可能性
由加理から暫定トップの座を奪ったのはスターシアだった。タイムは1分42秒981。
予想していたとはいえ、やはり悔しい。YC215優位と言われるこのコースで、必ずしもしも一周のラップタイムで優位という訳ではないにしても、自分のベストの走りがあっさり抜かれてしまった。このあとにはまだまだ強豪が登場する。
セルゲイの予想した通り、フレデリカも43秒を切ってきた。しかもタイムは、スターシアを上回る1分42秒531。由加理のタイムを0.6秒近く上回ってきた。
日常生活においてコンマ6秒などほとんど意識することないだろう。レースの世界でも、ほんの僅かなミスでコンマ6秒ぐらい簡単に違ってしまう。
しかし、それがベストの走りをした結果だとしたら、動かしがたい差となって突きつけられる。
100分の1秒を縮めるために、途方もないお金と労力をかけて作られたバイク、研いてきたライディングテクニック、たった一周にかけた集中力。由加理の予選タイムは、それらが完璧とは言わないまでも、すべて出し切ったベストタイムだ。言い方を換えれば、それが由加理の現時点での限界だ。
むしろここまで暫定トップでいられたのが運が良かった。
(マリア・メランドリが転んで、タチアナは最後メカニカルトラブルだったみたいだし、ほかの人たちはわたしより遅いバイクに乗ってた。でも、本当のトップクラスの人たちは、わたしのタイムなんて楽々越えてくる……)
バレンティーナが42秒998を記録し、由加理は暫定4位まで落ちた。あと一人由加理より速いタイムを出せば、スタートグリッド一列目には並べない。
由加理はすでにフロントローを諦めていた。諦めていたというのは正しい言い方ではないだろう。由加理の仕事は、決勝でラニーニが良い結果を残せるよう尽くすこと。予選は残り四人だから、少なくとも決勝のスタートグリッド二列目は確保した。二列目ならアシストとしての役割は果たせる。あとはラニーニとナオミが少しでも良いスタートグリッド獲得を祈るだけだ。
そしてナオミがアタックする。
タイムは1分43秒034。43秒124の由加理のタイムは越えたが、42秒台には届かない。続いてアタックしたラニーニも、43秒002と43秒は切れなかった。残念な気持ちと自分は決して遅くはなかったという安堵で複雑だ。
エースがフロントローの目安である43秒を切れなかったのに安堵というのも何だが、由加理は初めてのGPフル参戦、サーキットもチームも初めての新人なので仕方ないだろう。それより次は愛華だ。
(このところ、先輩は調子がよくないみたいだ。パドックで会っても、どこか先輩らしくない。初めはライバルチームだからレース前はこんなものかとも思ったけど、ラニーニさんたちも心配していた。走りにも精彩がない。たぶんあのタチアナが原因だと思うけど、だからこそ、ここできっちり証明して欲しい)
「よく見ておきなさい。今日のアイカは決めてくるよ」
心配の眼差しで見つめる由加理に、そう話しかけたのはケリー監督だった。
ピット前を通過する愛華は、練習走行の時と一見変わりないように見えるが、ケリーにはアイカが、彼女本来の走りを取り戻しているように感じたようだ。由加理もそのちがいを見定めようと、モニターを凝視する。
調子が悪かったといっても、タイムにしたら1秒もちがわない。モニター越しで見てもわかるような差があるとは思えないが、言われて見れば、明らかに昨日までとはちがう気がする。
(いや、確かにちがう。細かなロスもあるけど、小さなことなんてこだわらないで、全力で走ってる。愛華先輩の走りだ!)
中間タイムはトップタイムのフレデリカより僅かに遅れている。しかし由加理にとって画面下で時を刻み続けるラップ計時に大きな意味はなかった。愛華が全力で走っている姿に熱くなる。
(こんなモニターなんかじゃなくて、もっと近くで見たい。だけどもうすぐだ。もうすぐ先輩の間近で走れるんだ。対等のライバルとして!)
愛華がコントロールラインを越え、ラップタイムが表示される。
1分43秒045。
サーキット中が歓声とため息にざわつく。思いはそれぞれだろう。客観的事実は、まずまずのタイムということ。そしてナオミと由加理の間に割り込んだ。フロントローには並べなくても、十分狙える位置である。
由加理は、自分の順位が一つ落ちたことも、ブルーストライプスの間に入られたことも、自分がそれほど遅くなかったということすら意識から消えていた。
ただただ明日の決勝が待ち遠しい。
会場のざわつきが収まらないうちに、最終コーナーからディフェンディングチャンピオンが立ち上がってくる。
フェリーニLMSの力強いエキゾーストを響かせ、シャルロットはすべての視線を惹き付ける。コントロールラインを通過する。
(速い!)
単にフェリーニLMS独特の甲高いエンジン音だけのせいではない。ストレートの速度が他のライダーより速いのが、目で見てわかる。
フェリーニLMSのエンジンパワーだけでもない。琴音やフレデリカもストレートは速かったが、そこまで感じなかった。
シャルロッタの最終コーナーからの立ち上がりスピードが速いからだ。
ストレートエンドで最小限の減速から吸い込まれるように1コーナーへ消えて行く。
由加理は急いでモニターに目を移す。
バイクが身体の一部といわれるその走りは、見る者を釘付けにする美がある。スターシアのような洗練された美しさとはちがう、野生のチーターが獲物を捉えようとする躍動感だ。
一瞬で凄まじい速度まで加速し、瞬時に向きを変え、また獲物を追うように加速する。
(あんなのに襲われたら……)
到底逃げきれるとは思えない。できることがあるとするなら、エースを逃がすために囮として喰われるぐらいだろう。しかしシャルロッタという肉食獣は、まだ脂も乗ってない由加理など見向きもしないで、より美味そうな獲物を追うだろう。
(こんな人とどうやって戦えばいいの?)
これまでもシャルロッタのレースは何度も見てる。合同テストや練習走行で一緒に走ってもいる。自分より断然速いとは感じたが、そこまで恐怖したことはなかった。普段の痛い行動を見てるだけに、余計落差を感じるのかも知れない。愛華と同じ舞台で走れることを喜んだのもつかの間、実際に競い合わなくてはならない現実のものすごさに震えてくる。
シャルロッタのタイムは、驚愕の1分41秒981。
それはもうMotoミニモのタイムではない。
「シャルロッタの走り見て怖じ気づいた?」
再びケリーが話しかけた。
「すごいです。まるで一人だけ次元がちがうみたいです」
「そう感じられるなら、まずは合格ね」
ケリーはニッコリ微笑んだ。
由加理には意味がわからない。由加理は敵わないと認めたようなものだ。なのに合格?
「どうしてですか?シャルロッタさんのライディングは、まるで野生動物みたいです。わたしなんて今でもバイクが怖いって感じるんですよ。敵うわけないです」
「そうね。彼女は紛れなくサーキット最速の動物だわ。でもね、サバンナ最速のチーターでも、案外狩りの成功率低いの。弱点も多いわ。最速だけど最強じゃない。大切なのは戦い方。それには相手のことも自分のことも、正しく分析できないとね。バレンティーナにはできなかった。でも、あなたにはそれができてるわ」
シャルロッタが抜きん出ていることは、誰もが感じている。しかし、それを認めてしまったら勝てない。皆そう思っていると思っていた。バレンティーナは認めないことで自分を奮い立たせてきた。だけどケリーは、それが彼女の勝てない理由だと言う。
(最速だけど最強じゃない……)
シャルロッタさんにも弱点はある。いやむしろ弱点の方が多い。それを知り、そこを突く。それには自分を知らなくてはならない。だが由加理には、自分とシャルロッタとのあまりの差に、どうしたって勝てるとは思えなかった。
「大丈夫、あなたは決して遅くないわ。普通初めての予選でこれだけのタイム出せたら生意気にもなるものだけど、さすがアイカさんの後輩ね。走りのタイプが似てるだけじゃなくて、性格もよく似てるわ」
由加理にとっては、なによりうれしい褒め言葉だ。
「わたしもなれるでしょうか!?アイカ先輩のように」
ケリーには、天上から奈落まで驚くほどの速さで往き来するこのルーキーを、おもしろく思えた。あれほど不安気だったのに、一瞬で元気を取り戻し希望に満ちた声で訊いてくる。
この子、アイカさんよりシンプルね……。
「なれるわよ。私がしてみせるわ」
素材はアイカと同等。技術的にはまだまだだけど、センスはいいもの持ってる。シンプルなのは素直に技術を吸収できる。反面、悪い影響も受けやすい。上手く育てればアイカ以上のライダーになれるけど、駄目ライダーの見本に終わる可能性もある。
ヤマダの栄光は、この子に掛かってると言っていい。
私の責任も重大ね……。




