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来客を伝えるブザーが鳴った。
「いい、俺が出る」
作業の手を止めて、おもてに出ていこうとした加奈子を制し、鳴海は店に出た。葵が辞めてからこちら、どちらか一方が来客時に応対に出るというのが暗黙の了解となっていた。
「いらっしゃいませ」
ショウケースのまえに佇むふたりの女性客に、鳴海は声をかけた。その顔を見て、奇妙なひっかかりをおぼえた。
「あの……」
鳴海を見たふたりのうちの一方が、躊躇いがちに口を開いた。
「今日は、吉野さんは……」
言われて、気がついた。彼女たちは、葵のかつての職場の同僚だった。
「申し訳ございません。吉野は現在、こちらにはおりません」
「……え?」
それぞれに目を瞠ったふたりは、直後に顔を見合わせた。
「あの、それってもしかして、吉野さん、辞めちゃったってことですか?」
「残念ながら、つい先日。――なにか、お急ぎのご用件でも?」
「あ、いえ。べつにそういうわけじゃないんですけど……」
否定しながらも、どこか落ち着かなげに視線を彷徨わせる。一方がもうひとりを、「行こう」とうながした。
「すみません。今日は帰ります」
踵を返す友人にしたがい、うながされた女性客は一度向きを変えかけた。だが、完全に背を向ける手前で、思いなおしたように振り返った。
「あの、やっぱり川島さんのことが原因ですか?」
「え?」
「ちょっと、美奈ちゃん!」
先に行きかけたほうが、あわてて振り返って袖を引く。「美奈」と呼ばれたほうは、それでもその場に踏みとどまって鳴海と向き合った。
「川島さんて、吉野さんがうちの会社を辞める原因になった女の先輩なんですけど、彼女、吉野さんがここで働いてるって知っちゃったみたいで。目障りだから、絶対都内から追い出してやるって息巻いてて……」
美奈はそこで一旦口を噤むと、鳴海の反応を窺うようにじっと見た。
「オーナーさん、ひょっとして彼女の退職の理由、聞いてるんじゃないですか?」
だから前回、一度バックヤードに下げた葵をあらためて呼び出し、自分たちの対応に当たらせたのではないか。
言外に含まれる疑問に対して、鳴海は沈黙をもって答えに変えた。その態度から察するものがあったのだろう。美奈は、意を決したように鳴海に打ち明けた。
「まえにお店にお邪魔したとき、吉野さんには気をつけるよう言っておいたんです。あの時点で川島さんがこのお店のことまで知ってたかはわからないけど、結婚話が微妙になってたみたいだから」
じっと耳を傾ける鳴海に、美奈は視線を落として低い声で語った。
「川島さん、すごく綺麗で頭も良いし、仕事もできるんですけど、そのぶんプライドが高くて性格もきつい人だから、だんだんそういうのが原因で、相手の男性と関係が拗れてきちゃってるみたいなんです。吉野さんにはもう、まったく関係のない話のはずなんですけど、川島さんからするとそうじゃないっていうか、とにかく吉野さんの存在そのものが気にくわないっていうか。だから、目をつけられないように気をつけてねって」
この店で騒ぎ立てた女と葵との様子が、はっきりと思い起こされる。葵に向けられていた突き刺すような険しい眼差しは、明確な悪意に彩られていた。この店で働く以上、気をつけたところで葵にはどうしようもなかっただろう。
「ほんとかどうかはわからないですけど、略奪したのは川島さんのほうで、営業部の安西さんは吉野さんとのよりを戻したがってるんじゃないかっていう噂まで流れてて」
美奈が語ったことで話しやすくなったのか、最初は引き留めていたもうひとりもまた、付け加えた。
「吉野さんとはそんなに親しかったわけじゃないんですけど、なんかさすがに気の毒っていうか、気になってしまって。あのあとどうしたかなって気になったのと、もう一度やっぱり気をつけてねって伝えておきたくて、それで今日、もう一度会いに来たんです」
だが、結局はそれも徒労に終わってしまった。ふたりは残念そうに肩を落とした。
「もっと早くに来れてたらよかったんですけど、年度の切り替えどきで、あたしたちも異動とか、引き継ぎのための申し送りとかいろいろあって、忙しくて……」
くわしいことは尋ねずとも、葵が店を辞めた理由については充分察せられたのだろう。またあらためて、今度は客として出直してくると挨拶をして、ふたりは帰っていった。その背中を、鳴海は見送る。彼女たちの訪問が騒ぎよりまえであったとしても、葵が店を辞すことは避けられなかった気がした。
「葵ちゃん、大丈夫でしょうか」
厨房に引き返した鳴海と目が合うや、加奈子は心配そうに呟いた。それから、すみませんと謝った。
「盗み聞きするつもりじゃなかったんですけど、聞こえてしまって」
ドアを開けていたのだから当然だろう。鳴海は、いや、と首を横に振った。
「正直、俺ももう少し力になれなかったかと気になってる」
あれ以上引き留めることは躊躇われ、鳴海はやむを得ず葵の辞職を受け容れた。無理に慰留しても、葵にはつらいばかりだろうと察せられたからである。だが、ここでの仕事が楽しいと、生き生きとした様子で立ち働いていた姿を思うと己の至らなさが悔やまれた。
元教え子から届いた謝罪文に気をとられ、少しも気遣ってやれない時期が長らくつづいた。それどころか、そのことが引き金となって葵を撥ねつける態度まで取ってしまった。ただ一度のこととはいえ、葵にとっては充分、理不尽で傷つく出来事だっただろう。
あのふたりの訪問を受けて以降、葵はどんな様子だったか。思い返してみても、ぼんやりとした印象しか浮かばない。
加奈子が入ったことで厨房に顔を出す頻度が減り、どこか遠慮しているようなそぶりがあることには気づいていた。鳴海にもう少し気を配ってやれる余裕があれば――なにより、あんなふうに隔意ある態度を自分が取りさえしなければ、葵はひょっとして、折を見て胸の裡にある不安や懸念を打ち明けることもできたのかもしれない。少なくともいましがた美奈たちから聞いた内容を事前に把握していれば、鳴海にも多少なりと、なんらかの対応策を講じることができたのではないだろうか。
すべては可能性の話で、過ぎたことである。思って、鳴海は嘆息した。
「オーナー、じつはわたし、葵ちゃんのことでちょっと気になることが……」
「気になること?」
深刻そうな口調で話を持ちかけられ、鳴海は胡乱げに加奈子を顧みた。
「葵ちゃんが辞める少しまえ、男の人に絡まれてるところを見かけたことがあるんです」
「男に絡まれてた?」
オウム返しに訊き返す鳴海に、加奈子は躊躇いがちに頷いた。
「3週間くらいまえだったでしょうか。たんに通りすがりの人に因縁をつけられてたとか、そういう感じではなくて、どちらかと言えば親しい間柄のようにも見えたので、わたしが仲裁に入っていいものか迷ってしまって……」
親しいというより、どこか痴話ゲンカのように見えた。だから余計に第三者の自分が割りこむことは躊躇われ、鳴海にも言えなかったのだという。
「見かけたのは仕事が終わったあとの駅前でのことでしたし、葵ちゃんのプライバシーにかかわることを、いくら雇用主とはいえ、勝手にオーナーに話してしまってもいいものかと思ったものですから。でも――」
葵の元同僚を通じて漏れ聞こえてきた話から、ひょっとしてと気にかかった。
加奈子の言わんとすることは、鳴海にも充分理解できた。婚約者との関係にうんざりしはじめたかつての恋人が、葵とのよりを戻したがっている――それは果たして、たんなる噂だけのことにすぎないのか。
「お節介と思われてもいいから、あのとき無理にでも声をかけてみるべきでした」
結局、その後まもなく、エスカレートする誹謗中傷やネットでの書き込みに追いこまれるかたちで葵は店を辞めた。
葵が店に来なくなって、まだ1週間。葵が鳴海のまえから姿を消して、もう1週間。
顔を見なくなったいまだからこそ、余計に葵の置かれている状況が気になった。
葵は、大丈夫だろうか――
「オーナー……」
加奈子の不安げな呼びかけに、鳴海はなんと答えていいかわからなかった。
「……とりあえず、事情はよくわかった」
これといった考えがまとまらないままそれだけを口にすると、鳴海は加奈子に背を向け、仕事に戻った。




