9話:前半 合宿Ⅰ
電子音と共に開いた自動ドアから、大悟は夕方の街に足を踏み出した。両方の手の平に白いレジ袋が食い込んでいた。2リットルが二本と1.5リットルが一本。計5キロオーバーの液体だ。スーパーで買いたかったが、最寄りのコンビニで妥協である。
「それが差し入れ?」
「なんかお菓子は春日さんが持ってきてくれるって」
コンビニの前で待っていた綾が少し不満げに言った。大悟は理由を答える。決して春香の母親の襲来を防ぐ為の配慮とかじゃないのだ。
短い横断歩道一つ先、目的地である高層マンションの前で、もう一人の同級生女子が立っていた。彼女は急げと言わんばかりに手招きしている。点滅する信号の下、横断歩道を小走りで渡った。
「そういえば、近藤さんはどうして?」
前回のことはともかく、今回の事件になってから洋子は関わっていなかったはずだ。
「知らない家に外泊なんて、私が一緒じゃなきゃ春日の家が許すわけないでしょ。ちなみにルーシアさんの方は結城先輩が保証人をしたの」
洋子が言った。
「大げさだな。一緒にテスト勉強でお泊まりみたいなものじゃないのか?」
大悟の言葉に、二人の視線が集まった。言いたいことは分かった。
「……つまりボクがいなけりゃ問題ないんじゃないか?」
「大悟がいないと合宿の意味がないでしょ」
綾が言った。プレッシャーをかけてくれる。今回の事は完全無欠に五里霧中なのだ。大悟としてはこの合宿で少しでも今春香達がやっていることを理解する、程度が目標である。
「……肝心の春日さんは?」
「春香は遅れてくるから、早く入ってましょ」
洋子が周囲をきょろきょろと見ながら言った。どこか挙動不審だ。
◇◇
「遅れてごめんなさい」
大悟達がルーシアの部屋に入って、洋子がコンピュータ、というかゲーム機を見ているとき、春香が到着した。手にまるでブランドショップのような綺麗な紙袋を持っている。
大悟は改めて、自分以外の参加者を見た。春香、綾、ルーシアに洋子。女子率がすごい。どちらかと言えば殺風景な部屋なのに、空気が何かホワホワして良い匂いがする気がする。ハーレム主人公というのはいつもこれに晒されているのだろうか、大悟はおかしなことを考えた。
うらやましくはないなと思う、どう考えても一人だけ異物というのはキツかろう。それとも、それに耐えるからこそ、主人公という称号を得るのだろうか。
「ルーシアさん。これつまらない物だけど」
春香が袋から差し入れと言うには高級そうな箱を出した。箱に書かれた店の名前に聞き覚えがあった、綾がこの前取材した贈答用の菓子を扱う店の名前だ。
用意したのはあの女性、春香の母だろうか。単なる偶然に違いないのに、牽制されたような気分だ。
「じゃあ合宿開始ということで。早速だけど、二人の対立点っていうの? それを説明してもらえる」
飲み物が渡ったところで綾が言った。戦力である春香とルーシアが対立しているのだから、司会役として彼女は最適だろう。問題は残った二名の役割だが……。
「それで、大悟はそれを聞いてなんとかして」
「待て待て」
最適にはほど遠い分担に大悟は抗議する。三人は無視した。
「私はそっちでゲームしてていい。これ最新のハードだよね。すごく…………弟がやりたがってたの。ああ、何かあったら言ってね。お茶入れとか」
生きたアリバイが大きな画面の下にあるゲーム機を見ていった。見捨てないでと思った大悟だが、春香とルーシアの瞳に縫い付けられる。
「お手柔らかにお願いします」
嬉々としてコントローラーを手に取る洋子を恨めしげに見て、仕方なく言った。ちなみに洋子の前の画面には、二人のキャラクターが対峙する画像が映し出された。何と格ゲーらしい。
ーFightー
という文字がでかでかと表示された。
「じゃあ、私から……」
春香が自分のノートパソコンを開いた。そして、洋子が使ってる隣のディスプレイに、碁盤目模様を映し出した。一見、碁盤目の交点に黒と白の丸が出たり消えたりする。前に見たセルオートマトンに似ている。
その横でむくつけき男とひらひらした格好の黒髪魔法少女がバトルをしているのがシュールだ。ちなみに洋子が使ってるのが男キャラ。”弟が”ゲーム好きだけあって上手い。ちなみに格闘ゲームというジャンルは隣で見ていたからと言って出来る種類のゲームではない。
「平面コンピューティングを実現する為に必要なのは、通常のトランジスタと違って2種類の数値を記録できる虚数ビットと、虚数ビット同士の情報を計算する為のリンクの二つなの」
春香が説明を開始する。一つ目の虚数ビットはまだ分かる。要するに普通のコンピュータのメモリーが1,2,3,4,5,……というふうに一次元の数直線として扱われるのに対して、虚数ビットは平面座標(0,0)(0,1)(1,0)といった感じで記録されること。これだけなら単に情報量が倍に増えただけに見えるが、普通のコンピュータが直線上、つまり前後との関係しかやり取りできないのに対して、平面コンピューティングは前後左右とやり取りできる。
それを用いて複雑な計算を短期間に処理できる。なんとなく分かる。大悟だって数式で説明されるより、模式図で示してくれた方がありがたい。もっとも、綾曰くそれはテキストで勝負する人間にとって敗北らしい。
そう言えば、綾のブログは食べ物の話題なのに写真は最小限だ。料理が一枚、店内が一枚というのが理想だとか言っていた。
(ととっ、他のことに注意を向けてる場合じゃないな)
「この平面計算を最大限に活かせるのが深層学習。つまり、私たちの脳の神経回路みたいに平面上のネットワークとして情報処理するアルゴリズムを構築するための仕組というわけ」
春香がそう言うと、画面上の囲碁の石の間にそれこそ編み目のような線が編まれていく。全体的に見ると◇を三つ並べたように見える回路図だ。点とそれを繋ぐ線は確かにネットワークだ。
彼の父の理論はこの回路の温度も測れるのだろう。いまさらだが、彼の父の組織は最初からこれに向かってLczの実験をしていたと言うことだろう。
そう考えると空恐ろしい。一方、そんなことを高校生の集まりが論じているのもおかしな事である。ただし、これほどの物が存在していながら世界はあれから妙に平穏だ。それこそ悪の組織のように、人類の支配を宣言とかされた方がわかりやすい。そんなことを考えてしまうほどに。
「実際、Lczを使って平面計算による深層学習が桁違いに加速できることが、ルーシアさんのシミュレーションで確かめられているわ。これは実際にシミュレーションしたルーシアさんにお願いするわ」
春香が言う。ルーシアが小さく頷くと、自分のキーボードを引き寄せた。
ーNext Challenger is ー
場違いな陽気な音声が部屋に響いた。洋子が慌ててヘッドホンを付け直した。画面にはさっきの黒髪魔法少女の代りに、メカを身に纏った金髪少女が表示されている。
2018/10/28:
来週の投稿は木、日の予定です。




