22話:前半 計算結果
ホームルームが終わった。教師の背中が廊下に消えるや、大悟は眠たい目をこすった。彼にのしかかるのはここ二日の睡眠負債だ。
昨日のプレゼンのため二日前はほぼ寝ていない。しかも、春香の母の圧迫面接で目がさえたのか、昨夜も寝付くまで時間がかかった。
その上、本日の授業は厳しい教師が多く居眠りはリスクが大きかった。もう完全に限界、家に帰るのすらおっくうである。
机の横にかけたカバンに伸ばす手が鉛の様に重い。何とか引き上げた時、彼のつむじの前で制服のスカートが揺れた。
「ラボに急ぎましょう。九ヶ谷君」
革製の枕に落ち込みそうだった頭を何とか持ち上げる。
当たり前の様に彼を誘う春香がそこにいた。彼とは別の意味で放課後が待ちきれなかったという様子である。
周囲にざわめきが走った。いったん、正しい姿に戻ったはずの教室の秩序が台無しになっている。
前の席の斎藤君が裏切られたような表情になっているのが、しょぼしょぼの目に映った。今朝、眠そうな大悟に「失恋ショックか」と嬉しそうだったのに……。
「あの、春日さん。昨日のことでちょっと眠くて、今日は遠慮したいというか」
先日、大悟が一人ラボに向かう前「しつこい男はダメだよね」「だよねー。ほんと勘弁」と世間話をしていた前の前の女子二人がひきつった顔を見合わせている。
「昨日の夜は私のことを散々めちゃくちゃにしたくせに。大丈夫、向こうについてやることやったら、あとは寝てていいから。ほら、九ヶ谷君のすることなんて、どうせ大して時間かからないし」
飛び出した発言。周囲のざわめきのトーンが一段階上がった。
大悟も一気に覚醒した。いくら眠いからといって油断しすぎだったのだ。このモードの春香を放置するとは。
「ちょっと春香、その言い方だと――」
洋子が春香の口をふさがんばかりにたしなめた。
反対側の隣席の前田君が、大悟と春香を見て納得した顔になった。何を納得したのか、彼は考えたくない。
「お付き合いしますから、どうか口を閉じてください春日さん」
大悟は重い頭を持ち上げた。気を使って付いて来てくれるのであろう洋子と一緒に春香を挟むようにして教室を出た。
「春香。いくら家公認になったからって、ちょっとは気を付けないと」
廊下で洋子が改めて注意する。春香はきょとんとしてる。頭の中はこれから先のことでいっぱいなのだろう。
「……その家公認って、ラボの活動のことだよね」
大悟が念のため確認する。洋子は顔をそらした。
「今日からまたよろしくお願いします……」
「準備はできてるよ、ハル」
面目なさげな春香を、さららは当たり前のように迎える。そして、彼女の指定席を指さした。春香は小さく頭を下げ、席に向かいノートパソコンを立ち上げた。
「さあ、九ヶ谷君。いったいどんな計算をすればいいのかしら」
勝気な瞳が大悟を見た。
「昨日の帰り際はしおらしかったのに……」
大悟はぼやいた。月明かりに照らされた春香は、彼女の母親の脅迫を忘れるほど可憐だったのに。
春香はさっと顔をそらした。心なしか耳が赤い。
「……しおらしい私が望みなら例の議論で勝つことね。そういう条件でしょ」
「階層数が存在することが証明されたら、ある意味世界は情報だけじゃないってことにならない?」
大悟が言い返した。だが、春香の瞳の光は揺るがない。
「昨日ちょっとだけそう思ったのは否定しない。でも、考え直したの。軸が一つ増えても、その軸をつかさどる原理が数式で記述できさえすればいいのよ」
春香は早口で言った。昨日の夜のうちに理論武装を終えているらしい。今話している間も、きれいな指先がキーを打つ準備をしている。
「負けを認めるつもりはないんだね」
「もちろん。一番大事な勝負なんだから」
「危うくだまされるところだったわ」などといっている。
本格的にいつものS春香だ。彼が取り戻そうとしたのはこういう春香だったから仕方がない。
「わかった。といっても、僕の考えたことなんて昨日説明したのがすべてだよ。それだって、さららさんとルーシアさん。それに綾にも協力してもらってなんだから」
あの仮説はラボに春香をつり出した時点で役割を終えているとすら言えるのだ。それらしい宣伝文句でプロモーションを作った後は、ゲームメーカーとプレイヤーの仕事だ。
「本当かしら。とにかくいくつか聞いておかなくちゃいけないことがあるから」
春香は大悟にいくつか質問した。どうやら彼女の興味は大悟の階層数を引き上げる力らしい。だが、大悟に答えなどあるはずがない。正確に言えば彼は確かにそこに空白を見たのだが、それはいまだ空白である。
大悟のしどろもどろの答えを聞いた後、「確かにさららさんたちに聞いた方が早いわね」とやっと彼を解放した。
春香はさららとルーシアに質問を始めた。それが終わるとシミュレーションの準備にかかる。
「終わったら声をかけるわ」
春香は彼を放ってキーボード取りついた。どうやら、彼はやることをやり終えたらしい。
これなら家に帰って寝ても一緒だったのではないか。大悟の頭は重力に従って応接用のテーブルに落下した。
春香のキーボードのリズムを子守歌に、彼は眠りに落ちた。
いつの間にか、キーボードの打鍵音はキュ、キュッという音に変わっていた。ホワイトボードにペンが走る音だ。
大悟はテーブルの上から頭を上げた。低い視線のまま、周囲に目をやる。地下室にしては妙に明るい。いつの間に窓が作られたのだろうか。
どうやら寝ぼけていたらしいことに気が付くまで、少し時間がかかった。何か夢を見ていたような気がする。
それはそうと、いつの間に学校からもどってきたのだろうか。寝るなら寝るで、どうして自分の部屋にしなかったのか。
窓際にある机の棚にたくさんのノートが並んでいる。彼の学校の教科よりもずっと多い。
それは、もうここにはないはずの物ではなかったか……。
違和感をぬぐうように、目をごしごしとこすった。
その時初めて、彼はこの部屋に一人でないことに気が付いた。
彼の前に彼に背中を向ける細身の男がいた。男は同じ部屋にいる彼に見向きもせず、一心にホワイトボードに向かっている。
全てを思い出し、大悟は立ち上がった。
「ねえ、何をしてるの。お仕事まだ終わらないの」
彼は父親に尋ねた。珍しく早く帰ってきたのに、書斎に直行した父を追いかけてきたのだ。おそらく、父親の仕事が終わるのを待っている間に眠ってしまったのだ。
その仕事とはORZ……、難しくて彼にはわからない。
「ゲームを解いてるんだ。世界一面白いね」
「ゲーム?」
大悟はホワイトボードの暗号を見た。目がくらくらする。全くゲームに見えない。もし近いものを挙げると、彼が比較的得意な算数だろうか。
ただし、数字がほとんど使われていない、代わりに不思議な記号が山盛り。大人用の外国の算数だ。
だが、父がゲームというなら、ゲームなのだ。彼女がそう教えてくれたのだから……。
「ゲームなら一人で遊んでも面白くないよ」
だから大悟は食い下がる。ゲームなら得意なのだ。ルールさえ教えてくれれば一緒にできるかもしれない。
だが、彼の言葉に父は振り向きもしなかった。
「残念だけど、このゲームは一緒に遊べる相手がいないんだ」
そういうと父はホワイトボードとペンで自分のゲームを続ける。一人で、黙々と。
彼はその背中に手を伸ばそうとして……。
「…ヶ谷君、九ヶ谷君」
頭が揺れた。大悟ははっと顔を上げた。あわてて周囲を見回した。地下室のラボだ。油断すると、今でも怪しい秘密基地に見えたりする。
何しろ窓一つない。
夢を見ていたことに気が付いた。時間と空間を超えて戻ってきた気分だ。
「本当に寝ちゃうんだから。せっかく面白そうな結果が出てきてるのに」
春香は不満顔だ。さっきまで、大悟のことなど放ってシミュレーションに夢中だったに違いないのに。そう思ったとき、胸の奥がズキンと痛んだ。
「僕よりシミュレーションの方が大事でしょ」
「えっ! ……えと、それは…………。ど、どっちも……」
春香がうろたえ、きょろきょろと周囲を見る。
彼女の向こうに、さららとルーシアがいた。二人の表情はこれからのことに興味津々という感じだ。よく見ると、入り口近くに大場と柏木までいる。
そして、椅子に後ろ向きに腰掛け、彼をにらむ綾。
「そ、それで、面白い結果って」
大悟は慌てて話を戻した。
「今、一回目の結果が出たからこれから検討。九ヶ谷君も一緒じゃないと」
春香の瞳は勝気な光を帯びて、そしてしっかり彼を見ている。その言葉に少し救われた気分になった。
大悟は立ち上がった。仮眠のおかげか、頭ははっきりしていた。
視聴覚室で映画鑑賞会でもするように、全員が側面のスクリーンの前に並んだ。スクリーンの横には、ポリゴン猫までいる。
さて、これからどんなゲームを見せられるのか。
2019年1月31日:
次の投稿は日曜日の予定です。




