彼女をその気にさせるもの
タイヤウォーマーが外され、両輪のトレッドがピットロードのコンクリートに接地する。
メカニックがメインスイッチをオンにして、燃料コックを開くと、バイクの後ろにまわり、シートカウルを掴んで支える。
フレデリカは、真横から長い脚で跨ぐようにバイクに跨がり、クラッチを握り絞め、シフトペダルを踏み込んだ。
自分でもメインスイッチと燃料コックを確認して、メカニックに振り返る。
無言で頷き合うと、メカニックはバイクを後ろから押し出した。
フレデリカがクラッチレバーを放すと、充分暖気されていたヤマダ製エンジンは、最初にパンと乾いた爆発音をあげ、アクセルの煽りに合わせてワークスヤマダとは違う、独特の歌声を響かせた。
もう一度後ろを振り返ると、メカニックが親指を上に向けて好調であることを示す。
そのままピットロードを走って来る車両がないことを確認すると、ギクシャクしない程度のエンジン回転を保ちながら、ゆっくりとLMSのピットから出た。
地元アメリカでの開催ということで、それなりの声援はあった。だがメディアの注目は、やはりヤマダ直系ワークスのチームVALEに集まっていた。唯一ヤマダワークスに食い込んだフレデリカだが、ヤマダ勢の一部のような扱いをされていた。
LMSはヤマダからエンジンの供給を受けているが、チームVALEとはまったく別のチームだ。ヤマダYC214とLMSヤマダH-03は、ベースのエンジンこそ同じでも、まるで性格が違う。Motoミニモのマシンの中でも両極端と言えるほど思想の違うマシンだ。そしてフレデリカも、決してバレンティーナとは相慣れることはないと思っていた。
シャルロッタとも相慣れることはないが、彼女のことは認めている。
シャルロッタは自分と同じ種類の人間だ。仲良くは出来ないが、嫌いではない。むしろ一緒に走りたくて、早く戻ってくれることを願っている。
バレンティーナに対しては、シャルロッタが彼女に抱いているような憎悪はないが、それほど興味もない。もちろん同じヤマダの仲間として協力する気もない。
フレデリカにとってGPは、自分の欲求を満たす場所だ。そしてフレデリカの一番の欲求は、シャルロッタと競い合うことだった。
最高の相手とバトルすることは、優勝やタイトルより遥かに魅惑的なことだった。つまらない相手と何人も付き合うより、最高の相手とプレイしたい。
スターシアや愛華、ラニーニやナオミも手強い相手に違いないし、一緒に走るのは楽しかったが、本能が震えたのはシャルロッタだけだった。
もちろん、シャルロッタのいないレースだからといって手を抜くようなことはしていない。最高の相手が戻ってきた時、本気で自分に向かってきてくれる位置にいる必要がある。頭では理解していても、それはどこか、実際に触れられないものを相手するような、虚無感があったのも事実だ。
しかし今日のフレデリカは、シャルロッタのいないにも関わらず、いつも以上に気持ちが昂っていた。
フレデリカの心に本気の火をつけたのは、昨夜遅く、もうとっくに日付が替わってしまっていた時間に掛かってきた、一本の電話だった。
母国アメリカとはいえ、親しい友人の少ないフレデリカには、しかもレース前日(既に当日)の夜中に電話が鳴るなど思いもしなかった。
最初はイタズラかと思ったが、緊急の事情かも知れない。縁起でもない知らせを予感して発信相手を見ると、国際電話らしい。
迷ったが覚悟を決めておそるおそる電話にでると、いきなり酷いイタリア訛りの英語が(しかも頭に響くようなキンキン声で)とびだしてきた。
『いい?!あんた、絶対バカンテェーナに勝ちなさいっ!ぜったいよ!世界中に電気仕掛けのおもちゃなんかじゃ、才能のちがいは埋められないって思い知らせてやるのよ!わかった?!もし負けたりなんてしたら、あんたなんて絶交よ!』
それだけ言うと、電話は勝手に切られてしまった。
フレデリカはしばらく唖然としていたが、可笑しさが込み上げてきた。
「なに言ってんの、こいつ。バカ過ぎでしょ?こんな夜中に。世界中飛び回ってるくせに、ヨーロッパとアメリカじゃ、時差があるっての知らないの?」
そいつはもし時差というものを知っていたとしても、相手の事情など配慮できないやつだった。
「だいたい絶交もなにも、今までだって二~三回しかまともに話したことないじゃない?」
あまりのアホらしさにこらえきれなくなって、遂に声をあげて笑いだした。
「そのバカさ加減も含めて、こいつ、やっぱり最高よ!」
もし相手が、自分のランキング争いが有利になるよう頼んできたのなら、フレデリカはこの上なく不愉快に思っただろう。明日がんばって、と夜中に電話してくるやつは普通いない。いたらそれは、単なる嫌がらせだ。しかしフレデリカには、ずっと振り向かせようとしてきたのに叶わなかった相手から突然誘いをほのめかされたような、胸躍る気分だった。
シャルロッタは自分を認めて、夜中に(向こうは朝だが)わざわざ電話してきたんだ。逆にもしバレンティーナに勝てないようだったら、シャルロッタの期待を裏切ることになる。
それはフレデリカにとって、地元開催GPの勝ち負けやシリーズランキング以上に重要なことだった。
正直フレデリカから見て、LMSが最終的なタイトル争いに絡めるほどの力があるとは思えない。三大ワークスに肉薄する最強のプライベートチームと言われても、力の差は歴然だ。おそらくハンナも琴音もわかっているだろう。彼女たちは一流のプロだ。現実をきちんと把握している。そしてLMSの全員がわかっているはずだ。
当初の目標である一勝を、思いのほか早く達成できた。あれは確かに幸運もあった。
フレデリカは、このチームに巡り会えたことが、幸運だと思った。
ヤマダに比べて、体制は満足するものではなかったが、誇りを持った職人たちが、フレデリカの能力を100%発揮できるマシンを作ろうとしてくれている。結果を気にせず、思いきり走らせてくれる。ヤマダでは望めなかった環境だ。
アメリカの田舎者でしかなかった自分に、世界を見せてくれたヤマダには感謝している。
その世界で、焦がれるほどの走りを見せつけてくれたシャルロッタに感謝している。
次は自分が見せる番だ。莫大な資金と労力をつぎ込んで開発した最新テクノロジーも、天才には通用しないってことを。
お安い御用さ、シャルロッタ───
フレデリカは一番最初に、ウォームアップ走行へコースに出て行った。




