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35. ベルンとリオ、不穏すぎる雲行き

 フォレストラ公爵邸の厩舎裏、いつもリオとマリアンヌが剣の鍛錬をしている庭にでたベルンとリオは、ボロボロになりながらもすっきりした顔で戻って来てメイド達を呆れさせた。

 すぐに風呂へと追い立てられることになるが、ベルンだけなぜかいつも使っている部屋ではなく、離れたところにある客室へと案内された。


「お二人ともすぐに入浴していただきたいですが、お部屋にお風呂はひとつしかございませんからね。いつものお部屋から少し離れたお部屋で申し訳ないのですが、こちらをお使いください。入浴のお手伝いは必要でしょうか?」

「いい、いい。自分で入るから」

「かしこまりました。ごゆっくりおくつろぎください。このままこちらのお部屋でお休みいただいて結構ですので」


 メイドは「おほほほ」と笑いながら立ち去っていった。


「何なんだ、ありゃあ」


 首をかしげつつも言われたとおりに浴室へ向かうベルンだった。



 きれいに洗ってのんびり湯に浸かっていると、部屋から物音が聞こえる。扉の開閉音、人の足音、そして話し声。ベルンは湯の中でとろけていた表情をさっと引き締め、物音を極力立てないように湯船から出て用意されていたガウンを羽織った。浴室の扉にくっついて、その向こうに聞き耳を立てていたが――


「ソフィア?」


 誰がいるのかを察してベルンは浴室のドアを開けた。浴室から続く寝室にはソファセットに大きな天蓋付きのベッドが据え付けられていて、淡い青で統一された落ち着いたインテリアになっている。

 その部屋の中央付近にソフィアがたたずんでいる。かなり困った顔をしていたのだが、それを確認するやいなやベルンはがばっと浴室に逃げ込んで勢いよく扉を閉めた。


「ソッ、ソッ、ソフィア? 何でここに、てか、その格好は……!」

「ごっ、ごめんなさいごめんなさい! お風呂に入ったあと、メイドさんたちに着せられてここに……」


 結婚式を挙げたとはいえ、ここは隣国オイーリアであり、二人はロームの国民。ロームできちんと手続きをして、かわいいソフィアとあんなことやこんなことをするのはその後だとベルンは決めている。今は平民だとしても貴族の血筋、そのへんをきちんとしたいと思っているのは変わらない。奔放にやりたい放題のリオが時折羨ましく、憎ったらしく思えたりもするが、そこはその人の考え方だから、と理解している。


 だというのに今一瞬だけ見てしまったソフィアは、水色の髪をさらりと垂らし、白いゆったりとした服――それもほんのりと体の線が透けて見えるやつ――を身に着けていた。

 あざといくらいに可愛らしくフリルやリボン飾りがついているが、やっとお尻を隠すくらいの丈といい透け感といい、あからさまにソレ用の扇情的なナイトドレスなのだ。


「とにかくお互いに一度部屋に戻ったほうがよさそうだ。ソフィア、何か上に着て――」

「それが、さっきメイドさんが私の着ていたガウンを持って行っちゃったんです」

「はあ? 何やってんだ、この屋敷のやつら」

「ううう、どうしようベルンさん」


 正直ベルンの方が「どうしよう」と騒ぎたいところだ。浴室に籠もっていても、一瞬だけ見えたソフィアの艶姿が脳裏にちらついてどうしていいかわからない。

 正直、あの姿のソフィアを前にして我慢できる気は全くしない。だが、このままずっと浴室に籠もっているわけにもいかない。


「ソフィア、ひとまずさ、シーツかなんか被っててくれるか」

「う、うん」


 言いながらガウンを脱いで服を着る。できました、という声を聞いて恐る恐る浴室の扉を開いた。言われたとおり頭からすっぽりと白いシーツを被ったソフィアは、これはこれでかわいかった。が、扇情的でないだけずっとましだ。

 ベルンはそのまま客室から出ようと部屋の扉に手を掛ける――が。


 ガチャガチャガチャ。


「鍵……かかってますね」

「なにやってくれてんだあああああ!」


 メイド達にも「早くしっぽりくっついちゃえYo!」とやきもきされていたことを二人は知らない。なので、メイド達の好意というかいたずらというか、なのだが、ベルンにとっては死活問題である。


「くっそ、誰もいないんだったらもうこれ蹴破って」

「待ってくださいベルンさん、だめですよ壊したら!」

「お願い必死に耐えてる俺の気持ちもわかって!」

「い、いいんですよ……? 結婚式、挙げたんだから」


 ぴきっとベルンが固まる。そんなこと言われたら必死にせき止めている欲望を抑えきれなくなってしまう。


(この状態で我慢するのか? 本当に我慢しなきゃいけねえのか?)


 決意がぐらぐらと揺らぐ。背後には白いシーツを被ったままのソフィア、先程見たその中身が頭をさらに揺さぶる。

 ごくり、とベルンの喉が鳴った。


「そ、ソフィア――」

「ベルンさん……」


 ドンドンドンドン!

 その瞬間、扉を激しく叩く音とベルンを呼ぶ声がして二人はぱっと離れた。


「ベルン! 俺です! マリアンヌが」


 リオの声だ。ベルンとソフィアは顔を見合わせた。邪魔されたような助かったような複雑な気分だ。




 騒ぎで駆けつけたメイドに鍵を開けてもらい、顔を合わせたリオは何というか……怒っていた。


「リオ? マリアンヌがどうしたんだ」

「――いなくなりました」

「はあ?」

「外で剣の稽古をするからと、剣を持って出ていったそうです。後から俺が来るから、と言って。そんな約束はしていません。おまけに部屋に行ったら彼女の荷物がなくなっていて」

「こんな時間に?」


 外はすっかり真っ暗だ。腕が立つ剣士とはいえマリアンヌは妙齢の女性、それも元々美しい上に最近はリオに可愛がられているせいか色っぽい。心配するなという方が無理というものだ。

 リオを見て、これはどうやら怒っていると言うより心配しているのを隠している顔だな、とベルンはすぐにわかってしまった。


「ソフィア、マリアンヌは何か言ってなかったか?」


 ベルンは自分の背後に隠れるように立っているソフィアに振り返って声を掛けた。


「え? ええと、確かに悩んではいるみたいだったけど」

「悩んでいた? 何をですか?」

「私の口からマリアンヌの悩みを話すのもちょっと――でもなあ……」

「何かあったのか?」


 二人から聞かれてソフィアが少し困った顔をした。けれどここでそれを気にしていても始まらないと思ったのだろう。結局思い当たる理由を口にした。


「その、マリアンヌはリオさんが公爵家の血筋らしいってわかったあたりから悩んでたらしくて。私もマリアンヌも孤児院出身のど平民じゃないですか。貴族様の血筋に入るなんて怖いって思っちゃいますから」

「それで悩んでるのか? だってよ、リオは貴族にゃならねえって宣言してるじゃねえか」

「本当のところはわかんないですよ? わかんないけど、ひょっとしたらリオさんは自分じゃない誰かと結ばれた方が幸せなんじゃないか、とかぐるぐる思い詰めちゃって飛び出したとか――マリアンヌ、そういうところがあるから」


 実にありそうな話過ぎて笑えない。


「それで公爵邸を飛び出した?」

「あくまで私の推測だけですけど。でもここ以外に行くあてもないですし、街に出て宿でも取っていてくれるといいんだけど。さすがにこんな暗くなったら心配――」

「――探しに出てきます」


 真剣な顔でリオがきびすを返した。


「待てよ、どこ行ったか見当ついてんのかよ」

「知りませんよ。でも自分で出て行ったなら、彼女ならひたすら真っ直ぐ突っ走りそうな気がしています」


 あながち間違っていないあたりが恐ろしい。


「ベルン、すみませんが出てきます」

「お、おい、カンテラ持ってけよ! 暗くちゃ何も見えないぞ。それに俺も探すの手伝うからよ、ちょっと待ってろ」

「ベルンさん、私も行きます!」

「だーっ、ソフィア! その格好で出てくんじゃねええええ! 見せちゃダメ!」


 慌てて顔を出したソフィアにがばっと抱きついて隠す。リオがあきれ顔で一瞥し「厩舎側の出口で待っています」と去って行った。






 外は暗く、カンテラで照らされた道は虫の声が騒々しいくらいに聞こえてくる。

 マリアンヌは剣と荷物を持ってダンジョンのある方向へ走っていった、と門番をしていた騎士から聞いて、そちらへ向けて三人は足を進めていく。


「なんで彼女は突然いなくなったりしたんでしょう。貴族の血縁がそんなに苦痛なんでしょうか、俺は公爵家の籍には入らないと言っているのに」


 暗い道を歩きながらリオがぽつっとつぶやいた。それを受け止めたソフィアが少し考えて言葉を返す。


「――お式が近づいてきて結婚式挙げるんだって実感が湧いてきて、きっと考えちゃったんですよ。私もマリアンヌも、底辺に近い平民ですから」

「ソフィアも?」

「うん。だって私たちからすれば、貴族様なんて雲の上の人だから。畏れ多くて近づけないと思っちゃうんです」

「でも俺もリオももう何年も平民やってるぜ?」


 ベルンが不満そうに鼻を鳴らした。


「わかってます。わかってるけど、やっぱり自分じゃ釣り合わないんじゃないかって考えちゃうんです。条件反射みたいに」

「でもソフィアは逃げ出さなかったじゃないか」

「単純に私にはそこまでに意気地がなかったってことかもしれないです。マリアンヌもあの性格だから、余計に悩んじゃったんでしょうね」


 ソフィアも不安に思っていたと聞いて、ベルンがソフィアの手を取った。


「万が一俺が貴族に戻ることになっても、絶対離さないからな?」


 ソフィアは何も言わずにベルンに微笑み、握られた手をぎゅっと握り返した。

 リオは二人の前を歩きながら眉根を寄せて苦い顔をしたまま先を急いでいる。ベルンはその姿を見て、マリアンヌを案じる相棒の心中を慮り声を掛けられなかった。

 リオ自身もきっと今の自分と同じように、マリアンヌが去って行ってしまうという不安でいっぱいいっぱいなのだろう。あんなに落ち着かないリオは初めて見た、とリオの心を案じ、マリアンヌに対しては彼女が戻って来たらえらい目に遭うんじゃないか(主に寝室で)と彼女の身を案じた。


 ――と。


「見て、ベルンさん! 何か落ちてる」


 ソフィアが突然叫んで、森の中へと伸びている轍をカンテラで照らす。確かに轍の脇に何かが落ちている。拾ってカンテラで照らしてみると、小さな巾着袋だ。見覚えがある。


「これ、マリアンヌが財布に使ってるやつだよな」


 ベルトに紐を結びつけて、巾着自体はポケットに入れていた。それがここに落ちている。


「こっちに行ったんですね」

「行きましょう」


 短く答えたリオが足を速めて轍を分け入っていった。



 ********



 マリアンヌは荘厳な教会の中にいた。

 正面には祭壇があり、ステンドグラスを通した光が色とりどりの影を落としている、天井も高く、下がっている照明も柱に施されたレリーフも相当な年代物に見えるが、塵ひとつなくよく掃除されているようだ。

 やはりよく磨かれたベンチが整然と並ぶ聖堂の中でマリアンヌは立ち尽くしている。ベンチには人がたくさん座っているが、前を向いて座っているのでマリアンヌからその顔は見えない。けれどわかる。フォレストラ公爵家に連なる人たちだ。

 やがて重々しい音がして、背後にある扉が開かれる。そこから入ってきたのは正装したリオ。愛する人を見つけてほっとして、立派な装いの彼に見惚れてしまう。


 だが、彼の左側にはドレス姿の女性がいた。

 ヴェールに隠されて顔はよくわからないが、エルフらしい尖った耳とゆるやかに流れるような金の髪が印象的だ。


『新郎新婦とも似合いだな』

『ええ、フォレストラ公爵家に連なるものとして、彼女くらいの格式のある令嬢でないと』

『ヴィットーリオは冒険者を辞めてオイーリアで貴族として生きていくことにしたらしい』

『カルディクスが継ぐはずだった領地を継ぐらしい』


 リオと花嫁の女性は静かに祭壇に向かって足を進める。


(やだ、いやだ、リオ)


 マリアンヌは今すぐにでもリオの元へ駆け寄りたいが、体は全く動かない。


(いや、これでいいのか? リオは貴族の血を引いていたんだ、私となんかじゃ釣り合わないって思ってたんだから)


 けれどリオの手が花嫁のヴェールを上げ、甘い表情で口づけをしようとする場面にはさすがに我慢が出来なくなった。


「やだ! リオ、やめ――」





 そこではっと目が覚めた。悪い夢から醒めたことを悟ってがっくりと力が抜けた。


「あー、あたしも諦めが悪いなあ」


 今のが夢で良かったと心底安堵しているのが自分の本心だとわかってしまう。リオが甘い表情を他の女性に向け、あまつさえ口づけをしようするシーンなんて、夢だったとしても嫉妬で血が沸騰してしまいそうだ。何度も自分に触れた指が、唇が、他の女に触れるなどと――


 あれはただの夢。この嫉妬心はただの妄想から来ているものだ。ひとまず忘れてしまえ、と起き上がろうとして、初めて自分の状態に気がついた。

 手足を縛られて、硬い木製の床に転がされていた。窓のない部屋らしく真っ暗だ。辛うじて扉と壁の隙間から向こう側の光が漏れていて、真っ暗な中に四角く扉の形だけを浮かび上がらせている。それが唯一の光源だ。

 光が見えたことで少しほっとしたからか、マリアンヌは自分に何が起こったのか思い出した。


「そうだ、走ってて、急に気が遠くなったんだ」


 そこから先は何も覚えていない。縛られているので、どうやら意識を失ったこと自体が仕組まれたことなのでは、と予想はつくが、襲われる覚えは全くない。


 考え込んでいると、部屋の外から複数の男の声が聞こえるのに気がついた。


「それがどの宿にもいないんです」

「そんなわけがあるか」

「あの女は街の中心の方から荷物や剣を持って走ってきた。つまり街の中心方向に拠点があったと考える方が自然だ」

「そりゃそうだが、中心部は貴族街だぞ――ああ、そうか。案外貴族の食客として屋敷に入り込んでいたりとか」

「ベルノルトは元々貴族だからな。考えられないことじゃない」


 なるほど、ベルンを探しているのか、とマリアンヌは納得した。言われてみればベルンの追っ手がいるっていう話を聞いていたじゃないか。ベルンの仲間だから人質に取ったとかそういうことだろうか。

 さて困った、とマリアンヌは小さく息を吐いた。むざむざ扉の向こうにいる奴らに情報を与える気も害される気も毛頭ないけれど、このまま捕まっていたら奴らはベルンに連絡を取り、ここへおびき寄せるだろう。


(ああ、せっかくリオから逃げ出してきたのになあ)


 逃げ出してきたのはいいけれど、本当に自分は後悔しないんだろうか。さっきの夢にあんなに動揺しているのに「いつか心の痛みも薄れていくだろう」なんて思えない。


 自問自答しつつ何とか自分を縛り上げているロープをほどこうと体をよじっていると、ガタン、と音を立てて部屋の扉が開いた。アルコールの匂いが新しい空気と一緒に流れ込んでくる。


「なんだ、起きたのか」


 男がひとり、扉の所からマリアンヌの様子をうかがっている。どうやらそれほど酔っているわけではなさそうだが、それでも酒の匂いが男から漂ってくる。


「起きたならちょっと話を聞かせてもらおうか。あとはあんたたちには煮え湯を飲まされたからな、ついでにちょっとばかり楽しませてもらおうか」


 にやりと笑う男の顔にぞくっと悪寒が走る。


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