ホールショット!
──── ふうーっ
愛華は、グリップを思いきり握りしめていることに気づいて、深く深呼吸をした。
(肩の力を抜いて。余計なこと考えないで、スタートに集中しないと)
予選では、これまでの最高の走りができた。ごちゃごちゃした悩みはたくさんあったが、直前で紗季と交わしたやり取りを思い出し、速く走ることだけに集中できた。
結果、自分でも驚きのポールポジション。
他の人たちが力を出しきれなかったのもあるが、とにかく一番前からスタートができる。
スタートは、愛華が並みいる強者たちに対しても自信を持ってる数少ない場面だ。
もちろんそれは、体重の軽さがアドバンテージとなっているのはわかっている。だからこそ、絶対に決めなくちゃならない。
同じフロントローに並んだフレデリカの乗るLMSの瞬発力、バレンティーナのヤマダの制御されたトラクションコントロールの前では、僅かばかりのアドバンテージなど一瞬のミスでひっくり返されてしまう。
レース前のミーティングでも、エレーナはシャルロッタについて何も指示しなかった。
シャルロッタも、何も言わなかった。
横に並ぶスターシアは、スタートが得意な方ではない。決して下手だからではなく、それどころか技術的には完璧なのだが、スミホーイにはGP一のスタイルを誇るスターシアを、ヤマダワークスやLMSより早く加速させるだけのスタートダッシュ力がない。
(わたしがフレデリカさんとバレンティーナさんを抑えないと。スタートさえ乗りきれば、スターシアさんは必ず追いついてくれるから)
おそらくフレデリカもバレンティーナも、ストロベリーナイツのチーム内で不和が生じているだろうことは気づいているはずだ。
彼女たちはシャルロッタを孤立させるために、ハイペースなレース展開、或いは、逆にスローペースに持ち込んで、チーム総力戦にしようとしてるかも知れない。
どちらにしても、シャルロッタと協力できない状況では、愛華とスターシアで先にレースの主導権を握ることが唯一の対抗策だ。
全車がグリッドについたことを確認したオフィシャルが、コースから立ち退く。
シグナルが点灯し、カウントダウンが始まる。
タンクに上体を臥せて、エンジン回転をピーク域まであげる。
背後からビリビリと空気を震わせる数十台の排気音が押し寄せるが、愛華はスタートシグナルだけに集中した。
最後の赤いランプが消えた瞬間、スロットルを捻ったまま握っていたブレーキレバーを放す。フォークは伸びようとフロントタイヤを前に押し出す。同時にクラッチを繋ぐ。一連の動作を一瞬で行うと、愛華のマシンはフロントを僅かに浮かせ、弾かれた矢のように飛び出した。
タイミングのピタリと決まったベストスタート。前にも横にも誰もいない。
エンジンが吹けきる直前でシフトアップ。
再び伸び切ったフロントフォークからタイヤの接地感が消えるが、かまわず抱えたタンクに体重を被せるようにしてスロットルを開け続ける。
リアサスは無駄に動くことなく、愛華を押し進めた。
だがストレートエンドが近づくにつれ、背後から独特の排気音が迫って来る。おそらく爆発的なパワーを乗りこなすフレデリカだ。
フレデリカを前に出すと厄介だ。引っ張りまわされる。
愛華は小さな体をさらに小さく畳んで、空気抵抗を少しでも減らそうとカウルに潜り込む。
1コーナーが迫る。LMSの狂暴な唸り声が、イン側すぐ足元にいるような気がする。それでも愛華は、フルスロットルのままインにマシンを寝かせた。
本来ならブレーキングでフロントフォークを沈ませてからバンクさせるところだが、スタートラインからの加速では、フルブレーキングをするほどの速度には達していない。とは言っても、フォークの伸びたままフルバンクさせるのは勇気がいる。
愛華は少しだけハンドルを内側に舵をきるように力を加え、フォークを沈ませた。僅かでもやり過ぎればあっという間にスリップダウンする微妙な操作だ。
愛華が内側に切れ込んだことで、フレデリカはラインを塞がれた。曲がりきれず、外側に膨らんだところをすり抜けようと飛び込んだが、予想外に愛華がラインを維持したためにスロットルを緩めざるをえない。
愛華はフレデリカを抑えてクリッピングポイントを掠める。
マシンを少し起こしシフトアップ。
マシンは一段上がったタイヤの回転にビクリと車体を震わせるが、愛華はリアタイヤに体重を預けるように抑えつけ、そのままフルスロットルを続ける。
フロントタイヤがバンクしたまま路面から離れる。
それでも愛華は緩めない。リアタイヤ一本で、一輪車に乗ってるようにコーナーを抜けて行く。
「おいおい、馬鹿正直に基本守ってたあいつが、なんであんなトリッキーなテクニック使ってんだよ!?」
フレデリカに続いて愛華をかわそうと狙っていたバレンティーナは、インカムをつけているのも忘れて驚きの声をあげてしまった。
相性はともかく、テクニックでは歴然たる差があると思っていたバレンティーナだ。その意味では、シャルロッタより愛華にエースでいて欲しかった。
シャルロッタが調子に乗ると誰にも止められない。愛華も自分を手こずらせるだけの優れたライダーだとは認めている。しかし愛華が優れているのは、誰かのアシストとしてだ。今季ヤマダの新メカニズムの試験的導入のおかげで二回も勝たせてしまったが、本来バレンティーナとYC214、チームVALEの敵ではないはずだった。
なのに、シャルロッタばりのトリッキーな技を見せてホールショットを奪った。それもバレンティーナでさえ正面からやり合いたくないフレデリカを見事抑えて……
(いや、あれはシャルのテクニックじゃない。高い身体能力とどんな状況にも反応できるまで徹底的に染み込ませたバイク操作、なにより勝利への強い意思。エレーナの走りだ)
テレビや観客席で観ていた多くは、豪快にフロントを浮かせて立ち上がる愛華の姿に目を奪われたが、バレンティーナはその前の、全開のままコーナーに進入し、ハンドルをこじるようにしてフロントフォークを鎮めた極限のマシン操作に、エレーナの姿が重なった。
ライディング教本では、してはいけない危険な操作とされているが、レースの世界ではよく使われるテクニックでもある。もちろんバレンティーナも使っている。
ただほとんどの場合、一瞬だけブレーキを握るなり、スロットルを戻すなりしてきっかけをつくってフォークを沈ませる。
愛華が目の前で見せたような、フロントの荷重がかかってない状態からいきなりバイクを寝かせ、無理やりハンドルをこじってフォークを沈めるような恐れを知らない曲がり方をするのは、エレーナ以外に見たことがない。おそらくシャルロッタでもしないだろう。
一般的なイメージと違って、シャルロッタはむしろ丁寧にバイクを扱う。人間離れした感覚で、タイヤの僅かなたわみ、サスペンションの反発力を利用してバイクを意のままに動かすのがシャルロッタだ。
エレーナも愛華も、GPライダーとしてはバイクに乗り始めた時期が遅い。どんなに運動神経がよくても、バレンティーナやシャルロッタのような幼少の頃から乗っていた者と比べると、どうしても補えない差がある。感覚の多くは12歳以前に最も育つのだから。
エレーナは、それを逆手に強味にした。感覚が拒否反応するような強引な操作を、バランスと反射神経と気合いと根性で飛び越える。
そんなことできるのは、エレーナだけだと思っていた。
それを愛華までが、躊躇いもせずやってのけた。しかもあのフレデリカからプレッシャー掛けられてるこの場面で。
(よく『基本を一番大事にしてます~ぅ』なんて言ってるらしいけど、師匠が師匠なら、弟子も弟子だよ、まったく。この詐欺師め)
バレンティーナがここで冷静さを保てたのは、何度も苦汁を味わわされた経験のおかげかも知れない。愛華を追い込むのはフレデリカに任せて、自分はレース後半に向けてチーム体勢の整えとタイヤの温存を決め込んだ。
(どうせスターシアが加わったところで、簡単にはフレデリカを振りきれないだろうから。それに今回のストロベリーナイツは、絶対なんかおかしい。シャルはもともとおかしいけど、三人ともめちゃ乗れてるのに、ぜんぜん協調してない感じ?ひょっとしたらチームメイト同士潰し合ってくれるかも?)
バレンティーナは、昨シーズンのフレデリカとのチーム内での確執を思い出し、ヘルメットの奥でニヤリと笑みを浮かべた。
───同じチームにエースが二人いるってのは、敵より邪魔なんだよね。ボクの去年のイライラ、わかってくれるとうれしいな。




