8話 和服
「あの車は……」
家の前に停まった黒塗りのセダンに大悟は首をひねった。何度か見たことがある車だ。ナンバーまで覚えているわけではないか、街の中をぽんぽん行き来している車種でもない。彼のクラスメイトを迎えに来た車だ。だが、今日は彼の隣にその女の子はいない。
春香は直接ラボに向かうことになっているのだ。というか、掃除当番だった彼と違いすでに到着しているのではないか。ちなみに、学校帰りの彼もカバンを部屋に放り込んだら大学に向かうつもりだ。
窓の外から店内を見た。ショーケースのケーキの売れ行きはまあまあ。テーブルにお客さんが三組というのは平均値。そしてカウンター席に一人女性客が座っている。洋菓子屋にはそぐわない和服の女性は、彼の母と話している。
その横顔はどことなくクラスメイトに似ているような気がした。いつの間にか秋めいてきた風が、彼の身体を震わせた。
「…………」
大悟はゆっくりと後ずさった。丁度その時、テーブル席の客が立ち上がり母がレジに回った。そして、息子を見つけたらしい。
入ってこいと手招きをする保護者に、大悟は渋々ラタンの入り口をくぐった。広義には自分の家であるのに、この敷居の高さは一体何だろう。
◇◇
「まあ、貴方が息子さん。確か……大悟君だったかしら。春日春香の母の佳枝です。娘がいつもお世話になっております」
大悟が店内に入ると、女性はわざわざ立ち上がって腰を曲げて大悟に挨拶した。上品な物腰、礼儀正しい態度、そして穏やかな笑顔。薄紫の波模様の和服と相まって、線の細く嫋やかな印象だ。
注文は秋らしい渋皮栗のモンブラン。地味な色が和服と合う。銀色のフォークが菓子楊枝でないことに違和感を感じるくらいだ。
「く、九ヶ谷大悟です。その、えっと……こちらこそ春日さんにはいつもお世話になってます」
だからといって突然会った同級生女子の母親に緊張は解けない。大悟は直立不動で返答した。
「いつも春香がお菓子をいただいているみたいだから、そのお礼に来ましたの」
女性は変らぬ笑顔だ。
「息子が勉強でお世話になってるからお気になさらずにっていってるのよ。春香さんは学校でもとても優秀だって聞いています。うらやましいですよ」
大悟の母が言った。
「春日の娘として恥ずかしくない程度の成績は修めているみたいですけど。……娘はあれで気が強いところがありますし。母親としてはそこが心配で」
春香の母はあくまで大悟の母に向かって言葉を綴る。母親だけ有って娘のSモードは把握しているらしい。
「男の子にとっては生意気に映ることもあるでしょう?」
そして、不意打ちのように大悟に振り返った。大変答えにくい質問である。
「春日さんはその、実際すごいのは見てますし。それに、えっと気が強いと言うよりも……譲れないことがある時だけだって、そう思ってますから」
大悟はなんとか嘘でない答えをひねり出した。
「まあ、嬉しいわ。娘のことをずいぶんと認めてくれているんですね。となると、やっぱり大悟君は春香の……ボーイフレンドということで良いのかしら」
和服美人の口からボーイフレンドという言葉が出てきた違和感が半端ない。だが、大悟はそれどころではない。これまでの会話の様子から、こんな直接的に切り込んでくるとは思っていなかったのだ。
「ち、ちがいます。その、春日さんとはクラスメイトでえっと、そう勉強仲間みたいな……」
「まあ、その割には春香のことをずいぶんと連れ回しているみたいだけど」
和装の女性の目が光った気がした。だが、娘のクラスメイトを硬直させた母親は、ゆっくりと微笑む。
「私としては、娘にはちゃんと引っ張ってくれる相手がいると安心だと思ってますのに。勿論、学生らしい節度あってのことですけど」
一見理解のありそうな言葉だ。下手したら親公認の交際を認められたような。でも、彼と春香は交際していないので無効である。あと、訂正しなければいけないことがある。
「いえ、どちらかと言えば、というか完全に振り回されてるのはボクの方で。えっと、その勉強のことでも何でも春日さんには敵わないなーって」
どれだけ記憶を探っても、春香に連れ回された記憶しかない。母も「ウチのぼんくら息子と違ってしっかりしてますから」とフォローする。
「まあ」
その瞬間、口に手を当てた春香の母の目がすっと細まった。
「それはずいぶんと頼りないことですね。殿方なら、いたずらに自分を卑下するような言葉を軽々しく口にするのは感心しませんね」
出てきた言葉は、今までよりも微かに温度が低かった。「卑下なんてしてません」と言いそうになった口を、無理矢理閉じさせられた感じだ。だが、クラスメイトの母親はすぐに柔和な表情を取り戻した。
「まあ、お礼に来たのに、ぶしつけなことをごめんなさい。ついつい長居してしまって。そろそろ戻らせていただきます。これからも春香のことよろしくお願いしますね」
そう言って、モンブランの会計を済ませる。硬直した大悟の横を通って店を出て、黒塗りの高級車で去って行った。最後に大悟に笑いかけたその表情は、先ほどの冷たい瞳が嘘のようだった。
ただし、その笑みに昔の春香のそれが重なったことを除けばだが。
◇◇
(なんだったんだ……)
ラボに向かう地下室を歩きながら大悟は考える。最後はアレだが、春香の母は彼が警戒していたように、春香との交際をやめろ等ということは言わなかった。交際してないという大原則はともかく、色々と意味がわからない。
母に聞くに、和服の女性が店に居たのは三〇分程度。彼の帰宅と重なったのは偶然の範囲だ。
(となると本人に聞いてみるのが……)
そう思いながらさびの浮いたドアを開く。
「おそい大悟。こんなときにどうしてたのよ」
開口一番、開いたのは部屋の口だが、綾に非難された。彼女の背後には無言でにらみ合う黒と金の美少女がいた。
「……色々あってだな。それはそうと、こっちはこっちでどうしたんだ?」
まさか春香の母親に面接じみたことをされていたとは言えない。大悟は改めて部屋の奥の二人を見た。側面のスクリーンを埋め尽くす小型肉食獣の画像の前で対峙する二人。まさか、愛玩動物の好みで対立してるわけではあるまい。
「理論と応用の衝突って感じみたいね? 例の情報の行き先が云々って話なんだって」
綾が肩をすくめて言った。
「さららさんは?」
「んっ」
この部屋の主で、彼らの指導教官は机に伏せて仮眠中だ。その手がペンを握ったままなのがシュールだ。
「とにかく処理した情報の行き先が分からないと、これ以上シミュレーションを進めても無意味」
「理論上はあり得る話でしょ。例えばもつれ合った二つの粒子の間に……」
「なに、情報テレポーテーション? なら、暗号表はどうやって送ってるの」
「それは……」
彼が同級生の母の面接を受けている間に、娘の方はずいぶんSFチックというか、ハードボイルドというかそんな感じの問題に突入しているらしい。そして二人の関係がもつれ合っている。
「大悟の出番ってわけなのに、肝心なときに遅れるとか」
「……何しろって言うんだよ」
大悟は両手を挙げた。対立の萌芽は数日前からあったのだ。出来る物ならとっくに……。
「まあ、確かに何日もかけてここまでこじれてるわけだから、そうね、じゃあ逆に集中してがっと解決しちゃいましょう。合宿なんてどう」
背後の二人の論争の内容には触れず、綾はまるで部活動のようなことを言った。




