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怒濤のバレンタイン週間が終わると、今度は息つくまもなくホワイトデーの準備に入る。鳴海はその傍らで、税務署に提出する書類の作成にも追われた。
「りょうちゃん、無理しないでよ。言ってくれれば俺、手伝うからさ」
女性従業員たちが帰宅した店内にひとり残り、バックヤードでノートパソコンを睨んでいた鳴海のもとに旭が訪ねてきた。デスクの周辺にひろがる書類の山を見て、旭は苦笑を浮かべつつ画面を覗きこむ。それから、鳴海を見下ろした。
「よかったらつづき、俺が引き受けようか?」
会計士の資格を持つ義弟の頼もしい申し出に、鳴海は一瞬心動かされかけ、しかしすぐさま思いなおしてかぶりを振った。
「いや、こういうのは一度、ひととおり自分でやってみないと。はじめから頼り癖がつくようじゃ、先が思いやられる」
「まあまあ、そんな堅苦しく考えないで」
旭はあっけらかんといなした。
「りょうちゃん、ここんとこ働きづめじゃん。休めるときは少しでも時間取るようにしないと。そのうち無理が利かなくなるよ?」
おっとりと言われて、鳴海は苦笑した。
「情報源は塚本さんか」
「余計な告げ口したって怒んないでやって? 無理やり聞き出したのは俺だから。っていうかさ、大変な時期ってわかっててカナ押しつけたの俺だから、りょうちゃんの負担増やすような結果になってないか気になってね。足手まといになるような奴じゃないとは思うんだけど、りょうちゃんとの相性もあるじゃん? それで気になって、どんな具合か問い合わせてみたわけ」
「それで俺が連日店に居残っていると聞いて、過労死してないかたしかめるために、こうして足を運んでくれたってわけだ」
低く笑った鳴海に、旭もまた、そういうことと軽く返した。
「実際、バレンタイン当日までの数日間はほとんど徹夜だったんでしょ? いくら自分の店とはいえ、りょうちゃんひとりで無理しすぎだってカナも心配してたよ。ひょっとして、ずっと泊まりこんでた?」
「いや、さすがにそこまでムチャはしてない。一応途中で何度か、仮眠をとりに家には帰ったよ。じゃないと、身体が保たない」
「そう? ならいいけど。俺、よかれと思ったつもりが、逆に裏目に出ちゃったんじゃないかって気になってさ。もしかしてりょうちゃんにカナのこと頼んだの、最悪のタイミングだったかなって……」
申し訳なさそうに眉を曇らせる旭に、鳴海はそんなことはないと即座に否定した。
「かえっていいタイミングで紹介してもらって助かった。じゃなかったら、俺ひとりであれだけの数、処理しきれなかったと思う」
「かなり賑わったみたいだね」
「ああ。ありがたい誤算ではあったが、まさかあそこまで混雑するとは正直思ってなかった。この時期、職人として雇われる側での経験ならそれなりに積んできたつもりだったが、采配をふるう立場となると、やはり全然違うもんだな。オープンしたての無名の店だからと、少々甘く見てた」
「大変だった?」
「塚本さんがいなかったら、おそらく不眠不休で作業しても追いつかなかっただろうな」
「役に立てたならよかった。カナもね、りょうちゃんの仕事ぶり傍で見られて、すっごい勉強になるって喜んでたよ」
「自分のことで手一杯で、ちゃんと指導できてるかは甚だ怪しいもんだがな」
「そんなことないでしょ。向こうも基礎は充分できてるわけだし、いまさら手取り足取り最初から、なんてのは期待してないよ。必要なことがあれば、勝手に学ぶんじゃない?」
軽い調子で言ったあとで、ただ、と旭は付け加えた。
「もうひとりの彼女の居場所を奪っちゃったんじゃないかって、ちょっと気にしてた」
「もうひとりの彼女?」
「うん。葵ちゃんって言ったっけ? りょうちゃんが最初に雇った」
ああ、と頷いたあとで、鳴海は眉根を寄せた。
そういえば、もとの職場の同僚たちと結局どんな話をしたのか、確認することなく今日まで来てしまった。さすがにそこまで詮索するのはどうかという気もしたし、女性同士の会話に首を突っこむのも気が引けたからだ。それ以前に鳴海自身、日々の商品作りに追われていて、そこまで気にかけてやる余裕はなくなっていた。それは鳴海のみならず、加奈子も葵も同様だっただろう。だが、大きな山場を越えたいまも、葵は沈黙しつづけている。言う必要がないからだと鳴海は勝手に解釈していたのだが、ひょっとして違ったのだろうか。
葵が黙っているのは、タイミングを失したからだったのか、それとももっとべつの……。
旭伝いに聞いた加奈子の見解が、ひっかかった。
鳴海の目に留まった範囲では、葵と加奈子はうまくやっているように見えた。そもそも、店の中での立ち位置からしてふたりはまるで役目が異なっている。当然、それぞれの役割に応じた対応を鳴海もとってきたわけだが、葵はそのことで、引け目を感じたり疎外感を味わったりしていたのだろうか。
どちらか一方に肩入れする態度をとったつもりはない。鳴海自身にそんな意識がまるでないのだから当然だろう。だが、バレンタインの準備に追われているあいだは、プロの職人同士として加奈子を相手に段取りの確認や指示を出すことが多かった。戦場のような厨房で忙しく立ち働くあいだ、葵はそんな自分たちに遠慮しているようなところがあったことは否めない。
素人だという自覚があればこそ、熱心に専門的知識を学ぼうと頑張っていた。だが、ここ最近は、店を開けている時間帯はもちろんのこと、閉店後も厨房に顔を出す頻度は減っていた。それは葵なりに充分、従業員として対応できる知識と自信がついたからではなかったのか……。
「まあ、それについては、ふたりのあいだにあとから自分が割りこんだっていう、カナなりの引け目があるからなんだろうけどね」
「割りこんだもなにも、俺と彼女はべつに……」
「うん、わかってるよ。ただ、いままでは葵ちゃんもりょうちゃんひとりを頼みにできてたのが、カナが入ったことでちょっとその関係性が崩れて、気軽にりょうちゃんに頼りづらくなっちゃったっていうのがあるんじゃないかってね。カナがなまじ、葵ちゃん側じゃなくて、りょうちゃん側の職人だったっていうのが、葵ちゃんを気後れさせてるんじゃないかって気にしてた」
昼休憩を先にとるよう勧めたときの、一瞬なにかを言いかけて呑みこんだ葵の様子が脳裡に甦った。だが、鳴海は旭に対しては、そんなことはないだろうと応じた。
「俺なんかより、彼女もかえって同性の塚本さんのほうが頼りやすいだろう。俺じゃ気がまわらないことも多い。同性のよしみで相談に乗ってやってもらえると助かる」
「ま、そこは当人たち同士でうまく折り合いをつけてもらうってことで」
軽い調子で笑った旭は、
「そんなわけだから、りょうちゃんも無理しないで、いつでも同性の俺を頼ってよ?」
言いながら、作業途中のパソコン画面を目と顎先で指し示す。鳴海はそんな義弟の気遣いに苦笑した。
「そうだな。やるだけやって、どうにもならなかったら、そのときは遠慮なく頼らせてもらうよ」
「いつでもどうぞ。っていっても、りょうちゃん、もともと理系の人だから、このぐらいたいしたことないか」
「そんなことはない。こういった方面はてんで素人だからな。かなり悪戦苦闘してるよ。来年あたりは、税理士に頼むことにしようかと思ってる」
鳴海はそう言って、苦笑を深めた。鳴海のもとに1通の手紙が届くのは、それからまもなくのことである。




