9話:中編 プレイヤーとは?
コーヒーカップが片付いた厨房で、三人は仕事を再開していた。夏美に包丁を取り上げられた春香は洗い物だ。黙々と手を動かす彼女の目がボウルを捉えた。
先日大悟と話したアトラクターのことが思い浮かんだ。環境の中で相互作用するプレイヤーの協力と競争が、環境それ自体を変化させる。その繰り返しが、より複雑なプレイヤーの階層を積み上げていく。
まるで重力に逆らって作られる伽藍のような、世界の基本であるエントロピーの増大に逆らう、そういう力が存在すると認めたとする。
そして、その力が発揮されるためには、対等で独立しているプレイヤーが必要。
対等はいい、複雑系の階層数が同じなら対等と定義できる。問題は独立だ。プレイヤー自身がネットワークであり複雑に相互作用する。それは必然的に境界があいまいだということを意味する。個であるのに明確な境界がないのは矛盾だ。
しかも、高次プレイヤーは素粒子と違って同じではない。分子を形作る原子の中に存在する電子は、基本的にすべて同じものだ。ところが、春香と大悟は同じ人間という個の階層に在り、対等、少なくとも彼女はそうありたいと思っている、にもかかわらず大きく違う存在だ。
コンピュータゲームという規格化され単純化された世界の中でのプレイヤーとしてのふるまいですら。
(私たちの考え方は全然違うもの。私はちゃんと最初から方針を決めたいけど、九ヶ谷君は行き当たりばったりというか、全然厳密じゃないんだから)
論理的な思考を好む彼女にとって、そういう相手はストレスだったはずだ。いや、最初はそうだったのだ。彼とラボで初めて会った時、自分は彼に向かって何と言ったか……。
(じゃない。問題を混ぜちゃダメ。今はプレイヤーの定義の話。そうね、考え方は違うけど言葉が通じる……とかはどう?)
先ほど彼の母親から聞いた話を思い出した。電子同士が電磁気力をやり取りするように、人間という個は言葉をやり取りする。通信のフォーマットが同じという定義はありうる。
だが、その通信が単なるプラスマイナスではないことを彼女はこれまで思い知らされている。競争と協力を仮にマイナスとプラスと考えたら、
1-1=0 あるいは1+1=2
と定義することはできない。
実体験だ。正反対の考え方である彼とのゲームで、知識だけだった創発、共進化という概念についてずいぶん理解が進んだ気がするのだ。
1-1=0にならず。また、1+1は2を超える。何かプラスアルファがある。
(……対等だからこそ、独立してるからこそ、違うからこそ何かが見えるとしたら……)
何かにふれた気がする。だが、答えは出ない。近づいているというよりも、その周りをまわっているようなもどかしさ。それは、彼女の流儀ではない考え方だ。それが誰の流儀かを彼女は気が付かされる。
競争と協力、それが交差する自分たちの関係は、今考えている問題そのもののようだ。だからこそ、彼女にはどうしても気に掛かることがある。
(九ヶ谷君にとってはどうなんだろう……私のこと)
自分が一方的に影響を受けているのは耐えがたい。彼にとって自分が意味のない存在だとしたら、それはとても……。
彼女以上に、彼にとっては流儀に反する相手だったはずだ。
彼女は半ば強引に彼の頭に彼が本来関心を持たないはずの知識を詰め込んだ。最初はそこに意地悪な気持ちがあったと思う。感情や感覚に大きく左右される、普通の人であるはずの彼にとって、世界に「あなたが考えてるような意味なんてない」と教えたら。
この世界が残酷なまでに情報処理という世界観をぶつける。それは、彼女の秘密に踏み込んできたことへの攻撃、あるいは防衛。
(予想通り受け入れられなかったけど……。でも、無視でも拒絶でもない、ちゃんと私の言ったこと考えてくれた上での、なんだよね)
それどころか、ことあるごとにお礼を言ってくれた。そして、彼女が困難に陥る度に手を差し伸べてくれた。そのたびに、上を行かれ子供のように反発し、拒絶したのは自分の方……。
(ああもう、本当に答えあるんでしょうねこの質問)
ぐちゃぐちゃになった頭の中でそう叫んだ時だった。
「出来たわ」
晴恵の声に思考を切られた。どうやらクリスマス用の新作メニューが完成したらしい。
コン、コン
ドアをノックする音で、大悟の視界は二次元から三次元に引き戻された。
「手伝いなら後で洗い物くらいはするから、まとめといてって母さんにいっといて」
ゲームから強制的に現実に引き戻された彼はドアにむかって言った。だが「はいはい」という予想した答えが戻ってこない。大悟は仕方なく立ち上がる。
ドアを開けると、困った顔の同級生女子が立っていた。どうやらお盆で両手がふさがっていたらしい。
「え、あ、ああ春日さんだったのか。てっきり夏美だと。そっか、今日も手伝いに来てくれてたんだ」
大悟は慌ててお盆を受け取った。
「九ヶ谷君じゃなくてお店のね」
春香が少しむくれたような顔で言た。よく見ると、トレイにはカップと皿が二つ。皿の方には、彼が見たことのない小さなケーキがある。
「放蕩息子でも味見くらい協力しろって。残念ながら洗い物は私が終わらせました」
「面目ない、といっても試食なら……」
「ちなみに、小笠原さんもそのうち来ると思うわよ」
「綾が呼ばれたということは、ほぼこれで完成ってわけか」
大悟は皿の上の四角いケーキを見た。黒とオレンジの層が積み重なった、正方形のミルフィーユのような洋菓子。派手さはないがおいしそうだ。
テーブルの上に広げていた本とノートを横にずらし、大悟は春香と向かい合ってフォークをとった。
「オレンジチョコケーキか、また意外なところを……」
「あっ、おいしい」
二人が同時に感想を口にした。
「あれっ、春日さんもまだ食べてなかったの」
「ずっと悩んでらしたから。ただ、決まってからは完成まですぐだわ。どこかの息子さんみたいにね」
意味ありげに大悟を見る春香。そして、フォークを置いた。そして、テレビに映ったままのゲームを見て、ケーキの甘さにゆるんでいた表情を引き締めた。
「えっと、あの質問のことだけど……ちょっと考えてみたの」
「質問? ああ、もしかしてプレイヤーの定義のこと?」
「そう。聞いてもらっていい?」
大悟は春香から、彼女が考えたというプレイヤーの定義、その要件を聞かされた。
「要するに対等と独立とそして後は違い、この三つが必要な条件なのに、それを全部組み込むとプレイヤー、ええっと個の定義にならない」
「そうなの。すべてを満たす答えが見つからないっていうか……」
春香は小さく首を傾げ、困ったような顔を見せる。悩みの内容はともかく、普通の女の子っぽいその仕草に大悟は少しドキドキした。といっても、彼に言えることは、
「春日さんにわからないことが僕に解るわけないけど」
「……ふうん。つまり、今はまだわからないけど、私が油断したところで突然答えを出すってことね」
「……かなり深刻な誤解がある気がするけど」
悩める女の子から、冷たい目の女子に一瞬で変わった春香に、大悟は焦る。
「……まあいいわ。九ヶ谷君の方はどう? お邪魔してしまったみたいだけど」
春香は大悟がしていたゲームを見た。テレビ画面に映っているのは、例の古典的名作RPG。そして、テーブルの上には二冊の攻略本。そして、一冊のノートが広げられている。
それぞれの攻略本には異なるフローチャート。ノートにも手書きのそれが消しゴム跡も露わに書かれていた。
2019年5月26日:
来週の投稿は日曜日です。




