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裏口から店に戻り、厨房に引き返すと、鳴海は事務スペースから引いてきた椅子に葵を座らせた。憔悴した様子で身を縮める葵は、それでもどこか、憧憬の籠もった眼差しで厨房内を見回した。店に来なくなってから1週間。実質的にはさして長い時間でなくとも、想いを残したまま離れた期間は、心情的に長く、懐かしく感じられたのだろう。
棚から小鍋を取り出した鳴海は、なにも言わずにコンロに火を点けた。
カップを湯煎し、温めた鍋でカカオパウダーと溶かしたチョコレート、ミルク、生クリームとを順に混ぜ合わせていく。
静まりかえった室内で、鳴海が作業する物音だけがひそやかに響いた。
空間内にひろがっていく、甘い香り。
温めたカップの中に、鳴海はできあがったホットチョコレートを注いで葵に差し出した。
「ありがとう、ございます……」
遠慮がちに受け取ったカップを、葵は大事そうに両の掌で包みこむ。それを、ゆっくりと口に運んだ。
湯気を立てるあたたかな飲み物。息を吹きかけてわずかに冷まし、そっと口に含む。
「……美味しい」
消え入りそうな声で呟いた直後に、その瞳に涙が盛り上がった。それは、瞬く間に溢れて頬を伝い落ちた。
「……みません」
ふるえる口唇を歪め、懸命に歯をくいしばりながら葵は詫びる。鳴海はその傍らに立って、葵の様子を見守った。
「やはり、ここで仕事をつづけていくのはつらいか?」
問いかける声に、葵は耐えがたい様子で俯いた。カップを握りしめる手に力が籠もり、膝の上にさらに水滴が零れ落ちる。硬張った全身が、小刻みにふるえていた。
日付もとうに変わった時刻。深更特有の静けさが、建物の周辺一帯にも漂っていた。押し殺した嗚咽と洟を啜る音だけが室内に響く。葵の感情が静まるのを、鳴海はただじっと待ちつづけた。
優しい言葉をかけてやるべきなのかもしれない。慰めやいたわりの気持ちを、もっと態度で示してやるべきなのかもしれない。だが、雰囲気に流されることだけは避けるべきだと思った。
葵が平常心を欠いている状態だからこそ、余計にいつも以上に冷静に対応しなければならなかった。そうでなければ、ともに泥沼に嵌まって取り返しのつかない傷を負わせてしまう。
「――みさ、は……です、か?」
俯いたままのポツリとした呟きに、鳴海は顔を上げた。
「え?」
「鳴海さんは、嫌じゃないですか? あたしがここにいたら、迷惑じゃないですか?」
言ったあとで、真っ赤に泣き腫らした目が鳴海を振り仰いだ。思いつめたようなその眼差しに胸を衝かれて、鳴海の口からは咄嗟に言葉が出てこなかった。
「あたしは、ここにいたいです。辞めたくなんてなかった。許されるなら、もう一度戻って来たい」
「なら――」
「でもあたしは、鳴海さんのことが好きなんです」
それは、このうえなく悲痛な告白だった。




