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ショコラ・ノワール  作者: ZAKI
第9章
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「鳴海さん、あたしは鳴海さんの役に立てますか?」


 鳴海に抱きしめられたまま、葵は尋ねた。


「お店にとっても鳴海さんにとっても、あたしは迷惑な厄介者にしかならない。あたしのせいで鳴海さんがまるごと負担をかぶって責任を取らなきゃいけなくなってしまう。それが嫌で、それからそのことを思い知らされるのも嫌で、あたしは逃げました。だけどもし、あたしがほんの少しでも鳴海さんの役に立てるのだとしたら、あたしにも頑張る理由ができる」


 自分の言葉と向き合うように、葵はひっそりと囁いた。


「もちろんお店のスタッフとしてなら、あたしよりずっと有能で、できる人もたくさんいる。そのことは充分わかってます。でもそうじゃなく、あたしがいることで、鳴海さんの抱えてる痛みをやわらげる要因とか救いのひとつになれるんだとしたら、意味合いが大きく変わってくる。お店の中にちゃんと、自分の存在理由を見いだすことができる。あたしはそういう意味で、鳴海さんの役に立つことができますか?」


 真摯な口調で問われ、鳴海は頷いた。


「できる。それどころか君以外のだれも、その役目は果たせない」


 答えは自然に、口をついて出ていた。


 ずっと不思議だった。行きがかりじょうのことだったとはいえ、なぜ葵をスタッフとして雇い入れることにしてしまったのか。なぜ辞めていこうとする葵を、本人が望むままに受け容れることができなかったのか。

 鳴海は葵を、手放したくなかったのだ。


 自分が手を差し伸べたつもりでいた。自分が見守ってきたつもりでいた。だが実際に手を差し伸べられ、救われてきたのは自分のほうだった。

 葵に告げたとおりである。自分は葵を通じて、叶わなかった現実を夢想していた。



『元教え子』が、自分の最愛の者たちに刃を振り上げることのなかった世界。


『元教え子』が、己の堕ちた闇から這い上がり、新しい未来を掴みとって歩んでいく世界――



「互いの傷を舐め合うような、こんな関係は間違ってる。そう思うくせに、俺は君を手放すことができない。手放したくないと思ってる…っ」


 苦悶の呻きが口から漏れる。

 互いの抱える傷が引き合わせた縁。互いの心にできた穴を埋め合わせるために引き合った関係。

 いっときの感傷に流されれば、互いが受ける傷はもっと深く、取り返しのつかないものになってしまう。わかっているから、鳴海は一歩が踏み出せない。わかっていても、腕の中の葵を手放せない。


「無条件に求め合う気持ちに、まっとうな理由が必要ですか?」


 鳴海の躊躇いを酌み取ったように葵が言った。


「あたしは鳴海さんの傍にいたい。鳴海さんもおなじ気持ちでいてくれてる。それだけじゃダメですか? こんな気持ちを抱えてても、その想いには蓋をして、いままでとおなじように一定の距離を保った関係をつづけていかないとダメですか?」

「それは……」

「社会人としての節度は守るべきで、仕事に持ちこむべきじゃない。それはもちろんわかってます。だけど、抱いている感情も気持ちも、否定しないといけませんか? 不健全だから? 自分の苦しさから逃げるために生じた想いだから? そこからスタートする関係があってもいいと思うのは、あたしがなにもわかっていない未熟な人間だからですか?」


 問いつめられても、鳴海には答えることができなかった。


 傷つくのが怖い。傷つけてしまうのはもっと怖い。

 臆病風に吹かれて、先に進もうとする気持ちが畏縮する。傷ついて弱った心が求めただけの関係は、果たしてその過去の傷が癒えたときにも、おなじ想いを保ちつづけていくことができるのだろうか。むしろ、己の弱さゆえに、すがったことへの後悔に繋がりはしないだろうか。

 自分は、葵の中に見いだしていた『元教え子』の姿に、ふたたび嫌悪と拒絶を見ることになりはしないだろうか……。


「人の心は変わります」


 またしても鳴海の懸念を見透かしたように葵は言葉を重ねた。


「いつまでもおなじ場所に踏みとどまってはいない。翔馬との関係が変わって終わりを迎えたように。鳴海さんへの感謝の気持ちが親愛に変わって、いつしか恋心に育っていったように。それがどう変わっていくかなんて、未来になってみないとわからない。時間を積み重ねていってみなければわからない。それじゃダメですか?」

「それは……」

「スタートの段階からなんの障りもない、染みひとつない、真っ白な状態からじゃないとダメですか? マイナスからプラスに進んで行こうとする気持ちだけじゃたりませんか? あたしには鳴海さんを好きになる資格、ありませんか?」


 さっきまで、あんなに自分から離れていこうとしていたはずなのに、鳴海に自分への気持ちがあることを知った途端、葵は引くことをやめた。それどころか躊躇う鳴海の懐に、みずから進んで飛びこんでこようとさえしている。その無謀さを、鳴海は眩しく感じた。


「傷を舐め合うところからはじまっても、いいじゃないですか。その傷を癒す過程の中でしっかり向き合って、次に進める関係を築いていける努力をしたい。そう思うことは間違いですか? 鳴海さんがあたしを手放したくないと思ってくれる気持ちが従業員に対するものじゃなく、ほんのわずかでもあたしの気持ちと重なる部分があるのなら、あたしは諦めたくないです」

「君に教え子の姿を投影して、もてあました感情をぶつけるような真似はもう二度としたくない。だけど、いざとなったときに自制できる自信が俺にはない」

「かまいません。そうすることで鳴海さんの負った傷が少しずつでも癒える手助けになるのなら、むしろ喜んで受け止めます」

「……だけど、それでまた、君が傷つくことになったら?」

「傷つくよりも、鳴海さんを想う気持ちのほうが遙かに強い。それだけは断言できます。だからきっと、大丈夫です」

「大丈夫と言えなくなるほど深く、傷つけてしまったら?」

「そのときは、そうなったときに考えます。でもひとつだけ言えるのは、鳴海さんは翔馬とは違う。あんなふうにあたしの心を踏みにじったりしないってことです」

「そんなのは、それこそそのときになってみないとわからない。さっきも言ったように、君は俺を買いかぶりすぎてる。俺が君の気持ちをないがしろにしない保証なんて、どこにもない」

「その場合は、やっぱりあたし自身にそうさせてしまうだけの問題があるか、あるいは人を見る目がなかったんだって思って諦めます」


 思いがけず、葵は開きなおりとも言える口調で宣言して笑った。だが、すぐにまた、深刻な表情になって訴えかけてきた。


「こんなふうに、あたしを思いやってくれる鳴海さんだからこそ、あたしは信じられるし諦めたくないです。だから鳴海さん、鳴海さんの答え、ちゃんと聞かせてください。希望がまったくないのなら、このまま玉砕して帰りますから」

「店の仕事は?」

「鳴海さんの答えを聞いてから考えます」


 あくまでも譲らない。

 腹を括ってしまった葵の瞳に、いっさいの迷いはなくなっていた。

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