1話:前編 情報の表と裏
二学期の初日、大悟にとっては長い長い一日は漸く放課後にたどり着いた。ただし、彼にはまだ課外授業が残っている。彼自ら志願したので仕方がないことだが……。
「えっとね、洋子。 ちゃんと理由があることで……」
「り、理由って?」
隣の隣の席で、春香が黒髪のボブカットの女子に朝のことについて聞かれている。彼女は近藤洋子。春香のクラスメイトでよく数学のことを教えてもらっている彼女の友人だ。
大悟が密かにマンゴスチンと名付けている。あの”事件”の間接的被害者と言えないこともない。春香がさららの事にかかりっきりになっていた余波でドタキャンを食らったのだから。
「九ヶ谷なんかと親しくなる理由って想像つかないんだけど」
詰問調にならないように、必死に感情を抑えて話しかけているのがこの距離ならわかる。二学期最初の席替えで春香との距離は離れたが、席ひとつ分だけ。しかも、その間に洋子の席なのだ。
「えっと それはね……」
春香の空白の数がいつもよりも多い。不用意にサイエンスモードにはいった朝のやらかしのリカバリーに苦戦している。
始業式からホームルーム、そして放課後。大悟も男子生徒からの目がきつかった。ただ、男子の関心が二学期からの転校生、しかも留学生だ、に集中してるおかげで大分助かっている。
今も、クラスの最前列に座る転校生の周りを男女が取り巻いている。金髪で綺麗で、しかも日本語ペラペラの留学生なんて人気に決まっている。
「夏休みの後半、あの登校日のあたりから全然時間取れなくなってたよね。お家の用事で言ってたけど。もしかして……あれの……」
そう言って洋子は大悟を見た。春香と洋子がクラスメイトで大悟と春香もクラスメイトである以上、論理的には洋子と大悟もクラスメイトであるはずだが、向こうが大悟につけている属性はそうじゃない。彼を見る目は敵、いや害虫を見るものだ。
ゲームに生じた理不尽な虫。いや、俗に言う悪い虫というやつか。本来ならもう図書館に向かっているはずだが、害虫駆除に必死な洋子が春香を引き止めているのだ。
「えっと……」
春香が答えを濁した。質問が悪い。夏休みの後半、春香と大悟はずっと一緒だった。そう言えないこともないのだ。もちろん、それは洋子の想像しているようなものではなく、むしろ色気のかけらもない”物理的”な問題なのだ。
そしてその物理的な問題に、なぜか情報というかけ離れたものが関わるという問題、それを理解するためのこの後の課外授業だ。
本来の本来じゃない春香なら、想定問答集くらいは用意していそうだが、今回は自分の招いたイレギュラーに自分で翻弄されている。しかも、事情を説明しようとも、それは春香の科学者志望という何故か彼女が表にしていないもう一つの秘密に関わるのだ。
「…………」
春香が救いを求めるように大悟を見た。ほんの一瞬、反射的な行動だったのだろう。だが、春香に答えを濁されてショックを受けている洋子がそれを見逃すことはなかった。
洋子が大悟を見た。その目は「やっぱりお前が悪いんだな」と言っている。
「……えっとね。僕が春日さんに勉強を教えてもらうのには事情があってね……」
大悟は仕方なくシナリオを語る。ストーリーの肝は当然あの大学教官だ。
「…………つまり、春香がお姉さんのお友達の大学の先生のところにアルバイトに行って偶然、九ヶ谷と一緒になった」
「そ、そういうことなんだ。ボクもよく知らないけど、春日さんのお姉さんが外国? に居た時のお友達で10年ぶりに日本に帰ってきたって」
大悟は説明した。夏休み前、地下室で春香を見つけてしまった時、彼女が最初に言ったことだ。ここまでなら問題ないはずだ。
「……オランダで美術のお仕事してるお姉さん?」
洋子が春香に尋ねる。
「そうなの。それで、私がその仕事で大きなミスしちゃって、挽回するのに九ヶ谷君が手伝ってくれて。お礼に数学のことをおしえることに。えっと、九ヶ谷君はゲーム作りに興味があって、情報の基礎は数学だから……。」
春香が言った。どうやら大悟が説明している間に、論理的構成を立て直したらしい。春香が仮説を作れずをして大悟が仮説をでっち上げたした。嘘はついていない。
春香のゲームは実はゲーム理論だが、それはゲームらしいのでこちらも嘘ではない。
「そ、そうなんだ。その先生が情報っていうかコンピュータのネットワークのことを研究してる人で。僕がコンピュータゲームに関心あったから興味が出ちゃったんだけど。話が全然理解出来ないくて、それで春日さんに聞いたら……」
「そう、数学の部分なら少しはって」
大悟と春香の共同作業に洋子は唇を噛んで黙る。そして……。
「本当に勉強を教えるだけ?」
「そうなの」
「じゃあ、私も一緒でいいよね。私も夏休みの課題について聞きたいことあるし」
洋子が言った。春香に数学を教わるなら自分にも権利があると言わんばかりだ。
「えっ、えっと……」
「数学を教えるだけなんだよね」
「 そうだよ」
放課後の図書館での勉強会にメンバーが一人増えた。
◇◇
「情報の基本はビット、つまり2進数なの」
放課後の図書館。春香のレクチャーはそんな解るようなわからないような言葉で始まった。
「2進数の性質上桁が一つ増え得る毎に、数は2倍になっていくでしょ。情報の量というのはこの桁に対応していて……」
時々洋子の質問に答えながらなるべく数学に見えるように話しているらしい春香。下手な偽装で、逆に大悟の理解できる範囲を超えていた。
「つまり情報量はlogスケールの話になるの。それはエントロピーと同等の関係で。ほら、このボルツマンの公式。ここにlogがはいってるでしょ。この対数の関係が大事で、気体分子の熱と……」
しかも、説明に熱が入り始めると段々と本性モードに入り始めている。
春香がノートに書いたたった4”文字”の公式。それはその数式に数が一つも使われていないことを意味する。
(そろそろ、やばいラインになってないですか、春日さん)
大悟には全くイメージできない話になっている。最初は大悟がlogの話すら理解できないのを馬鹿にする目で見ていた洋子が、今は困惑を浮かべ始めている。
「ねえ春香。この話って本当に――」
「その、もうちょっとイメージできる例で。情報と熱の関係とか僕にはちょっと難しすぎる、かな」
「そ、そうね、九ヶ谷君のレベルに合わせるなら、徹底的に簡略化しないと」
大悟が必死に目配せしながら言うと、春香はやっと洋子の表情に気がついたようだ。それでも口調から辛辣さが完全に消えてないあたり実に危うい。
「えっと、本当の基本から説明すると情報の基本は『状態を区別』できることなの」
レクチャーを小学生レベルに下げることに決めた春香はいった。
「区別?」
「そう区別。例えば私と九ヶ谷君の区別。ちょっと立ってこっちに来て。あっ、洋子はそこに座ってて」
春香が立ち上がると大悟を隣に手招きする。彼は仕方なく春香の隣に並んだ。机に一人残された洋子がギュッと両手の拳を握るのが見える。
「洋子は私達二人のどちらかが『春日』ということだけを知っているけど、どちらかは知らないとする。その状況で洋子が二人のどちらが春日であるかを区別するために必要なもの、それが情報。例えば何だと思う?」
春香が洋子に水を向けた。
「ストーカーとその被害者」
即答した。だが、春香は顔をしかめる。
「ストーカーの話はいずれ出てくるかもしれないけど、いまはちょっと不適切。もうちょっと単純に」
ストーカーの話出てくるんだ、大悟は混乱する。
「いろいろあるんだけど、例えば『春日』は『九ヶ谷』より背が低い。という情報があったらどう?」
そう言って、春香は大悟との距離を一歩詰めた。もちろん身長を比較しやすいようにだが、手が触れ合わんばかりの距離に春香以外が動揺する。
「さて、どちらが『春日』でしょうか」
洋子が震える指先で春香を指す。
「そう、なにも情報がなければ二人の人間のどちらが『春日』かは区別できない。言い方を変えれば、適当にどちらかを指して50パーセントしか当たらない。でも、洋子に”一つの情報”を渡すことで、区別できなかった二人の人間が100パーセント区別できるようになる。これが情報の性質なの」
「春香のほうが『綺麗』とか『優秀』とかそれでもいいの」
洋子は言った。何をいいたいのか丸わかりだ。要するに大悟は春香の隣に並ぶのにふさわしくないと全力で主張している。そういう情報が伝わってくる。
だが、それは大悟には理解できても、この状態の春香には理解できない。そもそも今の春香にそんな意識はないのだ。
「美醜とか優劣とかのあまり客観的じゃない情報は例えとしてはあまり適してないわね。それに優秀さは…………。コホン、しいて言えば『男』『女』なら客観的かな」
春香が言った。男女であることを強調された洋子が嫌な顔になる。大悟はむしろ洋子に同情し始める。ナチュラルに煽られているようなものだ。
「つまり、私に『低』あるいは『女』、九ヶ谷君に『高』あるいは『男』というラベルを貼ることで2つを区別できる。片方が決まれば片方は自動的に決まる、これが重要で……」
春香はノートに二つの数字を書いた。最も簡単な二つの数字だ。
0 1
「二択は、0と1という表現に置き換えることが出来る。これが2進数の一単位。ビット」
いきなり数学の話になった。いや、元々数学の話なのだろうが、大悟たちにとってはやっと身近な『言葉』の話だったのに、それがいきなり無機質な数字に変わったのだ。
コンピュータでは全てが0と1で表現されるということくらいは大悟も知っているので、おそらくその話なのだろうと、無理やり見当をつける。イメージ出来たではなく、見当をつけたというのが厳しいところだ。
「イエスとノー、有と無、スイッチのオンとオフ、自然と不自然。最も基本的な区別は2つの間に存在するもの。つまりビットというのは”区別の最小単位”。その区別の最小単位が、情報の最小単位になる。それを物質的なものに記録すると……」
春香はスカートから財布を取り出して、そこから銀色に輝く1枚の硬貨を取り出した。アルミのそれは表に木の模様、裏に「1」の数字が書いてある。
「こうやって1枚のコインで、表か裏の1ビットが表現できる」
『ビットはコイン』ということらしい。
「今の背が『低い』『高い』みたいに2つの状態を区別するためにはコインが1枚、つまり1ビットが必要になる。2ビットだと4つ、3ビットだと8つを区別できる。つまり、状態の区別が情報というのはビットの乗数が単位ということ。それを示したのがこの方程式。状態の数と情報の関係を締めているの」
春香の指が、一円玉を最初の方程式の隣においた。
「ボルツマンが気体分子のエントロピーを表現するために考え出したこの公式が、シャノンにより情報の基本単位であることを証明され、ノイマンがその二つが本質的に一緒であることを指摘した――」
「ストップ、ストップ。一気に飛び過ぎだよ」
大悟は両手を振った。ちょっと油断してるとボルツマンさんの再登場だ。しかも二人も仲間を連れて。
大悟はちらっと横を見る。明らかに困惑している女子の顔。これは一般的な高校二年生が知っていてはいけない内容だ。文部科学省に禁止されているのだ。
「二つのことを区別するまではいいよ。でも、次は3にしてほしい。例えばここには三人いるよね」
大悟は言った。初等教育に置いて順序は大事だ。2の次は3だ。数式化ではない。そして、その3人はおそらく科学の歴史に名を残している3人ではなく、高校生3人であるべきなのだ。
「例えば、例えばだよ。近藤さんの言った『優秀』と『平凡』でラベル分けするとするよね……」
一人が平凡とはかけ離れていることは目をつぶろう、大悟はそう考えて自分のノートに0と1を書き。その下に名前を書いた。
2018/04/06:
『複雑系彼女のゲーム』第二部『コイン』の投稿を開始します。
よろしくおねがいします。
次の投稿は月曜日の予定です。




