第29話 番外編 ミカエルの書
年若いふたりの天使に手をかざすと、ルシファーがひとりの天使を連れてゆくところが見えた。それと、このふたりの天使たちが一生懸命に友を探す姿も。
探されていた天使には、心配してくれる友がいる。
そのうえ、ルシファーから羽の祝福も受けていた。
理由は分からないが、ルシファーが守ろうとしている。
ミカエルは、腕の中でおびえている、守られるばかりの年若い天使を、羨ましく思った。
すこし、からかって困らせてやろうとした。
だが、年若い天使の瞳の中に覚えのあるものを見た。自分の価値を見失ったものが持つ、恐れと欲望だった。ミカエルが昔持っていたものよりも、色濃くはっきりと出ている。
ミカエルは、その恐れを抱いた日のことを思い出した。
*
「さあ、これを」
ルシファーはそう言って、ミカエルに号令のラッパを手渡した。
天の万軍を従える者が、持つものだ。
「きみのことを、いつも愛しているよ」
ルシファーはそう言って、ミカエルに口づけした。祝福も、感謝も、なぐさめも、親愛も、すべてがこもっているが、別れのキスだった。
ルシファーは万軍の頭であることを捨て、自由を求めた。
ミカエルが何度引き止めても、ルシファーは決して振り返らない。
ウリムとトンミムが平和の道を示しても、決して振り向くことはなかった。
ルシファーは天の軍勢の三分の一を引き連れて、天に向かって飛んだ。
ミカエルは震える唇を、号令のラッパにあてて、息を吹き込んだ。
天の軍勢を率いて、ルシファーを追う。
力づくでも、止めなければ。
ミカエルの手がルシファーに届く前に、ルシファーは天の火に焼かれた。焼かれて、よみに堕ちてゆく。あんなに力強かった翼が力なく風にまかれ、美しい瞳は閉ざされて、堕ちていった。
その日から、ミカエルは自分の価値を見失った。
ルシファーはミカエルではなく信念を選んだし、ミカエルにはそれを止める力さえなかった。
だが、その恐れをいつまでも持ち続けることはできなかった。天の万軍の頭として、すべての天使を導かねばならない。ながい時をかけて、恐れは忘れられるように、小さくなって消えて行った。
そうして少しずつ、落ち着きを取り戻したころ、シェムハザが人の娘と恋をした。
「すまない、ミカエル」
「今からでも間に合う、シェムハザ。人の女のことは忘れて、天に戻るんだ」
「いいや、それはできない。我らは、お互いに呪いをかけたんだ。だれひとり、裏切ることがないように」
見張る者たちは、お互いに逃げることができないよう呪いをかけていた。
人の娘を守るためにそうまでするのか。
シェムハザはミカエルではなく人の娘を選び、人の娘と結婚して子をなした。
天使と人の間に生まれたネフィリムは、その巨体で地上のあらゆるものを喰いつくし、お互いまでをも喰らおうと暴れた。地上は、荒れた。神はアダムの系譜であるノアに船を作らせて逃し、ネフィリムをふくむすべてのものを水の中に沈めた。
ミカエルには、見張る者たちを地下世界に封じるようにとの命が下った。
見張る者は、そのほとんどが、自ら地下世界の門をくぐった。
ミカエルは、門の前で、シェムハザと別れのキスをした。
「ミカエル、どうかきみに安らぎのひかりがあるよう」
シェムハザの言葉が、ミカエルの胸にむなしく響く。
ミカエルは、大きな石の門の扉を押した。手にも心にも重い。ミカエルが右の扉を押していると、左の扉を押すものがあった。あの日、天の火に焼かれて堕ちて以来だった。
ルシファーが、そこにいた。
シェムハザが閉まってゆく門の中から言った。
「ルシファー、どうかミカエルをたのむ」
ルシファーは「わかった」と答えた。
ついに門は閉じられ、ミカエルは閉じた門に手をかざし呪いの言葉を言った。
「永遠の審判の日が訪れるまで、門は固く閉じよ」
門はミカエルの言葉を刻み、固く閉じた。
ルシファーの手が、ミカエルの腕にふれたが、ミカエルはその手を振り払った。
「サタンよ去れ」
しばらくルシファーは、ミカエルを見つめていたが、やがて去った。
その後、ルシファーはミカエルの気持ちがふさいだときに、やってくるようになった。ながいながい時間をかけて、お互いに話ができるようになった。むかしの関係とは、まったく異なる状態だったが、憎まれ口を言えるくらいにはなった。
ただ、ミカエルの孤独はいや増した。
ルシファーとは、心をゆるすには、お互いの立つ場所に隔たりがあったし、もはや、ミカエルの背をなで、祈りをあげてくれるものは天国には誰もいなかった。すべての天使は、ミカエルが守護すべき者だった。エレデだけが、変わらずにミカエルに癒しを与えたが、友を失った心の部分は、エレデには癒せない。
*
エレデが、マグディエルのおそれをとりのぞく姿を見て、なつかしくなった。むかし、あれはミカエルの特権のようなものだった。エレデの手に頬をおしつけると、あのころとかわらないエレデの慈しむような思いがながれこんできた。だが、エレデには孤独を引き受けることはできない。
ミカエルの心に虚しさが訪れた。
友を失い、ただ、自分に与えられた働きをするだけの自分に、むなしくなる。
ルシファーのように、信念を胸に天に挑むような強さはない。
シェムハザのように、他の何をもすてて誰かを愛したこともない。
もうだれも、ミカエルを守ってくれるものはおらず、ミカエルの心をあたためてくれる友はいない。
ミカエルは、部屋に戻るとさっさとベッドに入った。マグディエルは、戸惑った様子だった。
自分の部屋に帰りたければ、帰ればいい。気持ちが冷え込みすぎた夜は、女の肌にふれてもどうせ冷めるばかりだ。
マグディエルが、ミカエルの隣にきて、腕と翼でミカエルを包む。
祈りの香りがたちのぼった。
マグディエルが、ミカエルのために祈っている。
やさしく翼をなでられる。
こんな風にされるのは、いつぶりだろうか。
はるかに昔のことなのに、ルシファーとシェムハザとひっついて眠った夜がはっきりと思い出された。
腕をまわして、ぎゅっと抱きしめると、マグディエルから、さらにミカエルのための祈りが立ち上った。
弱い天使のくせに、生意気だな。
*
ミカエルは、門に刻まれた文字を指でなぞった。
地下世界の門は、固く閉ざされている。
マグディエルに鳩便を教えてやったら、ミカエルの所にも鳩便が来た。あんなにからかったのに、ただ感謝を伝える手紙だった。手紙の二枚目には、地上で人の女を探すのはやめろだとか、心配ですとか書かれていた。
余計なお世話だ。
マグディエルのせいで、むかしのことを思い出してしまった。
気がふさぐ。
門の前に座り込んで、膝をかかえて項垂れる。だれも想像もつかないだろうな、大天使ミカエルがこんな風にしてるところなんて。
隣に誰かが座る。
ルシファーの気配だった。
顔をあげると、目の前に饅頭を差し出される。
ゴリアテ饅頭だ。
ルシファーのほうを見ると「マグディエルにもらった」と言う。
「おれももらった」
ミカエルがそう言うと、ルシファーが手をひっこめようとしたので、ゴリアテ饅頭をかすめとる。
饅頭を食べる。
相変わらず、ゴリアテ饅頭は美味い。
ふたりとも、しばらく何も話さなかった。
「何しに来たんだよ」
ミカエルは言った。
「泣いてるかと思って」
「誰が泣くか」
ルシファーは石の門にゆったりと背をあずけて言った。
「マグディエルとその友を見ただろう。まるで、むかしのわたしたちのようだ」
「——」
「あのころが懐かしいな」
「悪魔め」
ルシファーがおやおやという顔をして、ミカエルの顔をのぞきこみ微笑んだ。
「わたしは、いまも愛しているよミカエル」
「そういうところが、悪魔なんだ」
ルシファーが笑ってから、懐かしむように言った。
「エレデは元気だったか?」
「ああ、相変わらず泉につっぷして寝てたよ。なんでか知らないけど」
「ふうん」
ルシファーは箱ごと持ってきたゴリアテ饅頭のひとつを手に取って、弄びながら言った。
「今度、ふたりでエレデのところに行こう」
「なんで?」
「きっと喜ぶ」
ふたりで?
地獄の王と、天軍の頭とで?
ミカエルはおかしくなって笑った。
*
ルシファーとくだらない話をしていたら、あっという間に夜になっていた。
昔のように寄り添って、キスを贈り合うような仲ではないが、気の置けない話ができる相手は貴重だった。ふさいでいた気持ちもすこし軽くなった。
ダビデの城の宿舎に戻ると、ミカエルの部屋の前に、マグディエルがいた。
窓から月を見上げている。
また、ミカエルのために祈っている。
そこいらに、祈りの香りが立ち込めていた。
あいつ、本当に女の姿で来たのか。
マグディエルがこちらに気づいて振り向いた。
安心したような笑顔で手を振って来る。
能天気な奴だな。
近寄ると、マグディエルが言った。
「良かった。地上に人の女でも探しに行ったのかと心配していました」
うるさいやつ。
今晩は着てるもの全部ひっぺがしてやろうか。
「饅頭、うまかったよ」
ミカエルがそう言うと、マグディエルが嬉しそうに笑った。
かげりのない笑顔を見て、一瞬、血迷った。
ミカエルはマグディエルの前に跪いて言った。
「なぐさめのキスを」
マグディエルは一瞬驚いたようだったが、微笑んでうなずいた。
長めの祈りで、と注文をつけると、マグディエルはしっかり長い祈りを上げてからミカエルの額になぐさめのキスをした。
祈りは耳にやわらかく、キスは心にあたたかい。
弱い天使のくせに、むかつく。
絶対、全部ひっぺがしてやる。
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おまけ ☆聖書豆知識☆
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【ノア】
アダムの子孫。
神が堕落した地上に大洪水を起こすと決めたとき、ノアに船を作らせ、生き物をつがいでのせて、大洪水から逃がした。




