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呆気にとられる鳴海を見て、葵は力なく笑った。その目に、自嘲と諦念が滲んだ。
「優しいこと、言わないでください。店に戻ってもいいなんて期待を持たせるようなこと、言わないでください。こんなふうに優しく気遣って、自分も鳴海さんの特別になれるかもしれないなんて希望を抱かせるようなこと、しないでください」
葵の指先が、包みこんだままのカップの縁をふたたび撫でる。
「翔馬に復縁迫られて、切羽詰まってお店のまえでこんな騒ぎ起こして、また鳴海さんに迷惑かけちゃったあたしが言うことじゃないですけど、でも、ほんとはこんなつもりじゃなかった」
言ったあとで、言い訳がましくてごめんなさいと謝った。
「バカなことをしでかす寸前で鳴海さんと出逢って、このお店に連れてきてもらって、おかげであたしは犯罪者の烙印を押されずに済んだ。自分を取り戻すこともできました。ここはあたしにとって、唯一気持ちを落ち着けられる安息の場所なんです。鳴海さんの姿がそこにあるだけでホッとできる。あたしが落とした果物ナイフを、鳴海さんがいまも変わらず保管しててくれてる。それだけでも充分、安心できるんです。だから、気持ちが挫けて自分を見失うまえに、もう一度冷静になりたかった」
そのつもりで訪ねてきたのだと葵は言った。
「ここで働いてたときのことを思い出して、はじめてお店に来たときや、ホットチョコレートをいただいたときのことを思い出して……。こんな時間だから、お店が閉まってることはわかってました。でも、外からお店を眺められるだけでも充分だった。鳴海さんも、きっともう、とっくに帰っちゃってる。それでも、今日も少しまえまでここで仕事してたんだなって、ちょっとでもその気配を感じられたらいいなって……」
言葉を途切れさせたあとで、「嘘」と笑った。
「ほんとはちょっとだけ、いてくれたらいいのになって思ってました」
言ったあとで、「でもまさか、本当にいるなんて……」と呟いた。
「いまさらかもしれませんけど、鳴海さんがお店にいてもいなくても、外から眺めて帰るだけのつもりだったんです。それなのに、結局こんなことになってしまって……」
口唇を噛みしめた葵は、意を決したように立ち上がった。
「すみません、もう帰ります。ホットチョコレート、ごちそうさまでした。すごく美味しかったです。最後まで迷惑のかけどおしですみませんでした。でも、やっぱり鳴海さんに会えてよかったです」
言いながら、シンクに向かう。慣れた様子で蛇口を捻り、カップを濯いでコンロに置いたままになっている小鍋にも手を伸ばす。鳴海の見守る中、葵は手にとったスポンジを使ってそれらを洗うと、シンクわきのタオルで濡れた手を拭い、戸口へと向かった。
自分から去っていこうとする背中。店を辞めたときより、その輪郭は確実に細く、小さくなっていた。
「どうやって帰るつもりだ」
振り返ることを拒む背中に、鳴海は尋ねた。
「終電は、とっくに終わってる」
「駅前で、タクシーでも拾います」
「俺の答えは聞かないのか?」
畳みかけた途端、ドアノブに伸ばしかけていた手がピクリと反応した。
「一方的に自分の言いたいことだけ言って、それでおしまいか? 君の言動は、さっきから矛盾してる。玉砕させてくれと言いながら、俺の答えを聞こうともしない」
「鳴海さんの顔を見れば、聞かなくてもわかりますから」
「店の外観だけ見て満足するつもりだったと言ったな? だが、さっきの彼には、ひと目でいいから俺に会いたかったと言ってる」
「彼を諦めさせるための方便です。ああ言えば、あの人も諦めざるを得ないでしょうから」
「でもそれは、本心でもあるだろう?」
「……なにが言いたいんですか?」
頑なに向こうを向いたまま、葵は低い声を出した。
「あたしの気持ちはもう言いました。なのにまだ、聞きたりないですか?」
「俺はまだ、君になにも言ってない」
「それもわかってるって言いました。もう、とっくにわかってるんです。いまさら聞く必要なんてない。それとも、ご自分でとどめを刺さないと気がすみませんか? でしたらどうぞ。ちゃんと受け止めます」
言ったあとで、ゆっくりと振り返る。覚悟を窺わせる表情を見せながら、それでもやはり、視線は鳴海を避けたままだった。そんな葵に、鳴海は声をかけた。
「君にそんなふうに自分を否定させてしまうような態度を取ったことについては、本当に申し訳なかったと思ってる。俺が至らないばかりに、君には随分理不尽でつらい思いをさせてしまった。それについては、お詫びのしようもない。本当にすまなかった」
頭を下げる鳴海に、葵は痛みを堪えるように口唇を噛みしめ、小刻みにふるわせた。
「そんなこと、ないです。あたし、そんなふうに思ってません。鳴海さんが謝る必要なんてどこにもないです。やめてください」
いやいやをするように、葵はかぶりを振る。
「さっきも言ったように、あたしは鳴海さんに感謝してます。鳴海さんがいなかったら、こんなふうに立ちなおることなんてできませんでした。だけど、その気持ちはそのまま、そこで留めておくべきだったんです。自分がどんな人間かも弁えず、恋愛感情まで持つべきじゃなかった。身の程知らずもいいところで、自分のずうずうしさに嫌気が差します。自分で自分が恥ずかしいです」
「そんなことはない。君が自分を羞じる必要も、責める必要もない。そう思わせてしまったのは俺で、君はひとつも悪くない」
「いいえ。いいえ!」
葵はさらに激しく首を振った。
「あたしが鳴海さんだったら、最初に出逢った時点であんなふうに手を差し伸べることなんてできなかった。あんなふうに受け容れることなんて絶対できなかった。だけどあたしは、そんな鳴海さんに助けてもらっておきながら、平気で傷つけた!」
悲痛な声が、厨房内に響きわたった。




