第28話 番外編 エレデの書
エレデは、ミカエルとマグディエルが帰ってゆく姿を見送りながら、以前マグディエルと会った時のことを思い出した。マグディエルとアズバとナダブが、エレデの金の輪に座って、楽しそうにしているところが、思い出される。
まるで、あの頃のあの子たちのようだった。
仲がよく、かげりもない、年若い天使たち。
それとは、対照的な、さっき触れたミカエルの心にある孤独を思った。
エレデには、正体のあやふやなおそれを取り除いてあげることはできても、正体のはっきりとした孤独を取り去ってやることはできない。
どうか、誰よりも寂しがり屋のミカエルにやさしい夜がおとずれますように。
エレデの心に、おさない日のあの子らの声がひびいた。
*
「なぜ、太陽はのぼるの?」
「どうして、エレデは目だけなの?」
「この実はどうやってできるの?」
「鳥はどこからやってくるの?」
なぜ、どうして、どうやって、どこから、ルシファーの問いはつきることがない。
「ルシファー、その質問に答えるのは、ミカエルが泣きやんでからでもいいかな?」
「うん、いいよ」
やれやれ。
エレデは、ミカエルのもとに駆け付ける。
「ミカエル、そろそろ泣きやまないと、目が溶けてしまいやしないかい?」
ミカエルは朝も昼も夜も泣く。大体が、寂しいか、こわいかで泣いている。
「こんどはいったい何で泣いているのかな?」
聞いてみると、花が風で一斉に揺れたのが怖いらしい。
まったく、なんだって怖がるんだから。
「おいで、そのこわいのはとってあげようね」
おそれは必要な機能だが、過剰なおそれは心を蝕む。
エレデは、手を伸ばしてミカエルをなでた。
泣きすぎて真っ赤になったほっぺをつつくと、ミカエルが笑った。
「ミカエル、はいこれ。こわくないよ」
シェムハザが花をつんできてミカエルにわたす。
「ああ、素敵だね。シェムハザ、きみは、とても優しいね」
ふたりとも一緒くたにしてなでると、きゃきゃとくすぐったそうに笑う。
その声を聞いて、ルシファーも突っ込んできた。
六枚の羽をもつ、まだ小さな天使たちが、転げながら笑う。
ずっとこうなら愛らしいのだが。
ルシファーと、ミカエルと、シェムハザは、他の座天使たちから、特に手に負えないからと、エレデのもとに預けられた。彼らは他の六枚の羽をもつ天使たちよりも、能力に長けている。その分、いろいろな力が強いから、いたずらでもしようものなら、とんでもないことになった。
好奇心旺盛なルシファーと、こわがりのミカエルと、優しいシェムハザは、それぞれに大人しくしていれば、極めて聡明で美しく力の強い子たちだった。だが、三人ひとつになると、しばしば問題を起こした。
ある日は、そこいらじゅうの座天使の金の輪っかを取ってまわり、ある日は、善悪の知識の実をすべてもいで食べつくして酔っ払い、ある日は、大勢で喧嘩をやりあって、力の弱い天使の羽を抜きまくって禿げさせたりした。
やれやれ、だ。
ある日、エレデはえらくあたりが静かなことに気づいた。
あの子たちがいない。
また、どこぞでいたずらでもしているのだろうか。
さがすと、森にほど近い場所で、三人集まって、何かしている。
あれは——。
ルシファーとミカエルとシェムハザが、つまれた石をくずしていた。
エレデは、大きな声で叱った。
今まで、出したことがないような大きな声だったので、子らは目を大きく見開いて固まった。
ルシファーが、すぐに、まずいことをしたと気づいた様子で謝った。
ミカエルは、すぐに泣きはじめて、顔をぐちゃぐちゃにしながら謝った。
シェムハザも、こわかったのか目に涙をうかべて謝った。
「それは、わたしにとって大切なふたりのお墓なんだよ。さあ、もう怒ってはいないからね」
エレデはそう言って、子らをなぐさめた。
みんなで、石をつみなおす。
「だれのお墓なの?」
ルシファーが訊いた。
「これは、ウリムとトンミムのお墓だよ」
「死んでしまったの?」
「いいや、ウリムとトンミムは死なない。ふたりは永遠の命を持っているからね。でも、肉体はずっとはもっていられなかったんだ」
「じゃあ、いまはウリムとトンミムはどこにいるの?」
「ここに」
「ここ?」
「そうだよ、きみたちが今積んでいる石がそうだ。これはウリムとトンミムだよ。かれらは石のかけらになったんだ」
「それは生きているの?」
「そう、彼らは永遠に生きる。みちびきの石となって、永遠に生きるんだよ」
ミカエルが積んでいた石を持って、不思議そうに眺めた。
「とっても綺麗だね」
そう言いながら、ミカエルは、なかなか石を手放そうとしなかった。
「気に入ったのかい?」
「うん」
「そう。ウリムとトンミムはわたしに、必要とするものに石を渡してほしいとたのんだんだ。ミカエル、きみはとってもこわがりだから、必要かもしれないね。持っておいき」
ミカエルは嬉しそうに、ふたつの異なる輝きをもつ石を持って微笑んだ。
*
あの子たちが、エレデの手をはなれて、ながいながい時間が流れた。
彼らは立派な熾天使に育ち、だれよりも強く輝いていた。
ルシファーが天の万軍の先頭に立ち、ミカエルがそれを支え、シェムハザが世界を見張る者として目を光らせていた。
ある日、ルシファーがエレデのもとを訪れて言った。
「エレデ、なぜ、わたしたちは神のために働くのだろうね」
また、こうも言った。
「自由とはどういったものだろうか」
それから、しばらくして、それはおこった。
ルシファーが天の軍勢の三分の一を率いて、神に向かって行くのをエレデは見た。ミカエルが天の軍勢を従えて、それを追う姿も見た。だが、追う必要はなかった。誰も上れぬであろう高みまで、ルシファーは上り、そして天の火に打たれた。あの美しく強い子が、よみに堕ちてゆく。
その日、ミカエルがエレデのもとに来た。
「こんなものは役に立たない。ルシファーはみちびきの石には従わなかった」
ミカエルは激しく泣いて、ウリムとトンミムを地に投げつけた。
「エレデ、苦しい。なぜ、ルシファーはわたしを置いて行ってしまった」
今や、ミカエルを苦しめるのはおそれではない、ふかいふかい悲しみと、寂しいという気持ちだ。
エレデには、それを取り去ってやることはできない。
ミカエルの肩には、ルシファーが天の万軍の頭としてなしていた全ての重みがのしかかっていた。誰もかわってやることはできない。
シェムハザがミカエルに寄り添ったが、それ以来、ミカエルは泣かなくなった。
ミカエルは、ほかの天使たちを率いて導く立派な働きをした。
そして、世界に人が生まれ、多く増えたころ、やさしいシェムハザがひとりの人の娘に恋をした。
シェムハザ率いる見張る者の多くが、人の娘と恋に落ちた。
天使と人の間にネフィリムが生まれ、地が荒れると、神の怒りが彼らを打った。
見張る者たちは、永遠の審判の日まで、地下世界に封じられた。
地下世界の扉を閉めたのは、ミカエルだった。
ミカエルはもう泣かない。
「シェムハザが行ってしまったよ」
ただ、そう言った。
ウリムとトンミムの墓の前で、エレデの心は沈んだ。
涙が流せればいいが、エレデの眼からは一滴の涙も出ることがない。
「わたしは、どうすればいいでしょうか」
エレデは墓に向かって訊いた。
石になる前のウリムとトンミムを思い出す。
「どうかさみしく思わないで、エレデ」
「そう、ぼくたちは、すがたを石にかえても、いなくなるわけじゃない」
「エレデ、きみに、ぼくたちの声をあげる」
「いいかい、エレデ、すべてのことは、つながっているんだ。悲しみも、歓びもだ。もし、このさき、つらいことがあっても、けして悲しみにだけとらわれることがないように」
エレデはその日から、泉の中でねむるようになった。
まるで涙に目をひたしているようで、すこし心がやすらいだ。
あの子らに、けして悲しみだけが訪れないように。
そう祈って、眠りについた。
*
ミカエルとマグディエルが去って、しばらくすると、エレデのもとに手紙と荷物が届いた。マグディエルからだった。
手紙の一枚目には、感謝の言葉が並んでいる。
二枚目には、ミカエルとルシファーのことが書かれている。
どうやら、仲が良いらしい、と書かれてあった。
エレデは、手紙を大事の箱に入れた。
大切なものはすべてここにしまうようにしている。
幼いころルシファーがくれた美しい木の葉も、ミカエルがくれた変な形の木の実も、シェムハザが作ってくれた押し花も、ここに入っている。
手紙と一緒に届けられた包みを開けてみる。
ダビデの町の名菓、ゴリアテ饅頭だった。
エレデは、饅頭をじーっと見た。
じーっと。
じーっと。
じーっと。
よく見た。
座天使には口がないから。
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おまけ ☆聖書豆知識☆
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【ルシファー】
「光を掲げる者」という意味の名前。
全天使の長であったが、堕天し、魔王サタンとなった。
【ミカエル】
ミカエルは、旧約聖書からユダヤ教、キリスト教、イスラム教へ引き継がれた天使。
いずれでも、もっとも偉大な天使とされています。
【シェムハザ】
見張りの天使たちであるグリゴリの筆頭。
人の女を妻にして、人に魔術を教えた堕天使。
旧約聖書の外典・偽典に描かれています。
外典・偽典は一部からは聖書と認められていないもの。




