取って来るから」
「そ、そっか。そうだよね……」
「おまえ、登れなかったんだろ?」
ナダブが、マグディエルの指先についた土をそっと払いながら言った。
「うん。わ、わかった。待ってる」
マグディエルが離れると、ナダブが壁をのぼりはじめた。
マグディエルは、壁にぴったりくっついてしゃがんだ。何も視界に入らないように、両の翼で自分をくるりと包み込む。
わたしは何も見ない。
何も見えない。
ナダブ、お願いだから早く戻ってきて!
左右の羽が重なった隙間から、ひんやりとした空気がすべりこんでくる。ナダブが土の壁をよじのぼっていく音と、自分の浅く呼吸する音が聞こえる。心臓が耳元に移動したんじゃないか、というくらい鼓動がうるさい。
羽と羽のすきまに、なにかが揺れた。
白い靄。
するすると集まって、はっきりとした形を作った。
女の目。
見開いて、こちらを覗き込んでいる。
マグディエルは今まで生きてきてたぶん一番大きな声で絶叫した。女の姿のせいもあるが、自分でも驚くほど、心臓を切り裂くような叫び声だった。
土の壁を滑り落ちるような音が聞こえた。
「おい、マグディエル!」
ナダブがマグディエルの翼をこじあけた。
ナダブの顔を見るっと、青ざめて心配そうな顔をしていた。
「おまえなっ、心臓止まるかと思っただろ、こっち来い」
ナダブに腕を掴まれて引き寄せられる。
ナダブの腕の中におさまると、暖かくてすこしほっとした。ナダブの翼が視界を遮るようにマグディエルを隠した。あたたかな肩に顔をうずめる。ナダブの匂いがした。ふかふかのベッドみたいに心地よい香りだった。
すこしずつ、早かった呼吸が落ち着いてくる。
足元に、いっそうひんやりとした空気がながれた。まとわりつくような、背筋を這い上るような、いやな冷たさだった。マグディエルは、振り向いて、ナダブの翼のすきまから、空気の流れてくるほうを見た。
女だ。
真っ暗闇の中に、白い靄の、人の女が立っている。
俯いている。
女がゆっくりと顔を上げて、こちらを見た。
目が合った。
真っ白の、うつろな目をしている。
マグディエルは、ナダブの身体を土の壁に押し付けるようにして、その前に立った。背中でナダブを壁に押し付けるようにする。羽を膨らませて、威嚇するみたいに翼をひろげる。
うしろから、ナダブの「おい……」という声が聞こえた。
女が、ゆっくりと右手をこちらに向けて上げた。
マグディエルの膝という膝が、最大震度を記録した。
呼吸が早くなる。
女がゆっくりと、こちらに近づいてきた。
膝の震えが、上へと伝播する。尻も腰も背筋も腕も、顎も何もかも震えた。
ゆっくりと近づいてくる白い靄の女を、マグディエルはひたと睨みつけた。じわっと溢れた涙のせいで、よけいクリアに見える。
翼まで、信じられない動きで震えはじめた。
わたしの、友に近づくな!
そう言おうとした。
最大震度のもとで、それは言葉にならなかった。
「あぶぶぶ……、あぶぶ……ぶぶぶぶぶ」




