解き放たれた封印
最新のヤマダYC213には、左ハンドルグリップの内側、ちょうどクラッチレバーホルダーの隣、一般的な市販車ならウィンカーのスイッチにあたる位置が、走行モード切り替えスイッチとなっていた。
バレンティーナは残り5周となった時、白文字で1から5までの数字と赤くCと刻まれたダイヤルに親指をかけた。
コンピューターによる出力制御選択のモードは、基本的には数字が大きくなるほどコンピューターの介入が大きく、小さいほど直接的、大雑把に言えば数字が大きいほどコンピューター任せとなり、小さいほどライダーの操作にダイレクトな、アクティブモードということになる。因みに5はいわゆるエコモードで、ゴールまで燃費が厳しくなった場合専用で、事実上四段階の選択だ。
「結局、最後に頼れるのは自分の感覚だけってか?」
そうつぶやくと彼女は"2"の位置から"C"と刻まれたところまでダイヤルを回した。
Cモードとは、キャンセル、つまりコンピューターによるスロットル介入を遮断したことになる。
これまで、ライダーに求められてきた繊細な右手の感覚すら無意味にする画期的変革となると信じて、積極的に開発に携わってきたバレンティーナだが、それゆえ未成熟な部分も知り尽くしている。
ヤマダの技術者たちを責めるつもりはない。確かに煮詰めねばならない部分もあるが、常識的には十分通用するレベルまで達している。一般のライダーは言うに及ばず、モータースポーツにおいても二流ライダーでもトップレベルのスロットルワークを可能とし、トップクラスのライダーなら予選タイムアタックのアベレージでレース全般を走り切れるほどリスクと疲労を軽減するものだった。
だが、今バレンティーナのまわりにいる連中には通じない。
常識の通じない相手に理論で対抗しても、はじめから通じるはずがない。
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スターシアが、シャルロッタとフレデリカに塞がれこまねいているバレンティーナの外側からパスしようとした時、突然ヤマダYC213の挙動が変化した。
スターシアから見れば、打つ手なく変化を求めて道を譲ったように思えたのだが、並びかけた瞬間、YC213は身震いするように車体を揺らすと突如バレンティーナを振り落としかねないほど暴れ始めた。
巻き込まれる!!
スターシアはとっさにアクセルを弛め、暴れるヤマダから距離をとった。
バレンティーナは暴れ馬に跨がるカウボーイのようにしがみつきながら必死にマシンをコントロールしている。
スターシアがいたであろうところでなんとか収めると、再びリアをブルブルと震わせ猛烈な加速を始めた。
コンピューターの介入を切ったと言っても、いわゆるトラクションコントロールをオフにしただけで、急に機械式キャブレターになった訳ではない。コンピューターは今も、エンジンのスロットル開度、回転数、車速、ギヤポジションに合わせた的確な燃料を燃焼室に送り込んでいる。
最高出力は高回転域に絞ったLMSチューンには及ばないものの、全域にトルクフルで、右手の僅かな動きにもダイレクトに反応する。現在の最新テクノロジーで、純粋に燃焼効率を追求した機関。
まるで調教されたサーカスのライオンが、鎖を解き放った途端野性を取り戻したような凶暴さ。
バレンティーナはその落差に最初こそ面食らったが、暴力的なパワーを乗りこなすスリルと征服感にゾクゾクしてくる。
「そうだよ、これだよ!誰にでも乗れるバイクなんてレースする意味なんてないじゃないか。GPマシンに乗れるのは、特別な人間だけなんだから」
溢れるアドレナリンは中毒のように神経を昂らせ、世界をも支配できる気にさせていく。
数年前は、誰もがボクのことを天才と呼んでいたよね?
古臭いダートテクニックで、最新技術で生まれたモンスターを扱えるかい?
運動神経だけの根性娘に、経験の差を教えてあげるよ。
レースってのは、綺麗に走るより、押し退けてでも先にゴールした者が勝ちなのさ。
ボクのアシストが精々の器なのに二年連続チャンピオンなんて夢、終わらせてあげるよ。
恐怖も疲労も感じない。右手に握る鞭を振るえば、火の輪もくぐらせて見せる。
トップスピードの伸びもラップタイムもそれほど変わらないが、トリッキーなシャルロッタとフレデリカの走りについて来る。それどころか二人を翻弄しているほどだ。
それは、シャルロッタとフレデリカを混ぜ合わせ、濃縮した狂気を抽出したような走りであった。
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「なんなの!?あんたたちが来たら、バレンティーナが狂っちゃったじゃない!」
それまでも度々邪魔されてウザがっていたシャルロッタも、さすがに鬱陶しいだけでは済まない様子で手を焼いている。
「故意なのかトラブルなのかわかりませんが、ご自慢の電子制御が機能していないようです。気をつけてください」
先ほどひやりとさせられたスターシアが答える。
「バイクだけじゃなくて頭も壊れているわよ、こいつ」
シャルロッタをもって「壊れてる」と言わせるのだから本当に壊れている。
それでも、まともに走らせるだけで神経と体力をすり減らしそうなマシンで、稀代の天才たち相手に互角以上のバトルを繰り広げてるのだから、バレンティーナもまた天才であることに間違いはない。
とは言え、このままでは予定通り三人で抜け出すことはできない。バレンティーナがいつ飛んでもおかしくない状態でシャルロッタたちとバトルしてるところに愛華とスターシアまで加われば、どうなるのか予想できない。
愛華が何度か近づいてみたが、バレンティーナはそれに構わずマシンを暴れさせ、危うく接触しそうになった。
一人で自爆してくれるのは構わないが、巻き込まれるのはかなわない。
ストレートではスリップを使っても前に出れそうにない。
その間にも刻々とレースは進み、最終ラップが近づいていた。
このままゴールまで行ったら、最後はパワーで押しきられてしまう。最後のストレートで追いつかれないだけの差をつけるには、今勝負するしかないと愛華は判断した。
「シャルロッタさん、一度下がってください」
「下がってどうすんのよ!そのまま逃げ切られたら終わりよ」
「わたしがバレンティーナさんを引きつけます!その隙にスターシアさんと抜け出してください」
「あんたの手に負える相手じゃないわよ!べつにあんたのことバカにしてるわけじゃないけど、こいつ普通じゃないから。まともに相手しようとしたらぶつけられるわよ」
それは覚悟してる。その時はその時だ。ぶつかったらバレンティーナだってただでは済まない。転倒かコースアウト、少なくてもラインを乱すぐらいするはずだ。その間にシャルロッタさんとスターシアさんなら抜け出せる。あとはフレデリカさんとラニーニちゃんを振り切ればいい。
「バレンティーナさんを引きつけるのは、私がします」
愛華の覚悟に、スターシアが割り込んできた。
「スターシアお姉様が?」
「ダメです。そのあとフレデリカさんとラニーニちゃんを振り切るにはスターシアさんじゃないと」
「シャルロッタさんの言う通り、今のバレンティーナさんは正攻法で攻め落とせる状態じゃありません」
それは愛華もわかっている。だからといってシャルロッタとフレデリカですら手を焼いている相手だ。スターシアといえども危険なのは変わらない。
「でもそれじゃスターシアさんが」
「私の燃料タンクには、もうゴールまでもつほどガソリンは残っていません。それにシャルロッタさんのラストスパートを引っ張るのは、もとからアイカちゃんの役目でしょ?」
スターシアの燃料がゴールまでもたないというのは、嘘だと思った。今日ここまでのスターシアは、燃費が厳しくなるような走りをしていない。だが愛華は反論できなかった。
シャルロッタの言う通り、愛華には身を挺してバレンティーナを抑えることすらどこまでできるかわからない。
スターシアさんの方が確実だ。スターシアさんならその上で、ラニーニちゃんの前でゴールすることだってできるかも知れない……。
「どうやらスターシアお姉様に任せるしかないみたいね」
「……。わかりました。スターシアさん、お願いします。でも最終目標はわたしたちの1、2、3フィニッシュです。それを忘れないでください」
できなければ他の手を考える、そうに言いたかったが、そんな余裕がないのはわかっている。今できることに集中するしかない。
「1コーナーで私が行きます。続く左コーナーまでに道を作りますから、そこで抜けてください」
ずっとストレートではフレデリカとバレンティーナが速かった。ストレートエンドでシャルロッタが突っ込みコーナー区間でバトルに持ち込むを序盤から続けてきた。愛華たちが追いついてからも同じだ。最終ラップなので勝負してくることを予想しているかも知れないが、仕掛けるにはそこが最大のチャンスだろう。




