ミーシャ処分
ストロベリーナイツからまさかの移籍によって、今季の活躍を危ぶむ声もあったシャルロッタだが、予選で驚異的なラップタイムを叩き出し、それらの声を黙らせた。
同時にこれまでも度々ワークス勢に迫る速さ示してきたものの所詮色物扱いだった(フェリーニ)LMSの進化と真価を証明してみせた。
もちろん、フレデリカも素晴らしいタイムを記録しており、GP史上でも類い稀な二人の天才に合わせて開発された(常人ではまともに走らせる事も困難といわれる)マシンで、ワークス勢に引けを取らない走りを見せた琴音の実力も見逃せない。
但し、それはあくまでワンラップのタイムを競う予選では、という前置きが付く。圧倒的パワーの代償に著しく悪い燃費、タイヤへの負担、何より懸念されるのは、今季よりチェンタウロレーシングとしたチームの、不安の残るチームワーク。天才二人をサポートするのは琴音しかいない。
これらの要素を考えれば、そのまま決勝でもチェンタウロの独断場とはいかないと予想された。
チェンタウロが決勝でどれくらい戦えるかはさておき、ストロベリーナイツでは、チームミーティングの前にピット内で起きた暴力騒動について、密かに話し合われていた。
「どうしてこうなったのか説明してもらおう。まあ聞かんでもおおよそわかるが」
エレーナは、ライダーが着替えや休憩をするトレーラーにニコライを呼びつけた。当然、予選中の騒動の顛末を聞くためだ。シャルロッタがいた頃には、エレーナがどつくのは日常だったが、ニコライが手をあげたのは初めてである。しかも殴られたミーシャは出血した。
外の喧騒を遮断する防音設備は、中の音も外に漏れない。他にスターシアと彼女のメカニックのイリーナ、仲裁に入ったCPU技術者のタムラ。なぜかプリンセスキャット監督のスベトラーナまでいた。
初めは、エンジンが焼きついた事についカッとなってしまい、手をあげた自分にすべて責任がある言い張っていたニコライも、次第にミーシャを庇い切れなくなっていた。
そもそもスミホーイのサテライトチームとはいえ、今回の件には無関係のスベトラーナがいる事に、エレーナが今回の騒動の原因を概ね把握している事を示唆していた。
「ミーシャはタチアナに誑かされただけなんです。彼を責めないでやってください!」
それでもニコライはミーシャを庇った。
「スベタはどう思う?私はこういう問題には疎いようだ」
エレーナはスベトラーナに意見を求めた。
「そうね、タチアナさんから迫ったのは間違いないでしょうね。アイカちゃんに振られた童貞坊やを落とすなんてわけないでしょうから」
「なに?ミーシャはアイカに振られたのか?それよりあいつはアイカが好きだったのか!?」
エレーナが今さら場違いの驚きの声をあげ、皆を唖然とさせた。
「私はエレーナさんにそう言いましたよね?それでエレーナさんはアイカちゃんの担当をセルゲイおじさんに替えたんですよね?」
スターシアにまで呆れられた。
「そうだったのか……私はてっきりアイカが腐らないようにと……」
エレーナはニコライの顔を見やって、今の今まで誰か(スターシア)の流布した噂を信じていた様子でつぶやいた。
スターシアの教育もあって、少しはサブカルチャーの知識がついてきたようだが、妙な方向に行っているらしい。
「まったくこの人は」
「う……、ゴホン!それでだ、問題はミーシャをどうすべきかだ」
エレーナは取り繕うように慌てて本題に戻した。今回は愛華とミーシャのことはあまり関係ない。
「彼は若いが腕のいいメカニックです。今回のミスはタチアナにそそのかされて魔が差しただけで、少し頭を冷やしたら必ずきっちり仕事します」
「タチアナを理由にするのは難しいでしょうね。彼女からすれば『速くして欲しい』というライダーとして当然の要望を言ったまででしょうから」
尚もニコライはミーシャを庇おうとするが、スベトラーナに打ち消された。
「それにタチアナにとっても、たったワンラップのタイムアタックすらもたないセッティングなど求めていなかったでしょう。完全なミーシャさんの失態と言うしかありません」
スベトラーナの言う通りだった。タチアナにとっても、最後のストレートでエンジンが壊れなければ、それなりのタイムが出てたはずだ。
「もしかしたらスパイがいるかも知れません!ストロベリーナイツの戦力が落ちるのを願う奴等は大勢います」
「言葉を慎め!」
エレーナが厳しく諌める。ここにはタムラ氏がいる。彼はスミホーイの人間ではない。スミホーイが採用しているCPUメーカーから出向してきている外部の人間だ。
現在のMotoミニモマシンは、燃料噴射装置はじめ、様々な所までコンピューターで制御されている。事実上エンジンセッティングはCPU専門のエンジニアがいなければ成り立たない。ヤマダのように高度な制御を自社でプログラムするところは別として、多くのチームは外部の専門エンジニアに頼っている。
「申し訳ない、Mr.タムラ。ニコも本心から言っているのではない事を理解して頂けるとありがたい」
エレーナがタムラに謝罪する。ニコライも、自分でも馬鹿げた事を口走ったと謝った。
「まあライバルチームだけでなく、エレーナさんには敵が多いですからね。国の偉い人にも煙ったがってる人はおりますし。ニコライさんはエレーナさんの身を心配しているのでしょう」
スベトラーナは、ニコライの迷い言もあり得ない事ではないと言う。
ニコライは「エレーナさんの身を」のところに顔を赤らめ否定しようとした。
「あら、心配してるのではないのですか?いずれにしろ今回はそういう思惑とは関係ないでしょう。もし私がストロベリーナイツを貶めようとするなら、アイカさんのマシンに小細工するか、それが露骨ならタチアナさんに良い成績が出るよう仕向けるでしょうね。アイカさんに迫る順位、或いは上回る成績を出させれば、アイカさんよりロシア人であるタチアナをエースにすべき、という声が高まりますから。でもタチアナさんではタイトルは狙えない。エレーナさんもそうお思いでしょう?」
「ターニャをどう評価するかは置いといて、ミーシャがのぼせていただけで裏がないのは間違いないようだな。Mr.タムラ、不快な思いをさせてすまない」
「いえ、セッティングの過ちであれば、私にも責任があります。ライダーの意見を聞いて、メカニックと打ち合わせしながら決めていくのが私の仕事ですから」
タムラも頭を下げた。
「そこでもう一つ教えて欲しい。ミーシャのセッティングについて、インジェクションの専門家として何か感じなかったか?」
エレーナがタムラの責任を追及しようとしているのではないと彼にもわかったが、スミホーイが日本のバイクメーカーとは異なる組織だとまざまざと感じて慎重に答える。
「アイカさんやスターシアさんと比べ、随分攻めたセッティングだとは感じました。ただ、私にはスミホーイのエンジンがどこまで耐久性があるのかは、わかりません。過去のデータから意見は述べましたが、最終的にはミーシャさんの要望に合わせました」
「データロガーでは、安全な範囲を2,000回転ほど上回る回転数を記録してます」
ニコライが付け足した。これは微妙な数字だ。普通のセッティングでも、それくらいなら瞬間的に越える事はある。瞬間的でないにしてもワンラップなら必ず壊れるという範囲でもない。
「それとオイルの混合比も薄くしてあります」
2サイクルエンジンは、オイルを燃料と混ぜてエンジン内部を潤滑する。当然オイルはガソリンのようには燃えないので、排出物質として排気される。
これが環境問題が厳しくなった昨今、多くのモーターサイクルから2サイクルエンジンが採用されなくなった理由だが、排出物質の少ないオイルの登場と、コンピューターに制御された適切なオイル噴射装置の開発によって、同程度出力の4サイクルエンジンより環境汚染物質の排出が少ないシステムとして見直された。特に小排気量のMotoミニモでは、圧倒的に2サイクル優位となっている。
最初からガソリンに混ぜるにしろ、分離潤滑するにしろ、オイルは燃焼において不純物であり、混合比を濃くすれば排気ガス(白煙)も多くなり、燃焼効率は落ちる。逆に薄くし過ぎれば燃焼効率は上がるが、潤滑が不十分でエンジンは壊れやすくなる。
尚、分離潤滑ではオイルの混合比という表現は正確でなく、オイルの噴出量と言うべきだが、メカニックの間ではこれまでの慣例から『混合比』という言い方がずっと使われていた。
「回転を上げてオイルまで薄くしたか……」
セッティングは、気温、気圧、ライダーの体格、乗り方など、様々な要素が絡み合って、簡単に正解は見つけられない。強いて言えば結果が答えだ。通常予選アタック用のセッティングは、決勝よりマージンを少なくする。但し、レギュレーションでエンジン使用基数制限が導入されてからは、ダメージを与える可能性の高い極端なセッティングはしなくなっていた。
「予選一発に賭けたターニャに拝み倒されて、許容範囲を越えたセッティングをしたというところか……まったく素人じゃあるまいし」
エレーナは失望の色を露にため息をついた。
エレーナとてミーシャには少なからず期待していた。一般的でない性的趣向の噂はあるものの、これまであの若さで他のベテランメカニックに負けない十分な仕事をしてくれていた。今回噂は否定されたようだが、逆に脆すぎる。ライダーもメカニックも、最終的に残るのは精神の強さだ。
ミスは誰にでもある。だがこれは単なるミスではない。レースの厳しさをわかっているはずのミーシャにとって、あまりにお粗末過ぎる顛末だった。
「いずれはニコライのあとを継ぐチーフメカニックにと目をかけていたが、私の見込み違いだったようだ。彼なら工場でもそれなりの仕事はあるだろう」
氷の女王と呼ばれたエレーナも、チームの者やたとえライバルに対しても、決して冷酷な人間ではない。但しそれは、同じ目標に向かう強い意思がある者に対して同志としての連帯感だ。プロ意識に欠ける輩にかける情も必要性も持ち合わせてなかった。




