第三章 酒は飲んでも飲まれるな
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イケメン上司と会社に秘密の同居生活を始めたら、ほのかな恋心が芽生えてふたりの仲は急接近。仕事も優しく指導されちゃって絶好調!
なーんていうのは、体のよいドラマの中でしか起こらないことらしい。
陽茉莉は若干の憎らしさすら感じながら、打合せコーナーで向かい合う相澤の顔を窺い見る。
端正な顔には笑顔の「え」の字も浮かんでいない。むしろ、整いすぎた顔のせいで真顔だとちょっと冷たく見える。
(おかしい。家だと優しいんだけどなぁ。あれって、もしかして幻覚?)
もしくはこれが素で、家で見ている姿が幻覚だろうか。
狼に変わったりするし、幻覚だったとしても不思議ではない。
そんなことを考えていると、鋭い声が飛んできた。
「新山、聞いてるか?」
「はい。聞いています」
「俺の言ったこと、わかってる」
「他社向けの提案書をコピペするなってことですよね?」
「全然違う。対話をするときに相手の目線に立てって言っているんだ」
冷静に、しかし容赦なく否定される。
今、陽茉莉が上司の相澤に見せているのは、今度使用する予定の営業提案書だ。
以前から付き合いのあるリラクゼーションサロンに、新たに商品を売り込もうとしている。
この営業は陽茉莉が担当することになっており、これまで作成してきた営業提案書をベースに今の売れ筋商品を載せている。陽茉莉としては可もなく不可もない、それなりによくできた提案書だと思っていた。
しかし、相澤の評価は違ったらしい。
で、完成した提案書を確認してもらったところ、この説教タイムに入ったわけである。
「じゃあ聞くが、新山は愛用している化粧品店舗で売れ筋の化粧品がつらつらと掲載されたチラシを宣伝されたら買うか?」
「多分、買いません」
「なぜ買わない?」
聞き返されて、陽茉莉は言葉に詰まる。
なぜ買わないか。
十秒程度の沈黙の後、陽茉莉はおずおずと口を開いた。
「今の商品で、特に困っていないから?」
「そう。わかってるじゃないか」
相澤は陽茉莉をまっすぐに見つめる。
「先方はわざわざ時間を割いて、こちらの話を聞くと言っているんだ。つまり、現状に何かしらの不満点があるはずなんだ。それを聞き出して、向こうが求めているものを先回りして提案するのが、俺達の仕事だろう?」
「私達の仕事……?」
相澤の話は要するに、営業提案をするからには相手の目線になって何を求められているかを把握し、それに応えられるだけの引き出しを用意しておけということのようだ。
確かに、相手だって暇ではないのだから、全く必要のないもののためにわざわざ時間を割こうとは思わないはずだ。つまり、上手く彼らの琴線に触れることさえできれば、興味を持ってもらえる可能性が一気に高まるのだ。
「もう一度、あちらに連絡をとって話を聞いてみます」
幸いにして、先方の担当の山田さんはとても人当たりのよい女性だった。連絡すれば、何かしらのヒントは得られるかもしれない。
「そうだな。もう一捻りしてみて」
相澤はいつものようににこりと微笑むと、陽茉莉に赤字の入った提案書を容赦なく差し戻したのだった。
◇ ◇ ◇
ドアを開けると、温かな色合いのランプに照らされたシックな店内が見えた。六席あるカウンター席の奥二席には、カップルと思しき男女が座っている。
「いらっしゃいませ」
「こんにちは」
「あらぁ。陽茉莉ちゃん、久しぶりじゃない!」
カウンターの奥で何かの作業をしていた潤ちゃんは、陽茉莉に気が付くと表情を明るくする。陽茉莉は潤ちゃんにはにかんだ笑顔を見せると、カップルとは一番離れた入口側の椅子に座った。
「ここ最近、あんまり来てくれなかったから、嬉しいわぁ」
潤ちゃんはしんみりと呟くと、作っていたオードブル盛り合わせをカップルの前に差し出した。そして、グラスを棚から取り出して作業しながら陽茉莉に声をかける。
「最近、忙しいの?」
「うーん。忙しいって言うか、生活環境が変わったの」
「ふうん?」
相澤の家に居候するようになってから、悠翔のお迎えは基本的に陽茉莉がしている。そのため、以前のようにハーフムーンに気軽に来ることができなくなった。
けれど、今日は相澤が早く帰る予定だと言っていたので、思い切ってお迎えも任せてきたのだ。
(そういえば相澤係長、あのとき何か言いたげだったな)
陽茉莉は、昨晩、夜出かけたいと相澤に告げたときのことを思い返す。相澤は陽茉莉が夜出かけたいというと、少し困惑した表情を浮かべた。
「わかった。けど、あんまり遅くなるなよ。……危ないから」
「はい、わかりました。係長と住み始めてから、本当にあのお化けに襲われなくなりましたから大丈夫です。ありがとうございます!」
陽茉莉がにこりと笑うと、相澤は眉根を寄せる。
そのとき、何かを言いたげなように見えたのだが、結局は何も言われなかったのでわからずじまいだ。
「機嫌がいいのは、生活環境が変わったせい?」
「機嫌がいい?」
「ええ。とってもよさそうに見えるわ」
潤ちゃんはにこりと微笑むと、陽茉莉にいつものようにジントニックを差し出す。
陽茉莉が一口飲むと、口の中にシュワシュワとした味わいが広がった。
「この前ね、営業先のお客様に、すっごく褒められたの」
「あら、すごいじゃない」
「うん。ちょうどこんなのが欲しかったって言われて、年間契約を結んでもらえることになった」
陽茉莉は褒められたことが少し照れくさくて、それを隠すようにはにかむ。
潤ちゃんはそんな陽茉莉を見つめて目を細めた。
「陽茉莉ちゃんも営業マンとして頼りになる存在になってきたってことかしら」
「どうだろう。実はね──」
今回の件は、陽茉莉の力だけではきっとできなかった。
上司である相澤に資料の作り直しを命じられ、陽茉莉は営業先の担当である山田さんに連絡を取った上でいくつかの課題を確認し、それを解決する打ち手となるような商品のラインナップを揃えて営業に挑んだ。
例えば、価格は高めだが完全にアレルゲンフリーでアトピーなどの敏感肌の方でも使えるマッサージクリームや、いいと感じているけれども大きいボトルを買うのはちょっと……と思っている方がお試しに使えるミニサイズの自宅用化粧品セットなどだ。これに関しては、本当は旅行用を目的として作られたものだが、陽茉莉は敢えて自宅用として提案した。
お客様が期待していた以上のものを提供すると、あんな風に喜んでもらえるんだ。
ありがとう、と言った山田さんの笑顔が脳裏に浮かぶ。
それは、陽茉莉にとって新鮮な驚きであり、経験したことがない喜びだった。
「いっつも口うるさいなあって思ってたけど、いざお客様から『こんなのが欲しかった』って褒められると嬉しいね。頑張ってよかったって思った」
「口うるさいって言うと、今回の件でアドバイスしてくれたのは猫な彼かしら?」
「うん、そう。猫かぶりな彼」
そう言いながら、陽茉莉はぷっと吹き出す。
本当は、猫じゃなくって狼だけどね。
潤ちゃんはサービスのローストナッツを陽茉莉の前にトンと置く。
「いっつも厳しめみたいだけど、陽茉莉ちゃんがそれでちゃんと成長してるんだから結構いい上司だと思うわよ。話を聞いた限りだけど」
「そう思う?」
陽茉莉は潤ちゃんのほうを見る。
「うーん。直接会ったことがないからなんとも言えないけど、これまでの陽茉莉ちゃんの話を聞く限りはね」
潤ちゃんはパチンと器用にウインクをした。
「多分、その猫な彼は陽茉莉ちゃんのことが可愛いのね。そうじゃなきゃ、そんなに熱心に指導しないわ。結構、普段から陽茉莉ちゃんのことを気にかけて見てくれているんだと思うわよ」
「そうかなあ?」
部下として可愛いと思っているかどうかはわからないが、指導が熱心なのは間違いない。
そして、それが陽茉莉の社会人としての成長に繋がっていることも確かだった。
(相澤係長の部下、思ったほど悪くないかも)
半分ほどに減ったグラスを傾ける。
またお客様に喜んでもらえるように、明日からも頑張ろうと思った。




