257 一足遅れてストーブリーグ開幕
11月中旬。日本シリーズの決着を以って今シーズンの戦いは幕を閉じた。
我らが村山マダーレッドサフフラワーズは1部リーグ昇格初年度にしてリーグ優勝、プレーオフ制覇、そして日本一を達成。
正に完全制覇と言うべき快挙を成し遂げることができた。
そのこと自体は非常に喜ばしい。
日本プロ野球最高峰の舞台で手にした確かな実績だ。
所属選手、球団共に確固たる地位を確立することができたと言っていいだろう。
俺個人としてはそれ以上に。
お義父さんとあーちゃんと俺の3人で交わした約束を果たすことができたこと。
父さんと母さんを日本シリーズに招待して小さな親孝行ができたこと。
この2つが何よりも嬉しかった。
俺とあーちゃんからウイニングボールを受け取ったお義父さんが嬉し涙を流す姿を皆で温かく見守り、家族で記念撮影をした時の達成感は格別だった。
しかし、何度も繰り返しているようにそこはゴールではない。
あくまでも通過点としなければならない。
山で言うなら7合目から8合目というところ。
WBW制覇という頂点への道のりはここから一層険しくなっていく。
アメリカ代表を打倒して優勝するまで、ひたすら走り続けなければならない。
とは言え、俺達もまた現代社会で生きている人間。
目標に向かって邁進する傍らで、色々と対応しなければならないこともある。
長期的に見て戦力増強に繋がるものも、直接的には関係ないものも目白押しだ。
特に今は1つ大きなイベントが間近に控えていた。
プロ野球ファンであれば容易に予測がつくそれは――。
「日本シリーズも終わって、遂に初めての本格的な契約更改が始まるのね」
美海ちゃんが若干緊張気味に口にした通りだ。
ストーブリーグと言えば、これと移籍話。
やはり、お金の話は人の興味を惹くものだ。
「今日この後から、人によっては下交渉っすからね」
村山マダーレッドサフフラワーズはプレーオフの出場資格者名簿に所属選手全員の名前を載せていたため、この期間はビジターにも1人残らず帯同させていた。
そのため、今年は契約更改も日本シリーズが終わってからの開始。
主力選手は後の方になるのが常だが、事前の下交渉は間もなく行われる予定だ。
ちなみに、この時期恒例の秋季キャンプも他球団から一足遅れて始まっている。
今は丁度、練習の日の昼休憩時間。
俺達は山形県内の練習球場のケータリング室で食事中だ。
日本シリーズ出場の弊害と言うのも変な話ではあるけれども、その影響で今年は控え選手の育成とアピールの場でもあるところのそれの期間が短い。
せめて自主練習で何を磨くかといった方向性ぐらいは各々固めることができるように、可能な限り濃密な時間としなければならない。
何せ、来シーズンは正樹が復帰を予定している。
レギュラー争いの激化は必至だ。
控え選手は特に、来シーズン開幕から逆算して計画的に過ごす必要がある。
俺も首脳陣の1人として、彼らのために色々考えることが多い期間でもある。
それはそれとして。
今は間近に控えた契約更改の話題だったな。
「こっちも本格的な交渉は初めてだけど、球団側も球団側でノウハウなんてないだろうし、お義父さん達は色々大変だっただろうな……」
去年は1部リーグ昇格ということもあり、何も考えずに選手全員今生の最低保証年俸である3000万円とすればよかった。
内外に言い訳が立つタイミングだったし、それで何の問題もなかった。
だが、今回はしっかり成績に応じて評価をして年俸を決めなければならない。
日本一の余韻に浸る間もなく、お義父さん達はてんやわんやだったはずだ。
「多分、お父さん達にとって1番の難題はしゅー君の年俸の話。他人事じゃない」
「いや、まあ、うん。勿論、分かってるって」
あーちゃんに窘めるように言われ、ちょっと誤魔化し気味に応じる。
「勝ちも勝ったり、打ちも打ったり。さすがにやり過ぎなぐらいだったよね」
「結局、何冠だったんすかね」
「少なくとも2つは倉本さんに持ってかれたけどな」
今シーズン、俺はピッチャーとして50勝0敗という異次元の数字を残した。
右で25勝、左で25勝だ。
……異次元とは言いながら、40勝超えのレジェンドの異常さが一層際立つな。
まあ、それはさて置き。
当然ながら最多勝だし、最高勝率。最優秀防御率も獲得している。
バッターとしても、四球攻めを食らいながら史上最多のシーズン146本塁打でホームラン王。更に首位打者や最高出塁率などのタイトルも獲得している。
最多安打や打点王は倉本さんだったので総嘗めとはいかなかったものの、打撃成績は正にゲームのような数字が並んでしまっている。
彼女達も含め、記録的な年俸になるだろうと各所で予測されている状況だった。
「史上最高額が出てもおかしくないわよね?」
「それは、どうだろうなあ」
前世が小市民な俺としては、正直なところ現時点で既に生活面の不満はない。
最低保証年俸でも、10年続けば前世の生涯賃金なんて軽く超えてくるからな。
俺の考えつく贅沢なんて高が知れているし、あーちゃんも質素なものだ。
家計が膨れ上がる心配はしていない。
正直、契約更改も球団側のいいようにして貰って構わないという気持ちもある。
しかし、俺がそれでは他の選手に多大な迷惑がかかる。
提示金額はそのまま選手の評価であり、野球選手という職業の価値にもなる。
しっかり数字を残してチームの勝利に貢献した選手は、その活躍に応じた価格を球団から引き出す義務があると言っても過言ではない。
銭闘などと揶揄されても、そうした選手達の過去の頑張りのおかげで今の景気のいい金額は成り立っているのだ。
何よりも。
日本野球界の発展のために大っぴらに行動しようと思えば何かと費用がかかる。
生活水準は庶民的なレベルで別に問題ないが、それ以外の部分で特別なこと、特異なことをしようとすれば金は湯水のように飛んでいってしまう。
完全オーダーメイドのピッチングマシンなんかも正にその一例と言えるだろう。
自由になる金があって困ることはない。
「何にしても、球団、俺、他の選手。誰にとってもいい結果にしたいところだな」
「……けど、実際のところ秀治郎君の年俸ってどれぐらいになるんすかね」
当たり障りのない内容で纏めたところに、倉本さんが興味深げに尋ねてくる。
美海ちゃんも同じような気持ちを滲ませた表情と共に、俺をジッと見ている。
自分達の指標にもなり得ると思っているのかもしれない。
「……とりあえず、過去最高の上昇率の4倍ぐらいが最低限になるだろうな」
4倍の内訳はエースピッチャー2人分、主軸打者2人分。
数字的には実際それでも最低限だろう。
「過去最高の上昇率って、確か1000%ぐらいだっけ?」
「そうだな。つまるところ11倍だな」
昇二の問いかけに頷いて肯定しながら答える。
今が3000万円とすると3億3000万円。
そこから4倍として13億2000万円が最低ラインというところだ。
前世に比べてベースとなる最低保証年俸が高い分、それでも今生の日本プロ野球界における史上最高年俸とはならない。
今生のそれは確か17億円ぐらいだった。
1年目の契約更改であることを加味しても、13億2000万円からどれだけ金額を積み上げることができるかという話になってくると思っている。
「れ、冷静ね」
「現実感がないだけだよ」
金額に動揺を隠せない美海ちゃんに対し、苦笑気味に応じる。
育成ゲームのペナントモードで契約更改している時のような心持ちだ。
単純に数字から判断しているに過ぎない。
美海ちゃんに言った通り、小市民の感覚が余りにも強過ぎて我がこととして捉え切れていない部分も少しあるかもしれない。
「けど、美海ちゃんだって今シーズン25勝0敗で終えたんだから、それこそ上昇率1000%で3億3000万を最低ラインとして見ていいと思うぞ」
「さ、3億……」
「倉本さんだって。安打数も打点数も歴代最高な上に、キャッチャーに内野に守備にも貢献してくれたんだから3億3000万はマストじゃないかな」
「でも、1年目の契約更改っすけど……」
「それはそうだけど、普通はルーキーイヤーに日本記録なんて作らないからな」
しかも新人記録ではなく、今生のレジェンド級の選手をぶっ千切った記録だ。
1年目の契約更改では聞いたことがないような数字の年俸だとしても、それぐらい出さないと打ち立てた記録どころか往年の名選手達の価値まで下がってしまう。
「この程度は当たり前と思わないと」
「……だとしたら、いきなり富裕層っすねえ」
それこそ現実味がないと言わんばかりに困ったように笑う倉本さん。
今生だと野球選手に税的優遇があるので、半分毟り取られるようなこともない。
金額も倍ぐらいだが、手元に残る割合も1.5倍ぐらいだ。
手取りは実質、前世の3倍ぐらいになる。
「1年間、1部リーグで戦って日本一にもなって収支も安定しただろうし、俺達の年俸としてはその辺りを念頭に置いて交渉していこう」
前世の平均年俸は2軍選手を含んで5000万円程度。
今生は1部リーグの選手のみの平均なら1億円を優に超えている。
それこそ平均的な1部リーグの球団なら年俸総額50億円以上なんてザラだ。
たとえ俺とあーちゃん、美海ちゃん、昇二、倉本さん辺りが上昇率1000%を超え、更に他の選手達も軒並み年俸が上がったとしても。
赤ん坊に経営させるぐらいの致命的な瑕疵がなければ、この野球に狂った世界にあってプロ野球球団が傾くようなことはない。
だから――。
「ん。お父さん相手でも容赦しない」
「それがプロ野球選手としての礼儀ってことね」
「ま、そういうことだな」
変な配慮はせず、全力で交渉に臨む。
それでいい。
「下交渉のトップバッターは秀治郎からだっけ?」
「ああ。っと、そろそろ時間だな」
ケータリング室の時計を見て、急いで食事を終える。
少し悠長にし過ぎたようだ。
「じゃあ、行ってくる」
そうして俺は、足早に練習球場の会議室へと向かったのだった。




