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34. マリアンヌ、いっそ逃げてしまおうか

 ベルンとソフィアが精霊樹の下で夫婦の誓いを捧げて精霊の祝福を得た日の夜。マリアンヌはソフィアとともにフォレストラ公爵家に滞在中に借りている客室にいた。


 ベルンたちと旅をするようになって、ソフィアと二人で冒険者をやっていた頃より、ずいぶんと生活の水準が上がったと感じていた。ベルンやリオも冒険者なので、野宿をすることももちろんある。けれど街に入れば、ベルンたちは上級宿に部屋を取るし、マリアンヌたちにも同じ宿の部屋を与えた。最初は気後れしながらも、ベルンたちはB級冒険者だから羽振りが良いのだと思っていた。自分たちも自分たちなりにベルンたちの役に立てばいい。いつか肩を並べるB級冒険者となって、稼げるようになりたいと、マリアンヌたちはベルンたちの姿に憧れていた。


 しかし、ベルンたちとの金銭感覚の違いは冒険者のランクだけが原因ではなかった。

 オイーリアに入ってすぐ、ベルンは元貴族で、リオはその従者なのだと打ち明けられた。元貴族だからといって、懐が温かくなければいい宿には泊まれない。それは二人が冒険者として成功しているからこその生活なのだと分かってはいるけれど、上級宿に躊躇わずに入れる感覚はその出自ゆえだったのかと、すとんと納得したのだ。宿の調度品を汚したり壊したりしないように気を遣いつつも慣れてきたと思っていたが、フォレストラ公爵家の客室は孤児院上がりのマリアンヌたちから見ても高級品ばかりで、あれほど緊張していた上級宿でさえ、所詮冒険者が利用する庶民向けの宿でしかなかったのだと打ちのめされた。上質な木製のテーブルや椅子。ふかふかの絨毯に、シミひとつない壁紙、ふかふかで暖かな布団。ひとたび触れば汚れるか、壊れるのではないか。恐ろしすぎる。


 案内されたばかりの頃は、床で寝ようかとソフィアと相談したくらいだが、ヴィオレッタの誘いで、これまで着たことがないドレスまで袖を通させてもらうことになった。極め付けに、恋人で憧れの冒険者で、剣術の先生でもあるリオはオイーリア貴族の血族だった。元貴族のベルンはともかく、リオまで高価な調度品に囲まれても堂々としていられるわけだ。

 マリアンヌは何度逃げだそうと思ったかわからない。


 いっそ本当に逃げ出してしまおうか。


 ヴィオレッタも、その主人のギルミアも、マリアンヌとソフィアが孤児だったことを話しても嫌がる顔も見せずに良くしてくれるが、本心とは思えない。リオは怒るだろうが、貴族だったと分かったのだ。身分に合った女性と一緒になった方がいい。

 ベルンは平民なのだ。ソフィアとの間になんの障害もない。ひと足先にこっそりと2人で夫婦の誓いを立てたことに一時は腹がたったが、それは孤児院時代からずっと一緒にいたソフィアがマリアンヌにさえ知らせずにこっそりと結婚式を挙げたことに寂しさを感じたからだ。祝福したい気持ちに嘘はない。


「私とリオにも内緒で結婚式をするなんて、水くさいじゃないか」

「……ごめんね」


 マリアンヌはしょぼんと下を向くソフィアのつむじをじっと見つめる。


「いや、謝って欲しいんじゃないんだ。私の方こそ、自分のことにいっぱいいっぱいになってしまってすまない」

「……正直言うと、マリアンヌがちょっぴり羨ましかったの。でも、ベルンさんが私の気持ちを察してくれて、2人で式を挙げようって言ってくれたの。嬉しかった」

「私が羨ましかったのか? 私は逃げたくてたまらないんだが」

「自分のことでいっぱいいっぱいってそういうこと? てっきり準備にかかりきりで幸せいっぱいで、周りに目が届いていないんだと思ってた。ふふっ、マリアンヌらしい。なんていうのかな、ヴィオレッタ様にドレスとか式の準備をしてもらってるのももちろん羨ましかったんだけど、ヴィオレッタ様やギルミア様と家族になれるマリアンヌが羨ましかったのかな。私、早く家族が欲しかったのかも」

「そうなのか。ソフィアならベルンといい家族が作れるよ」

「うん、ありがとう。マリアンヌもリオさんと幸せな家族を作ってね」

「そうだな……」


 ソフィアと話していると、客室のドアを叩く音がした。返事をすると、扉が開いてメイドが入ってきた。


「湯浴みの準備ができてございます。ソフィア様、今夜のお支度をお手伝いいたします」


 にこりとエルフのメイドが控えめに微笑む。ソフィアの顔が真っ赤に染まる。それでマリアンヌも閃いた。


「そっか、初夜だもんな」

「ロームに帰らなきゃだし、今はそういうことはできないってベルンさんが言ってたのに。え、どうして!?」

「大奥様の計らいでございます。せめて共寝をと」


 真っ赤になって慌てるソフィアを見て、微笑ましく目元を緩ませながらエルフのメイドが言う。


「共寝って、ベルンが蛇の生殺しになるだけじゃないのか?」


 少なくともリオなら共寝で終わることはない。マリアンヌは呆れながら言った。だがしかし貴族流の避妊方法があるのかも知れない。そういったことにお構いなく抱かれている気がしていたが、案外貴族流の避妊方法をリオが実践していたのかも知れない。一向に妊娠する気配のない薄い腹をマリアンヌはするりと撫でた。


「せっかくだし湯浴みをしてくればいいんじゃないか?」

「う、うん」


 メイドに連れられて部屋を出ていくソフィアを見送り、マリアンヌは支度を始めた。


「ソフィアごめん」


 マリアンヌはテキパキと冒険者の装備を身に着けると、懐に財布を突っ込み、剣を手に部屋を出た。

 途中、公爵家の廊下で執事だと名乗られた男性にどこに行くのかと聞かれたが、リオに知られたくない一心で庭で鍛錬をすると答えた。


「さっきはなんだかんだで結局鍛錬できなかったからな。少し身体を動かさないと寝られる気がしなくて」

「さようでございますか。ヴィットーリオ様はご一緒ではないのですか?」

「後で来るんじゃないかな」

「……かしこまりました」


 公爵家の執事や使用人たちの視線を背中に感じながら、決して焦りを気取られないように通用口から庭に出た。

 手入れの行き届いた庭を進み、塀を越え、敷地の外に出た。仲間を裏切る行為をしてしまった後ろめたさに、ちらりと屋敷を振り返り、マリアンヌは走り出した。

 ソフィアは湯浴みのあと、今夜は別の客室に案内されるだろうから、部屋にマリアンヌがいないことに気付くのは朝だろう。それまでに距離を稼げれば。


「って、探しにくるかも分からないがな」


 自嘲気味にマリアンヌが笑う。

 実はリオが魔脈詰まりの治療をしていた時、実家に帰ってきたクロディクスとエロティカが庭の東屋でひっそりと話をしていたのを偶然聞いてしまっていた。


『ヴィットーリオがカルディクス兄さんの息子だって確定したら、父上はカルディクス兄さんが受け取るはずだった爵位と領地をヴィットーリオに任せるつもりじゃないかな』


 エロティカが気だるげにティーカップを持ち上げながら言った。


『そうなるだろうな。後継者以外は広大な公爵領を持つ実家の領地経営を手伝うのがしきたりだ。出奔したカルディも、宮廷画家だとかいって王都からなかなか帰ってこないお前も、父上からしたら頭痛の種だからな』

『うわ、こっちに飛び火した。だって、たびたび実家に戻って分割された領地経営をやってたら仕事にならないんだからしかたがないだろ』

『絵なんかどこでも描けるだろ』

『分かってないなぁ。他公爵家のサロンに呼ばれて情報収集するのも俺の仕事なんだって』

『ノルディは文官をしながらもこなしているぞ』

『ノルディはそういうの得意だからね。それより領地を与えるなら冒険者は続けられないんじゃないの? 納得するかなぁ』

『国内でなら続けられるだろうが、屋敷を任せるならば妻はあの娘では心許ないな』

『血を繋ぐにもエルフの女の子がいいよね。ただでさえヴィットーリオはエルフの外見的特徴が少ないんだから』


 マリアンヌは気配を気取られないようにしながら、そっとそこを離れた。けれど心臓が引き絞られるような胸の痛みは、リオから優しい笑みを向けられても消えることはなかった。



 


「おい、黒髪の女が一人でこっちにやってくるぞ」


 ルッジェーロが街道を走ってくるマリアンヌに気付いた。


「あれはベルノルトとパーティーを組んでいた女剣士ではないか?」


 ラファエロが二人だけに聞こえる声で返事した。


「運が向いてきたな」


 にちゃりとファブリッツオがいやらしい笑みを浮かべた。


「渡し船で出し抜かれた時はどうなるかと思ったが。ベルノルトの目撃情報を追ってきたが、間違いではなかったらしい。おいラファエロ、この先はどこの領地だ?」

「もうすでにフォレストラ公爵領直轄地ロランディに入ってます。この先にはロランディの街と公爵城があるはずです」

「つまり。ベルノルトはロランディの宿に滞在してるってわけか」

「そうだろうな。捕まえてベルノルトが泊まっている宿の場所を吐かせるか」

「それより人質にして、ベルノルトをおびき寄せてはどうでしょう」

「おお、ラファエロ冴えているな」

「その作戦でいこう」


 ロームのとある貴族に雇われ、ベルンの全属性適正の秘密と、魔導具があるならそれを奪ってくるという依頼を受けたこの三人組は、ローム王国の元騎士だったが、それぞれ騎士団から追放されるだけの罪を犯し、冒険者に落ちぶれた元貴族だった。


 ルッジェーロとファブリッツオは元々お互いに面識があった。同じ隊に配属されたこともある。酒好きなルッジェーロは酒場で機密情報を喋ってしまい罷免になった。同じく酒好きなファブリッツオは、前夜の深酒が残ったまま酒気帯びで出勤したところ、たまたま規律に厳しいと有名な騎士団総帥と廊下ですれ違い、その場で罷免を言い渡された。


 貴族の三男以下は成人すれば騎士になるか、上級使用人として他家で働くか、商人などで身を立てねばならない。不名誉な解雇で家名に泥を塗った二人に仕事の紹介状を書いてもらうのは難しい。腕に覚えのある二人は冒険者になることを選んだ。ラファエロと二人は、冒険者ギルドで一緒に仕事をするように言われたので行動をともにするようになったのだが、ラファエロもまた似たような境遇らしい。いちばん年下で、腰が軽く、仕事ができるので、ルッジェーロとファブリッツオはラファエロを信頼して可愛がっている。


 そのラファエロが女剣士を人質にしたらどうかと言い、なるほどいい案だと思ったので、実行することにした。



 腕に覚えがあるとはいえ、マリアンヌの敵ではないはずだった。しかし、三人組には幸運なことに、マリアンヌは走りながら自分の思考に没頭していたため、襲撃に対する初動が遅れた。一瞬の差が明暗を分ける。マリアンヌは催眠の魔導具を使われて、愛用の剣を鞘から抜くことなく昏倒した。三人は倒れたマリアンヌを拘束したあと抱えて、ロランディの外れにある廃屋に運び込むと、ベルンに脅迫状を送ることにした。





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