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複雑系彼女のゲーム  作者: のらふくろう
第四部『プレイヤー』

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9話:前編 プレイヤーの定義

 お菓子屋兼喫茶店、パティスリー・ド・ラタン。カウンターの奥からつながる清潔な厨房は、焼いた砂糖の匂いに満たされていた。


 甘さの中にチョコレートの濃厚な香りとオレンジの酸味が合わさったそれは、近づく恋人たちの祭典にふさわしく官能的だ。


 鼻孔に届く香りの中、春香は手に持った包丁を規則正しく動かしていた。彼女のエプロンの前のトレイにはオレンジの皮が規則正しく並んでいる。


 だが、彼女の意識は半ば手元から離れていた。


プレイヤーの定義なんて、いきなりそんなこと言われても……)


 頭をめぐるのは昨夜から離れない疑問。彼の質問だ。



 創発。つまり、素粒子から人間までより複雑な事象の出現を意味する概念。彼女にとってそれはいわば幻想だった。この世界に存在するといえるのは、エネルギーが空間を固有の形で揺らす、つまり限られた種類の素粒子、それがすべてである。


 素粒子の組み合わせで生じる原子、そしてその化学反応で生じる分子。その化学反応が組織する生命。それらは結局、素粒子を支配するルールによって決まっている。


 つまり、物理学がすべてなのだ。現代科学がそれを化学、生物学、あるいは社会学や経済学と分けようと、それはあくまで人間の知能の制約、情報処理能力の限界から生じる方便だ。


 それこそ人工知能が発達すれば、おおよそ科学と呼ばれるものはすべて統一される。そう考えていた。


 必然的に、世界に意味などない。もしもあるなら、その統一された理論の数学的美しさだ。さららの理論はその最もエレガントな存在。それが彼女の理解だった。


 それを揺るがしたのが隣の席の男子生徒。


 彼女の家に乗り込んできた男子生徒は、情報処理を超える意味があるという彼の主張を、彼女に突き付けたのだ。彼が言い出した階層数だ。それは、世界の複雑さが上がるごとに、何かが生じる、少なくともその小さな兆候を示していた。


 ちなみに、観測限界をはるかに下回るはずの階層数の存在をしめす兆候、つまり空間の横軸の振動、を出現せしめたのは、おそらくだが彼の父親である。


 父子そろって彼女の世界観を揺さぶっているのだ。ずっと年上であり、彼女としても天才と認めるしかない父親の方はともかくとして、息子の方は同い年である。


 その事実に何度心を揺らされたか。家に乗り込み、彼女の母に直談判に来た時など、思わず……。


(でも、まだ負けてない)


 それはあくまで点と線の組み合わせ、ネットワークの挙動だ。ならば数学で統一的に記述できる可能性はある。


(フラクタルの積分不可能性が障害だけど、それさえ解決すれば……)


 それぞれの階層ごとに定義されたノード、彼に合わせて用語を選択すればプレイヤー、そしてそのプレイヤー間の関係を表すエッジ。コンピュータ回路を流れる数式のように情報処理として解釈できることを意味する。

つまり、原子も人間も点と定義してしまう。後は繰り込みの問題だ。ゲーム項の数学的基盤である繰り込み群はそういう意味なのだ。それで万事解決だ。


 彼女としてはそこまで立て直したところだったのだ。それ自体が、かつて否定していた複雑系の考え方を取り入れており、しかもそれをちゃんと理解したのは、彼とのここ最近のゲームの結果というのはともかくとしてだが。


 ところがである。彼はまるで彼女の弱点を突くように、「プレイヤーとは何か?」と言い出したのだ。ネットワークの基本要素、わざわざ彼女がただの点と還元したものに狙いを定めてきたのだ。


(当たり前みたいに、私の意識の外にあるものを持ってくるんだもん)


 ルール違反だと彼女な内心毒づいて見せた。もちろん、今回彼に付き合うと決めた以上、ある程度の覚悟はあった。いや、実を言うと彼が次は何を言い出すのか、そう期待していた部分はあるのだけど。


 だからといって、今度こそ負けないという意地を捨てているわけではない。


(これまでは最後の最後に、いきなりひっくり返されたけど、今回は彼だって答えは持ってないんだから)


 例えば……プレイヤー同士の関係を決めるのは、そのプレイヤーの内包するネットワークだとしたらどうだ。でもそうしたら、その内包されたネットワーク内のプレイヤー間の関係は……。だとしたら高次のネットワークのエッジは本当にただの線といえるのか……。


 いつもは頭の中に収めて置ける論理的思考の流れが、思わずあふれ出るような感覚。春香の指が空に何かを描こうとした時、


「ちょ、春香さん危ない」

「えっ」


 突然の警告。換気扇の音が耳に届く。春香の視界が手元にもどった。


 彼女は自分の指がオレンジを剥いていた包丁にふれていることに気が付いた。あわてて指を離した。包丁の向こうに、こちらを心配そうに見る彼の妹がいる。


「珍しいですね。春香さんがミスりそうになるなんて。私よりもずっと上手なのに。……心ここに在らずだったし。何か別のことを考えてたとか?」


 夏美が言った。春香はつい天井を見てしまう。それは、彼女の兄の部屋の方だった。


「もしかして、クリスマスの予定とかですか?」


 その言葉に春香が焦ったとき。


「クリス……マス」


 厨房のメインコクピットからうめくような声が聞こえた。自分のレシピを書いたノートを前に、額に手を当てていた店の女主人が顔を上げたのだ。




 忙しく動く換気扇が甘い香りを排出し、少しだけ落ち着いた厨房の空気。その中をかすかなコーヒーの香りが漂っていた。


「……それにしても、春香ちゃんはどうして大悟と親しくしてくれるのかしら」

「それ、今世紀最大の謎ですよ」


 厨房でのコーヒーブレイク。春香は母娘の視線を受け焦る。ちなみに娘の方に至っては数学の難問、それもミレニアム問題クラスの、を扱うようだ。


 実を言えば、それは彼が彼女に提起しているもう一つの難問なのだ。しかも、度し難いことに、最初の難問とリンクしているようなのだ。なぜなら、どちらも彼女が以前は否定していたことだからだ。彼女にとっても出ていない答え、言葉を探す……。


「……そうですね。えっと……私とは違う考え方で、それが刺激的……なのかな。でも、優しいし。頼りになるというか……」


 反射的に浮かんだ言葉を並べてから、春香は反応をうかがうように二人を見た。そこには唖然とした夏美の顔があった。


「お母さんどうしよ。お兄ちゃんのせいで春香さんがおかしくなっちゃった……」


 さっきの包丁の時以上に心配そうな顔で自分を見る年下の少女。春香は自分の言葉が普通どう聞こえるかを遅ればせながらシミュレーションした。瞬間頬が紅潮した。


「優し……優柔不断なのはともかくとして、頼りにならないし。大体この忙しい時期に部屋でゲームばっかりしてるし。頼りない」

「……えっと、そういう意味とはちょっと違って。……そう私の話しをちゃんと理解しようとしてくれるっていうか。それだけじゃなくて、ちゃんと真剣に考えてくれるっていうか、そういうところ……なの。えっと、つまりね……」


 春香の弁明に、夏美は首を傾げる。


「……まあ、考えようによっては分からないこともないわね。考えようによってはだけど」


 彼の母親はそういった。春香にとっては、さららとは全く違うタイプだが、自立した女性として少なからず尊敬の念を抱いている。今の自分でも理解しきれていない言葉から、この女性は何を読み取ったのか。


 彼女の瞳は春香の作業、ラップを掛けられたオレンジの皮が並ぶトレイに向いていた。


「理解しようとしてくれる、じゃなくて理解できる、かもしれないけど」


 続いた言葉に、春香ははっとした。


「ええっ、お母さんまで!!」

「どうしてそう……」

「んっ? 大したことじゃないわ。春香ちゃんみたいに本当に頭がいい子にとって、話が通じるだけでも特別なことなんだろうなって。そういう想像ができるだけかな」


 いたずらっぽい表情を浮かべると立ち上がり、冷蔵庫に向かう。取り出されたのは中央が盛り上がった褐色のクリームに覆われ、上に振りかけられた白い粉砂糖が美しい、モンブランだった。


「さて、このケーキ厚さ4センチ分だけ食べていいっていわれたら、どこにナイフを入れる?」


 晴恵はいたずらっぽい表情、まるで彼女の娘のような、を浮かべていった。


「そりゃ、真ん中だよ。そこが一番高いんだから」


 夏美が言った。晴恵は「そうね」と頷いて。器用に中央を切り分けた。


「さて、夏美が食べれるのはケーキ全体のどれくらい?」


 その言葉に、春香ははっとしたようにモンブランの形を見た。山型というよりは、鐘のようなその形は……。


「正規分布。ということは1シグマ……全体の約80パーセントです」

「じゃあ、ここで切ったら?。同じ前後2センチの範囲だとしても、だいぶ狭いわよね?」


 ほとんどケーキの端を削るようにナイフが降ろされた。


「そんなの、ほとんど粉砂糖しかないよ」

「…………2.4パーセントくらいです」


 春香は正規分布の統計的性質に基づいて答えた。中央を100としたら、そこから前後20、つまり80-120の間に全体のほとんどが収まる。一方、同じ前後20でも140から、つまり120-160はごくわずか。


「そういうことみたいね。じゃあこのケーキを人間の社会としてみましょうか。真ん中が普通の人。俗にIQが20以上違うと話が合わないっていわれるわよね。つまり、普通の人は100人いたらほとんどの人と話が通じる。でも、こっちの人にとっては同じように話が通じるのはたった2,3人ってことね」


 穏やかな声だった。彼女らしくない説明が春香に気が付かせた。


「もしかして……九ヶ谷君のお父さんの」

「やっぱりわかる物なのね。そう、秀人さんから聞いたお話。大学生の時だけどね。聞いた時はなんて傲慢なって思ったわ。今でもそう思ってる。でも、ある意味では当たってるんだろうなって。いい悪いじゃなくて、偉いとか偉くないとかじゃなくてね。こっちの人にとって世の中っていうのはずいぶんと寂しくできてるのかもって」


 むしろ同情するような瞳だった。


「だから、そういう人は、人とは違う世界を求めるのかも。あるいは作ろうとするのかな」

「それがゲーム」


 思わずそう言った春香。彼女の頭の中には二つのゲームをやっている、二人の人間が浮かんでいた。


「お母さんの言ってることわからない、っていうか、お兄ちゃんのあれは単なる中二病とか、オタクとか言うんだよ」


 夏美が口を尖らせた。


「私もあんまりよくわかってないから大丈夫」


 晴恵は娘に向かってほほ笑んだ。そして、春香に向き直った。


「ただ、そうやって同じ視点を持てることを、そのまま頼りになると思うのは、ちょっとだけ気を付けた方がいいかもね。ある日突然どこかに行っちゃうかもしれないから」

「それって――」

「ふふっ。さあ、作業にもどりましょう。気晴らししたおかげで新しいアイデアが浮かんできたわ」


 晴恵はパンパンと手を打った。


2019年5月19日:

来週の投稿は日曜日です。

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