12話 湯舟
ちゃぷっ
持ち上げた右手を湯が流れた。鎖骨のくぼみにたまった湯と合わさる。あふれたそれは、水面からわずかに顔を出したふくらみを伝って湯舟にもどった。
肌を覆う暖かい感触が心地よい。さっきまで感じていた口惜しさが少しだけ和らぐ。
「私が一番最後なんて」
といっても、本来負けず嫌いの彼女のこと、自らの戦績に関する不満はこぼれる。それがくぐもった響きとして、本人の耳に跳ね返った。
いま彼女が使っている場所、つまりお風呂の順番を決めるゲームの勝負で、彼女は最下位だったのだ。
一位は彼女の友人である洋子。二位がゲームとこの部屋の所有者であるルーシア。ここら辺は仕方がないのかもしれない。その次が彼をからかうことによって勝利した綾。
結局、誰にも勝てなかった春香。
もちろん、こんなことにこだわるのは意味がないとわかっている。あの格闘ゲームというのは、幼いころ少しだけ習わされたピアノよりも難しい指の動きを必要とするのだ。次々と入れ替わる攻守、リアルタイムに要求される判断。
そんな即興演奏のような作業は彼女の苦手とするところ。そういう意味で言えば健闘した方だろう。
湯の中に戻した指先が、かろうじて覚えた『必殺技』の『コマンド』をなぞる。
「九ヶ谷君にも負けるし」
それでも彼女は自分より一つ上の順位の名前を口に出した。これもおかしい。情けないのは経験者なのに春香にしか勝てなかった彼だろう。
それでも順位は順位。つまり、彼女の前にバスルームを使ったのは彼だ。彼女は何となく両手で湯をすくい上げ、それをじっと見た。
手の中の液面は天井のLEDライトを映す。そのとらえどころのない光の動きに飲まれるように、彼女の両手が近づいていく。
ばしゃっ
春香は、あわてて両手を開いた。湯船が波立った。ばかばかしいにもほどがある。この湯がなんだというのか。大体、彼はくどいほどシャワーだけで済ましたといっていたではないか。実際、その入浴時間はびっくりするほど短かった。
「九ヶ谷君が悪い」
春香は責任を転嫁した。自分でもどうしてこんなに気になるのかわからない。ほんの少し前まで、男子生徒など基本的に煩わしいだけの存在だったはず。
隣の席のクラスメイトにくらいは挨拶をする、彼女の設定に合致しただけの存在だった。
きっかけは彼女にも分かっている。彼女にとって一番譲れないこと、つまり科学の問題で彼に負けた。それも二度続けて。
「だからってなんであんなことを……」
その二度目の敗北の直前、あの観覧車の中で彼に言った言葉を思い出すだけで、彼女の頬は上気する。
思わず顔を振ると、水滴が湯舟の中に波紋を作った。
「まだ最後の勝負はついていないわ。勝てば問題ない。それに今回の情報テレポーテーションは九ヶ谷君は全然理解してないみたいだし。……前回もそうだった気がするけど」
気になるのは彼と自分、どうして違うのかということだ。与えられた理論、与えられた数式を計算するだけでは、新しい理論は生み出せない。それは理解した。
でも、じゃあ何があるのか。彼はどこからその新しい考えを見つけてくるのだろう。まるで手品のように答えを取り出して見せるのに、ハンカチの中には何も入っていないようにしか見えない。
「いつも最初は私が教えてるのに。確かに時々ドキッとするくらい鋭いことを言うけど。時々だけどね」
そうしておいて、彼女の悩みをスルーするがごとく最後の答えだけをつかみ取るのだ。挙句にその検算をさせられるのが彼女。余りといえば余りの仕打ち。
「ああもう、こんなこと考えてる場合じゃないのに」
今回のこと、情報の行き先がわからないという問題に取り組もうとする。彼があまり理解していない問題を、彼だったらどう考えるのか。春香は自分の思考がとんでもない矛盾をはらむことに愕然とする。
彼は自分にないものを持っている。もし彼が、彼の考えこそが知の探究、科学なのだとしたら自分のやってきたことは?
彼女にとって科学は理解可能なことを理解すること。ノイズだらけの不安定な世界の中で、確固たるものとして理解できなければいけない。なのにまだ理解していないことを理解するためには、彼女の理解できない何かがある。
そんな問題の考え方を、彼女はしたことがなかった。だからこそ、今日はこんなことまでして参加したのだ。
つまり……。
「九ヶ谷君が悪い。そうだ、このお泊りが終わる前に、一度さっきの格闘ゲームでまかしてやるわ」
彼女は再びゲームにもどり作戦を考える。理論は分かっているのだ。じゃんけん。グーにはパー、パーにはチョキ、チョキにはグー。それを出せば勝てる。勝った後で相手から奪い取れるポイント、ライフだったか。それは例の指さばきで大きな差がつくが、最初に負けなければいいのだ。
勝つ方法は明白。だが、相手も全く同じことを考える。つまり二つのアルゴリズムは全く同じ構造をしている。それは、どちらが攻撃側で、どちらが防御側でも変わらない。しかもテーブルゲームと違って同時に入力がなされる。
「……外から見たら違って見えても、実は中のアルゴリズムは同じ。ただ状態がそのやり取りによって変わってるだけ」
彼女にとってそれは二つのマスしかない、セルオートマトンだ。そう考えた時、彼女の脳裏に何か光が走った気がした。
「違って見えても同じ。これって数学的に考えれば双対の一種?」
二つの異なる形、あるいは方程式が実は全く同じものを示している。天使の絵。ブラックホールの事象の地平面の両側。
「コマンドを解釈する共通アルゴリズムの性質から、期待値の高い戦略を生み出すための数学的構造を…………」
春香の脳裏に、アルゴリズムという美しい結晶体を挟んだ二人のプレイヤー、彼女と彼の姿が浮かぶ。
そして、互いの入力は中央のアルゴリズムで処理される。
本質的に存在するのは中央の無形のアルゴリズム、ゲームのルールだ。これでつながった。これは彼女の問題だ。そう思った瞬間のことだった。
「待って、じゃあもしその二つの間に、情報のテレポーテーションが起こったら? 全く異なるように見える二つの構造だけど、共通のデコードが可能な情報のやり取りが、できるの、どうして?」
今まで感じたことがない知的衝撃。理解した、ではなく理解できない何かが見えた。そんな気がした。
春香の脳裏を様々なアイデアが飛び回る。とりとめのない対称性の形が次々に思い浮かぶ。でも、分からない。その間にも彼女の最初のひらめきは、湯に映った天井の光のように揺らぐ。それが失われようとしている。
「足りない情報はどこにあるの?」
さっき彼女がモデル化したゲームには、まだ何かある。それは、いわば彼女が絶対に肯定したくない存在に例えらえる。この世界の創造主。つまり、創造主。ならゲームという世界のそれは……。
ばしゃーーっ
春香は湯船から上がった。頭の中のアイデアが、彼女自身が認識する前に消えてしまいそうな恐怖が、彼女を追い立てていた。
浴室のすりガラスのドアに近づくと、洗面所に誰かがいる。どうやらドライヤーを戻しに来た綾らしい。
「そこにいるの、小笠原さんね」
「えっ、うん、そうだけど」
声をかけられて驚く昔の友人。彼女はすりガラス越しに要望を伝える。
「今すぐ九ヶ谷君をここに呼んで」
2018/11/22:
来週の投稿は木曜日です。




