12話:中編 虚構の原子
「結論から言えば、原子の重さの約98パーセントはこの【強い力】のエネルギーの重さなの」
春香の言葉に大悟は首をかしげた。ここまで何とかついてきていたのに、いきなり論理が飛躍した。
テーブルのカップを見る。仮にカップの重さが100グラムだとする、今の説明ならそのうち98グラムが原子力エネルギーの重さということになる。
そもそも、物というのは実体を持つものだ。対して、エネルギーはそういう実体を持たないものである。実体を持つということの感覚的な証拠が、重さがあるということではないか。
「ゴメンなさい。イメージできない」
大悟がカップを持ち上げて困惑した。今の話しなら、この重さのほとんどに実体がないことになる。
「どう説明すればいいんだろう…………」
春香は細い顎に人差し指を当てて考える。
「えっと、エネルギーに重さがあるっていうのがまず……」
「じゃあまず、【強い力】のエネルギーに実際重さがある証拠ね。そうね、原子力発電のことを考えてみて」
春香は天井から下る百合を模した電灯を指差した。
「発電というのは、ある形式のエネルギーを電気のエネルギーに変えることよね。原子力発電の場合、これまで説明していた原子核の中にある『強い力』のエネルギーを電磁力、電気に変える。具体的にその過程を書くと……」
春香は紙にペンを走らせた。
中性子がぶつかることでウラン原子核が割れると、核中にあった強い力が解放される。これが核分裂。解放されたエネルギーが周りの水分子にぶつかってその動きを加速する。これが水の沸騰。沸騰した水がタービンにぶつかることで回転運動を生み出し、電気が作られる。これが発電だ。
「核の中のエネルギーを取り出して、僕達が使ってる電気のエネルギーにするってことだね」
大悟も天井から下るライトを見ていった。
「原子核の重さの98パーセントは【強い力】のエネルギーである。そのエネルギーの一部が核分裂によって原子から外に出て行った。じゃあどうなる?」
「その分だけ、原子核の重さが減る??」
半信半疑で大悟は答えた。論理的にはそうなる。
「正解。ウランに中性子が1つ飛び込むことで分裂して、ヨウ素とイットリウムと中性子2つになる。これが代表的な核分裂反応だけど、反応後のヨウ素とイットリウムそして、飛び散った二つの中性子の重さを合せても、反応前のウランの原子核よりも重さが減っているの」
「どれくらい」
大悟は尋ねた。よくもまあ、イットリウムなんて元素がぽんと出てくるなとは思うが、まだ半信半疑だ。カップが割れたら、破片を全て拾い集めても重さが割れる前よりも減っているという話なのだ。
「約0.7パーセント」
「たったそれだけ?」
大悟は拍子抜けした。それでは誤差ではないか。夏美なら誤差だと言い張るに違いない。いやこの場合は減っているのだから努力の結果と主張するか。
「じゃあ、陽子とか中性子が消えてエネルギーになるわけ?」
大悟は思わず聞き返した。テレビで見たことのある巨大なコンクリートの箱、その中でそんな魔法のようなことが起こっているというのか。
「二つ問題があるわね」
春香は指を二本立てた。
「一つ目は0.7パーセントが誤差だと思っている事。このカップが100グラムとしましょう。これを落として割った時、0.7パーセント。つまり、0.7グラムの質量分のエネルギーが解放されたとするわね」
「う、うん」
喫茶店的にはあまり嬉しくない例えだ。ちなみに店のカップは全て母のこだわりで選ばれていて、かなり高価な物だ。もっとも、割れることは当然あるので、限度があるが。
「第二次大戦で広島に落とされた原爆と同等のエネルギーになるわ」
「はっ?」
カップを落としたら、この街が吹き飛ぶことになる。カップが高価とかそういう問題ではなかった。課題で計算させられた一グラムの質量分のエネルギー、90兆ジュールがまさかそんなとんでもない値だったとは。
「もう一度聞くけど、陽子とか中性子がジュッと解けてエネルギーになるじゃないんだよね」
「もちろん、そんな劇的な変化じゃない。さっきの核分裂反応、分裂前は陽子92個中性子144個。分裂後もこの数は変わらない。減ったのはあくまで出ていったエネルギー分の重さ。破片を全て拾い集めたら、形はもとに戻るでしょうね」
「…………つまり、物質は減っていないってことじゃないのか?」
減ったのはあくまで原子核にまとわりついている、強い力という馴染みのないエネルギーだ。
「だから、それが根本的な間違いなの。それが二つ目」
大悟が言うと春香は大悟に人差し指を突きつけた。
「原子核をまとめている強い力は、実は核子の中でそれを構成する3つのクォークを結び付けている力なの。言ってみれば、陽子と中性子を作っている力が外に漏れて、核子同士をくっつけるのに使われているって感じね」
春香は原子核の模式図の円の一つを辺で拡大する。円の中に3つの点が打たれ、その間が波線で繋がれる。点一つがクォーク、波線が強い力のエネルギーを表すらしい。
「陽子あるいは中性子の重さが『100』としたら、3つのクォークの重さは合計『2』しかないの。残りの『98』が【強い力】の重さということね」
春香は言った。
「それじゃ、ほとんど原子力じゃん」
比率がおかしい。さっきまで大悟は【強い力】というのは原子核にまとわりついていると思っていた。だが、今の話なら原子の本体は原子力というエネルギーそのものになる。
「カップが100グラムとしたら、98グラムは強い力の重さってこと。そうね、……約一京ジュール、原子爆弾百個分以上」
街どころか日本が消滅してしまう。大悟は思わず手に取ったカップを両手で包み込むようにして支えた。
「原子の重さの98パーセントは【強い力】の重さって意味、解ってもらえたかしら。元々エネルギーの重さなんだから、エネルギーが加わったら重くなるのは当然でしょ」
春香は大悟の戸惑いを楽しむように言った。この手の中に日本を更地に出来るだけのエネルギーがある。だが、それ以上に問題なことがある。エネルギーが多いとか少ないとかそういう問題じゃない。それでは……
「待って、待って、待ってくれ」
大悟は思わず言った。それは、今問題になっていること、運動すると重さが増える程度の話ではない。それは大悟の持つ存在の定義を根本から覆す事になる。
「それって、物質はそもそもエネルギーそのもので、実体はないって話じゃないか」
物質が大量のエネルギーを持っているというのはまだいい。大悟の最初のイメージの通り、物質がじゅっと蒸発して大量のエネルギーに”変わる”ならいいのだ。でも、今の話ではそもそも物質はエネルギーそのもの、少なくとも98パーセントは、ということになる。
「最初からそういう話だって言ったじゃない」
「いや、でも、それって…………」
大悟はカップを見た。このカップが一つ1000円としたら、材料費が20円で、残りは芸術的価値ですと言われたようなものだ。だが、例えばブランドの価値は人間の心が勝手に作り出した幻想だ。それが実体そのものだったりはしない。
一方、今の話は完全に逃げようのない物理的な話だ。
2017/12/02:
来週の投稿は火曜日、金曜日の予定です。




