5話 履修届
二車線道路を車のライトが行きかっている。道の脇の草むらは枯れている。以前、数学の無謬性について話した時には青々としていたことを思い出す。
背後から振動が伝わって来た。大きなトラックが近づいてくる。大悟は春香を歩道側にかばった。
高い位置からのライトが二人を照らしながら通過していく。その時、彼は気が付いた。
「春日さん。右肩のところ何か汚れてる」
「えっ!? ……ああ、あの時だわ。割烹着に着替える前に、失敗して粉をこぼしちゃったから」
春香は恥ずかしそうに言った。ちなみに割烹着じゃなくてキッチンコートだ。それはともかく、ちょっと見たかったなと大悟は思った。春香は大悟に背中を見せた。
「……払ってもらっていい」
「あ、うん。も、もちろん」
なるべく春香の肩に触れないように小麦粉を掃う。はずみで髪の毛に手が触れてしまい、大悟は焦る。だが、春香は「ありがとう」と言った。
「ええっと、そういえばどうして春日さんは母さんの手伝いを?」
「……勝手にお家に行ったこと、怒ってる?」
「いや、そんなことはせっかく声かけてくれたのに、僕の方もだったし。ただ、どうしてかなって」
春香は黙って歩行を再開した。そして、口を開く。
「最初は九ヶ谷君のお母さんに聞きたいことがあって。それで家にお邪魔したの」
「母さんに聞きたいこと?」
「そう。九ヶ谷君のお父さんのこと、になるかな……」
春香は言いにくそうに言った。確かにゲーム項の考案者であり、今回の事件の主犯である。春香が興味を持たない方がおかしい。
「その、お母さんにとってどういう人だったのかな、っとか」
「?」
だが続いたのは、意外な言葉だった。
確かに、彼にとっても大いなる疑問だ。お菓子作り一筋の母が、どうしてあんな変わり者の父と結婚したのか理解に苦しむ。怖くて聞いたことがないけど。
「それから、話の流れというか、それでお仕事のこと、見せてもらうことになって」
「いや、話とんでない。 母さんはなんて?」
ただもちろん息子としては興味があるのだ。
「えっとね、秘密だから」
春香は自分の唇に指をあてた。彼女には珍しい仕草。母がよくやるやつだ。
「とにかく、その流れで調理場にお邪魔することになったの」
「そういえば、大場教授が科学者と料理のこと、言ってたかな……」
見た目に似合わず、お菓子作りが得意な大学教授のことを思い出した。確か実験家は料理が得意で、理論家は両極端という話だったか。
「……確かに実験のプロトコルとお菓子のレシピは似ているわ」
「その観点で言うと、春日さんは?」
「……決められた量の材料を、決められた手順で合わせて、決められた温度で処理する。そういう意味で言えば、苦手ではないと思う。学校の調理実習でも、失敗はしたことがないわ。先生には、予想通りの味っていわれたことがある」
「な、なるほど」
要するに計算通りなのだ。ちなみに、大場の予想ではさららは突拍子もないものを作る、だった。
「だから、なんていうか九ヶ谷君のお母さんのお仕事を見るのは、刺激的だった」
「刺激的? ああ、確か今の時期は、クリスマス用の新作に頭を悩ませてるか」
息子にとってはあまり“刺激”してはいけない時期だ。
「お菓子のレシピって厳密だけど、それで作り出されるのって、味とか見た目っていう主観的な要素だから。それを考えることのむつかしさ。それに……お客様の予想を超えないといけないって。チョコレートとミルクのクッキーみたいに」
春香は手に提げていた小さな紙袋を持ちあげて見せる。チェック模様の一般的なチョコレートクッキーと思わせて、異なる食感を組み合わせた母の傑作だ。
「おかげで看板商品だからなあ」
「つまり、計画的に物を作るためには、その前におおよそ計画できないステップがあるってこと。それを実感できたのはとても新鮮な体験だったってこと。もっとも……」
春香は、彼を覗き込むように見上げた。
「息子の方に計算機扱いされてる身としては、ちょっと思うところがあったけど」
そう言って大悟をにらむも、表情は明るい。
科学そのものじゃなくて、お菓子という別分野だからだろうか。となると、どうして春香が母にそういうところを見抜かれたのか、つまりどんな話をしたのかますます気になるところではある。
「九ヶ谷君の方は進展は?」
「……ゲームしてました。進んでません」
春香が話題を変えた。大悟は面目なさげに答えた。
「九ヶ谷君のそれ、信用できない。具体的には?」
「信用って。まあ、ゲームを見ながらいろいろ考えたことはあるけど……」
ゲームショップ、ゲームセンター、そして自室。大悟は今日考えたことを話す。
「なんと言っていいか、まだよくわからないんだけど……。世界のすべてがゲームだとしたらって春日さんの考え。そこに僕の感じてる違和感は何なのかなって。それが少しだけ見えてきた気はする。世界としてのゲームの歴史っていうか。ゲームの中でのプレイヤーの進歩というか……。後は、そのゴールというか……。えっと、ごめんあんまりちゃんと言えないな。なんていうか……」
大悟は混乱する。春香は隣で黙って聞いてくれる。春香に伝えようと彼は必死に頭を回す。
「つまり……、ゲームっていう世界の区別、ゴール。そのゲームっていう世界同士の関係。そして、ゲームの中でのプレイヤーとプレイヤーの関係、みたいな」
「九ヶ谷君らしくない抽象的な表現ね」
「自覚はしてるんだけどね」
綾に春香に毒されてると言われる始末だ。
「ただ、春日さんたちの言う創発って言葉……やっぱり、それとつながってると思う。だけど、僕はその創発の定義っていうか、厳密なっていうか、わからないから」
ここまで言ってやっと大悟は気が付いた。彼に必要なのは、彼の空白を彼とは反対側から見てくれる存在。
「だから、春日さんに教えてほしいんだ。春日さんにとっての、創発を」
大悟は春香にそうお願いしていた。
向かいから振動が伝わってきた。乗用車のライトが春香を照らす。彼女が目を見張るのがわかった。
「ふふっ」
夜のアスファルトの上を、まるでスキップするようなリズムで少女が進む。
「ちょっと、春日さん危ない」
枯れた土手に片足を踏み外しそうになった春香。大悟は慌てて注意した。
「春日さん」
「仕方ないでしょ。九ヶ谷君に教えを請われるのって気分がいいの」
「……今までいやっていうほど教えてもらったけど」
「でも、九ヶ谷君の方から本当に教えてもらいたいって言われたのは初めてでしょ」
春香はとてもうれしそうに言った。
「といっても、これは難問なのよね」
その笑顔がすぐに考え込むものになった。
「私自身、これまで創発のことあんまり重要だと思ってなかったから。九ヶ谷君の言ってることから考えて、学習と進化の物理的定義なんだけど、どうすればうまく説明できるかな」
学習という縁起でもない言葉を使う春香。だが、そんな彼女はやはり楽しそうだった。
「それで。九ヶ谷君が私に……」
ベッドの上で、春香は耳に当てたスマホに話しかけていた。シーツの上を足の影が上下に揺れている。
「えっと春香。その、春香がそんな風に話してくれるのはうれしいんだけどさ。そろそろ本題に入った方がよくない。ほら、もう三十分以上……。あんまりのろけられるのもお腹いっぱいっていうか」
「えっ、のろけてなんてない!? そ、それに、本題にはもう入ってるから」
「…………要するに九ヶ谷にその、進化っていうのを説明するための方法でしょ。それも、ゲームに関係した形で、ってことかな」
「そ、そう。そうなの。こういうことは洋子が詳しいと思って」
「うーん、今の話を聞いたら当てはあるけど。……じゃなくて、兄貴と弟に聞いてみるから」
二人は翌日の約束をして、電話を切った。
2019年3月31日:
来週の投稿は日曜日です。
前作「予言の経済学」の方でも、後日談の投稿をしています。




