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「さっきも言ったとおり、この気持ちは変えられない。バカなことをしようとしたところを鳴海さんに止めてもらって、そればかりか、こんなあたしを雇って一から全部、仕事に必要な知識まで教えてもらえた。鳴海さんに、どれだけ助けてもらったかわからない。どれだけ感謝してるかわからない。鳴海さんがいてくれたから、あたしは自棄にならず、今日までやってくることができたんです」
「それはべつに――」
「あたしは、鳴海さんに救われたんです」
感謝されるようなことではないと否定しようとした鳴海の言葉を遮り、葵は泣き笑いの表情を浮かべた。
「最初はただ、拾ってもらえたことがありがたくて、仕事をさせてもらえることが嬉しかった。いろんなことをおぼえるのも楽しくて、毎日すごく充実してました。でも、加奈子さんが店に入ったことで、あたしは純粋に、仕事にやりがいを感じてたわけじゃなかったんだって思い知らされた」
カップを包む手に視線を落とした葵は、曲線を描くそのラインに沿って、ゆっくりと親指を滑らせた。
「加奈子さんがあたりまえのように鳴海さんの補助に入って、手際よく進められる作業があたしにはできない。厨房とお店で区切られたふたつの空間は、あまりに空気が違いすぎて、鳴海さんひとりだったころのように、あたしには気軽に入っていけない。鳴海さんと加奈子さんが交わしてる言葉のやりとりも、専門的すぎて全然――半分も理解できない。お店の売り子として、あたしにはあたしの仕事がある。それは自分でもわかってるんです。でも、疎外感だったり、悔しい気持ちがどうしても止められない。加奈子さんを敵視してしまう。自分で自分が、嫌になりました」
葵は俯いたまま、自嘲気味に述懐した。
「すまない。俺の配慮がたりなかった」
「違うんです。あたしがいつのまにかつけあがって、いい気になってたんです」
言葉の意味が理解できず、鳴海は無言で眉宇を顰めた。そんな鳴海を、葵は見上げた。
「気づいてらっしゃるかわからないですけど、鳴海さんは女性のお客様からの人気もすごく高いんです。だけど、その中のだれも、あたしほどには距離を縮めることができない。お客様がお客様である以上、鳴海さんは、その辺の線引きをきっちりされる人だから。あたしは従業員であることで、鳴海さんが作り上げた壁の内側に入れてもらうことができる。そのことに、無意識のうちに優越感をおぼえてたんです。あたしとおなじ立場になれる人が、だれもいなかったから」
だが、加奈子が入ってきたことで、葵の立ち位置は一変した。
それまで、だれにも脅かされることのなかった唯一の場所。その場所にあっさり入りこまれたばかりか、加奈子が店で担った役割は、葵などよりもずっと重要で、鳴海により近いものだった。
「どんなに足掻いても、あたしは加奈子さんには到底敵わなくて、追いつくことさえできない。あたしも加奈子さんみたいに手伝えたらいいのにって、できない自分が歯がゆくて、それからなぜかはわからないけど、なにかに追い立てられるように焦る気持ちが止められなかった。それがどういうことなのか、ますますわからなくて混乱して、余計にイライラして。だけど、あるとき気づいたんです」
葵が感じた焦燥と苛立ちは、加奈子に対する嫉妬からくるものだった。
「あたしは、自分の居場所を加奈子さんに奪われてしまった気がして、そのことに無意識にこだわってたんです」
――もうひとりの彼女の居場所を奪っちゃったんじゃないかって、ちょっと気にしてた。
旭から言伝られた、加奈子の思い。女性ならではの鋭さで、加奈子は加奈子なりに、葵の言動の端々から、なにかしら感じるものがあったのかもしれない。
「あたしだけのものだった特権を、加奈子さんに取られたくない。加奈子さんにも、ほかのだれにも奪われたくない。その執着が、自分のどんな感情から生まれたものか、すぐにわかりました。つい最近、おなじ経験をしたばかりだから」
葵はまさか、さっきの男とのことを言っているのだろうか。だとすれば、大きな思い違いをしている。そう思ったが、葵は断言した。
「あたしは、鳴海さんをだれにも奪られたくなかったんです」
鳴海を見つめたまま、葵は言った。
「迷惑だってわかってます。鳴海さんに好きになってもらえるような人間じゃないことも、あたし、ちゃんとわかってるんです。だから鳴海さん、この機会に思いっきり玉砕させてください」
唐突な流れについていけず、鳴海は一度開きかけた口を噤んで瞬きをした。
「……玉砕?」




