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店の外で、かすかな物音がした。
鳴海はハッとして顔を上げた。
時計を確認すると、時刻はまもなく午前零時になろうとしている。明日の下準備を終え、加奈子を帰した後に事務処理や新作のアイディアについて考えるうち、いつのまにかその思考は、葵のことへと移っていた。
出逢いが出逢いだったからだろうか。ただの従業員というよりは、どこか身内のような感覚で葵を気にかけてしまう。気力を失い、蒼白い顔で幽鬼のようにぼんやりしていた当初から、徐々に気持ちを切り替え、前向きな姿勢で仕事に取り組めるようになっていった。その変化を間近で見てきただけに、積み上げてきたすべてをだいなしにするような一連の出来事が残念でならなかった。
美奈や加奈子らから聞いた話が気掛かりではあるものの、だからといって、いまさらこちらから安易に連絡を取っていいものか躊躇われた。仕事上の繋がりが切れたいま、鳴海は葵にとって関係のない人間である。それどころか、葵の負った傷を余計に深く抉りかねない。突き放したつもりはなかったが、葵からすれば大差なかっただろう。
このまま無関係な立場を通してやるのが最善なのか、それとも逆に、こちらから踏みこんでフォローを入れてやるべきなのか……。
いましがたの物音で意識を現実に引き戻された鳴海は、軽く頭を振った。
考えてもしかたのないことである。その後の葵の様子を気にかけるにせよ、葵にとっても気持ちの整理をするうえで、もう少し時間が必要だろう。
懸念を振り払うように、鳴海は目の前のテーブルに両手をついて立ち上がった。いくら自宅が近いとは言え、バレンタイン以降、すっかり居残り癖がついてしまっている。仕事とプライベートの線引きが曖昧になりつつあるみずからを省みて、早々に引き上げることにした。その耳が、ふたたびなんらかの音をとらえた。鳴海は眉宇を顰めて後背を見やった。
店の外で、やはりなにか聞こえる。それは、人の声で間違いないようだった。
気づいた途端、鳴海は顔色を変え、裏口に急いだ。
聞こえてくるのは、なにかを言い争う男女の声。そのうちの一方は、あきらかに取り乱したような、切迫したものを孕んでいた。
「やめてっ、放して! いまさらもう一度なんて無理って言ってるでしょっ!?」
「だから悪かったって言ってんだろ!? 頼むから考えなおしてくれよ。べつにお互い、嫌いで別れたわけじゃないんだから。一度くらいチャンスくれたっていいじゃないかっ」
「できない! 無理なものは無理っ。絶対無理なのっ! 考えなおす余地なんて、あたしにはもうない。翔馬とのことは、もう終わったことなの!」
「勝手に終わらすなよっ! そんなんで納得できるわけねえだろ? ほんとに心からすまなかったって思ってるのに、たった一回の過ちすら許してもらえないまま終わりとか、そんなん聞き入れられるわけないだろ! な? 頼むからもう一度考えなおしてくれよ。やりなおそう? 俺にはおまえしかいないんだって」
「バカ言わないで! 川島さんはどうなるのっ? いまさら裏切る気!?」
「いまさらもなにもねえよ。俺は最初っからあいつに嵌められてたんだよ。騙されてただけなんだ。俺はずっと、おまえだけだった。おまえと真剣に一緒になるつもりだった。おまえにもそう言ったはずだろ?」
「そんなの、それこそいまさらじゃない。あたしたちはもう終わったの。どれだけ謝られても、あたしは受け容れることなんてできない。だからもう諦めてよ。お願いだから帰って!」
「葵っ」
「やだっ、放してっ!」
暗闇の中、ふたつの影が激しく揉み合う。店から数メートル離れただけの、すぐそばの路上。
自分を押さえつけようとする相手を、小柄な人影が振り払おうと必死でもがく。ドンッと勢いよく胸を突き飛ばし、相手がよろけた隙を衝いて身を翻そうとする。だが、走り出す寸前で素早く伸びた腕が、その手首を掴んで力尽くで自分のほうへと引き戻した。
言葉にならない激しい息づかいと、合間に口から漏れるくいしばるような呻き。暴れる女に痺れを切らしたのだろう。男が乱暴に、女の躰をすぐわきの建物の壁にぶつけるように突き飛ばした。女はそれでも、やみくもに腕を振りまわして相手を拒む。その手が勢いよく、男の顔に当たった。
「――っ!」
一瞬怯んだ男は、次の瞬間、カッと逆上して女に向きなおった。
「この……っ」
男の腕が大きく振り上がる。ビクッと身を竦めた女――葵は、両腕で頭を庇うように全身を縮めた。葵に向けて振り上げられたその手が、勢いよく振り下ろされる。刹那、背後から間合いを詰めた鳴海が、手首を掴んで制止した。




