耐えて……
動きだしはシャルロッタが一番早かったものの、そのあとが伸びない。やはりフルにはパワーを使っていないようだ。
出足は遅いものの、絶妙にシフトアップを繰り返してスピードをのせたスターシアが前に出ると、シャルロッタはその背後にピタリと入った。
シャルロッタとほとんど変わらぬタイミングで跳びだし、そのまま大勢の観客に埋め尽くされたメインスタンドの前を先頭でとびだしたのは愛華、そしてラニーニ。二人は連なって1コーナーに入るが、まだ本格的に競い合おうとはしない。振り返って互いのチームメイトを確かめる。
ラニーニは、このまま愛華とバトルを楽しみたかったが、たった一度のミスで、すべてが終わってしまう危険は避けた。慌てなくても、必ずその機会はやってくる予感がする。今は早く体勢を整えることを優先する。
愛華も、この段階で熱くなりすぎて、日本GPの時のようにラニーニを巻き込んで戦列を離れるのだけは避けたい。そんな形でチャンピオンが決まってしまっても、誰にとっても後味が悪い。
ラニーニのめざすところは、自分の優勝とシャルロッタを4位以内に入らせないこと。つまるところ、ブルーストライプス全員による上位独占。
愛華の目標は、シャルロッタの優勝唯ひとつ。
どちらも、はっきりとした目的を持っていた。
スターシアは、前を行く愛華とラニーニにペースを合わせた。このペースなら、シャルロッタも負担なく走れるようだ。当然愛華も、そのペースを計りながら先頭を走っていた。ラニーニはまだ動ことしていない。彼女が動くのは、ハンナたちが前に出てからだろう。そのハンナたちも、まだ様子を見ているようだ。スターシアの狙いが気になっているというのも、早急な展開に歯止めをかけているのは確かだろう。
一方、ヤマダ勢だが、マリアローザはスタート直後にラインを離れ、最後尾スタートのバレンティーナを待った。
ケリーと琴音は、ハンナたちの後ろにつけるものの大人しく傍観する構えを見せていた。
このレースは、ストロベリーナイツとブルーストライプス、シャルロッタとラニーニのチャンピオンを賭けた最後の真剣勝負であり、タイトル争いから既に脱落している自分たちは邪魔しない、とアピールしているようでもあった。勿論余りにスローペースの駆け引きを繰り広げるようなら、先に行かせてもらう構えもさり気なく見せている。
彼女たちが本心から思っているのか、掻き回すだけ掻き回して最後に優勝を逃す、などという道化を演じるよりは、観ている人々に好印象を与えた方が得策と判断したのかは不明だが、両者にとっても観客にとっても、気のきいた演出と言えるだろう。
愛華とラニーニが時々先頭を入れ替わるものの、特に激しい順位争いはなく、だが全体的には比較的速いペースでレースは進行していった。
10ラップめに入った1コーナーで、ナオミがスターシアとシャルロッタのインを突いた。
二人とも、無理にインを塞ごうとせず、ナオミはすんなり3位に上がった。それを機に、リンダとハンナも二人をかわし、ラニーニと合流すると一気に愛華をも抜いて先頭を堅めた。
愛華は慌てず、スターシアとシャルロッタの前を走る。両チームがようやく体勢を揃えたことに、スタンドが沸く。両チームのピットも、固唾を呑んで成り行きを見守った。
先頭に立ったナオミがペースを上げる。ラニーニを中心に、ブルーストライプス全員が、それに合わせて加速する。
「アイカ、離されてるわよ!もっとペースを上げなさいよ!」
愛華にとっては、まだ余裕のあるペースだったが、シャルロッタのエンジンが気になる。
「大丈夫ですか?」
「あたりまえじゃない!離される方があとでキツくなるわ」
闘志剥き出しの大声でシャルロッタが叫ぶので、愛華は秘かに優勝を狙っていることを、スターシアさんに気づかれないか心配になった。
「シャルロッタさんの言う通り、ここで後れると、四位以内すら危うくなります」
スターシアからもペースアップに同意する声が返ってきた。
そうだった、このままでは四位以内も危うい。ただ、スターシアの語調からは、愛華たちの考えてることを見透かしているような気がした。
「シャルロッタさん、私とアイカちゃんで、必ず最後の勝負どころまで連れていきますから、それまでは、焦らずに温存することに専念していてくださいね」
スターシアは意味あり気な微笑みを見せると、愛華の前に出てブルーストライプスを追い始めた。愛華はシャルロッタの後ろにまわる。
スターシアの後ろは、驚くほど走り易かった。きれいなラインを流れるように走るスターシアの後ろは、いつも気づいたら好タイムが出ていて驚くのだが、今日のスターシアは、いつもにも増してスムーズだ。
スターシアと愛華の間に挟まれたシャルロッタは、まるで下り坂を走っているように、クラッチを握ったままでも引っ張っていってもらえる気がした。そこだけが別次元の、静かな空間に入っているような錯覚を覚える。
ストロベリーナイツが離れないと見たハンナは、ナオミに更にペースを上げることを指示する。ナオミはそれに応じて、もう一段階ペースを上げた。
全盛期を過ぎているハンナには、けっこう厳しいペースだったが、リンダにとっても、あまり得意とする走り方ではない。リンダはカウルとカウルをぶつけ合うような接戦で、エレーナにも気後れしない力業が持ち味であり、カミソリの刃のように細いラインを辿る走りは苦手としていた。
スリップに入っていれば問題なくついていけるが、コーナーで少し離れる場面が見られた。
「リンダさん!一人でも脱落すれば私たちの負けです。集中してたください」
自身も気の抜けないペースに懸命に踏みとどまっているハンナが、リンダに声をかけた。一旦離れてしまうと、ずるずると後退していってしまうだろう。かと言って、ハンナとリンダのペースに合わせる訳にはいかない。
僅かなミスも許されないのは、ラニーニだけではない。全員がシャルロッタの前でゴールしなければならないのだ。
「すみません、ちょっとブレーキングポイントを見誤りました。でも、もう大丈夫です!」
「きつくても耐えてください。普段のシャルロッタさんたちなら、確実に勝負してくるポイントなのに、動けないのはやはりエンジンに深刻な問題があるのでしょう。ここで引き離せれば、なんとか逃げ切れる可能性が見えてきます。逆に終盤まで肉薄されると、もっと厳しいバトルを強いられます!」
シャルロッタのバイクがどの程度深刻なのかはわからないが、残り僅かになれば、勝負に出てくる可能性はある。むしろそのために温存している可能性が高い。
ハンナに出来ることは、可能な限りハイペースで引っ張り、少しでもシャルロッタの消耗を蓄積させておくことだけだ。その前に引き離れてくれれば言うことないのだが、それほど楽観主義にはなれなかった。
ブルーストライプスのペースアップに、スターシアのスーパースムーズな走りにも、徐々にハードな動きが加わり始める。それでもシャルロッタは、半分以下のスロットル開度でついていけた。後ろにいる愛華には、それが単にスターシアがペースメーカーとして優秀というだけではないのが、痛いほどわかっていた。
スターシアは一見、力を抜いて走っているように見えても、それはリンダやハンナですら気を抜けないハイペースだ。そのペースにも低めの回転域でついて行けるのはいいのだが、それだけにタイヤに充分なトラクションが掛からず安定しない。それをシャルロッタは、バランス感覚で補っているのが後ろからだとよくわかる。
コーナーリングの基本は、後輪にある。
バイクはハンドルをきって曲がるものではない。ハンドルは行きたい方向に向けるのではなく、バイクの進む方向に向かう。
バイクは寝かせても曲がらない。後輪に駆動力を与えることで安定し、強力な旋回力を生む。
愛華はこれまで何度となく、シャルロッタが後輪をほとんど浮かせたままコーナーに入って行くシーンや寝かせながらクラッチを握って、一気に三速とかシフトダウンしたりして、前輪だけで曲がっていく場面を何度も見てきた。
しかしそれは、ここ一発の勝負所での話で、バランス感覚と反射神経を研ぎ澄ましたハイテンションな状態の時だ。愛華もついて行こうと夢中で、無意識に同じような走りをしていることもあったが、自分からしようとは思わない。
それを今、シャルロッタはかなりのペースの中、ずっと続けている。しかも、テンションが昂るバトルの最中でなく、アシストの間で守られているだけというシャルロッタにとっては退屈な状況の中で、ただエンジンに負担を掛けないために神経をすり減らして。
そんなシャルロッタを、どうしても勝たせてあげたかった。
「ナオミさん、ラニーニさんと交代しながら、もっとペースを上げてください。リンダさん!遅れないように気合いを入れてついてきてください」
「「「はいっ!」」」
ハンナはここが勝負どころと判断した。三人も了解している。
シャルロッタのトラブルがどの程度かは依然わからないが、スターシアのアシストでも、まったく負担をかけないというのが厳しくなっているのを感じた。ここで更にペースを上げれば、突き放すまではいかなくても、相当な負担を強いることになるだろう。リンダにとっても自分自身にとっても、相当きついペースではあるが、なんとか踏ん張るしかない。
「これくらいのスピード、本当だったら簡単にぶち抜いてやるのに……!」
シャルロッタは歯を食い縛って悔しさに耐えていた。
スタート時には重苦しく感じたエンジンも、今は違和感を感じない。むしろ「もっと回して!もっと速く走らせて!」と言っているようにすら感じる。
それが却って不安にさせる。機械というのは、壊れる直前に急に調子よくなることがある。
磨り減ってガタついていた各パーツ同士が、異常な発熱によって膨張し、一時的に適切なクリアランスとなることがある。しかしそれは、あくまでも“一時的”であって、更に熱が加わればパーツ同士が圧着し、最悪食い込んでロックしてしまう。いわゆる焼き付きという現象だ。
シャルロッタには、それがいつ起こるのかわからない。そもそもエンジンの中で実際に何が起きているのか、シャルロッタ自身にもわかっていなかった。
セルゲイが隈無くチェックして、消耗は許容範囲であることを確認した。交換が許されるパーツは新品に交換し、丁重に擦り合わせてくれた。単なるシャルロッタの思い過ごしかも知れない。
シャルロッタにとってバイクは体の一部だ。他人にはわからない感覚を持っている。身体の不調を感じたスポーツ選手が、病院で検査しても原因がわからず、そのまま活動を続けたら突然倒れるということもある。
いつもは多少の不具合など気にしないでつっ走るシャルロッタだったが、今回、何とも言えない不快感が彼女の中から消えてくれなかった。
「シャルロッタさん、大丈夫ですか!?」
ブルーストライプスのペースアップに、愛華が心配して訊いてくる。
「これくらい、全然平気に決まってるでしょ!」
思わずいつものように返した。
平気なのか、ダメなのか、自分でもわからない。わからないのが一番キツイ。いや、わかっている。このエンジンはもうすぐ終わる。問題はいつ終わるかだ。神経をすり減らしてこんなに苦労してるのに、もし途中で……
「アイカちゃん、シャルロッタさんの前に来てください。私はラニーニさんたちにちょっかい出して、少しペースを落とさせてきます」
スターシアお姉様が、シャルロッタの心のうちを読んだように、普通ならそれだけでも困難なことを、さらりと言った。
スターシアお姉様……
シャルロッタは、スターシアにすべて見抜かれている気がした。
たった一人でブルーストライプスの足を遅らせるのは、並みのライダーで出来ることではない。今シーズンの彼女たちは、咋シーズンまでとは比べものにならないくらい結束が堅い。スターシアなら可能かも知れないが、集団の中、或いは前でプロックするより、いっそそのまま逃げ切る方が楽と言える。スターシアが優勝すれば、シャルロッタは今のポジションでも、チャンピオンになり得る。
シャルロッタの頭に疑念が浮かんだ……。
前に出ようとする愛華を抑え、スターシアの後ろにへばり着いた。
「シャルロッタさん!無理しないでください」
愛華の声に、スターシアも振り返る。
「あたしがチャンピオンになるんだから、あたしにも行かせて」
シャルロッタとて、自分の置かれた状況はわかっている。シャルロッタが一番わかっていると言っていい。今やスターシアと愛華の力を借りないと、四位以内すら危うい、と。
スターシアお姉様を疑いたくはない。でも、お姉様が冷静な判断をするなら……
それが正しい判断であるのも、シャルロッタは理解していた。
「ちゃんとあなたの見せ場は用意しますから、それまでは大人しくしてなさい」
スターシアのやさしく、それでいて有無を言わせない明確な言葉が返ってきた。やはりお姉様は、すべてお見通しなんだと感じた。
シャルロッタは従うしかなかった。思いきり回せるのは、たぶん一周がいいところだ。そのあと、確実にエンジンは終わる。ここで無理するのは、タイトルを捨てることだと彼女自身、よくわかっていた。




