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午後五時半。
終業ベルが鳴ると、陽茉莉はいそいそと帰り支度を始める。
鞄に荷物を詰めていると、隣の席の楠木さんがちらりとこちらを見る。
「新山さん、ここ最近彼氏でもできた?」
「え!? できてないですよ。なんでですか?」
陽茉莉はドキリとして、聞き返す。どこかで相澤と一緒に住んでいることが漏れて、探りを入れられているのかと思ったのだ。
「違うんだ? 今週に入ってから、毎日終業ベルが鳴ると急いで帰っているから、彼氏と約束でもしているのかなって思ったの。先週までは結構遅くまで残っていたよね?」
(あ、そういうこと……)
相澤との関係がばれたわけではないとわかり、ひとまずはほっとする。
「最近、また自炊を始めたんです。今日も作りたいなって思って」
「なるほど。昔、料理が好きって言っていたもんね」
楠木さんは特に疑うこともなく、にこりと笑う。
「そうなんです。と言うことで、今日もお先に失礼します!」
陽茉莉は明るい声で挨拶をすると、職場を後にした。
◇ ◇ ◇
帰り際、相澤のマンションの最寄り駅で電車を降りた陽茉莉は、駅前にあるスーパーに立ち寄った。精肉コーナーでは、鶏のもも肉が特価になっている。
(鶏のもも肉か。唐揚げにでもしようかなー)
陽茉莉は時計を確認する。まだ六時過ぎなので、揚げ物でも七時過ぎには作り終えることができるだろう。
買い物を終えたその足で、駅の近くにある民間の学童保育にお迎えに向かう。
受付で待っていると、「お姉ちゃん!」と部屋の奥から悠翔が駆け寄ってきた。ぽすんと腰に抱きつかれ、陽茉莉はぎゅっと抱きしめ返す。
「お待たせ。今日もたくさんお友達と遊んだ?」
「うん! 椅子取りゲームしたよ」
悠翔は身振り手振りを交えて、説明する。
悠翔は今八歳で、小学二年生だ。普段は学校が終わった後、夜の八時まで預かってくれる民間の学童保育に通っている。
「今日の夕ご飯、何?」
「今日は唐揚げだよ。唐揚げ、好き?」
「唐揚げ? うん、好き。お兄ちゃんは唐揚げが大好物なんだよ」
「そうなの?」
陽茉莉は意外な事実に聞き返す。
普段、会社で毎日のように一緒に仕事をしていても、知らないことはたくさんあるようだ。
マンションに戻ると、陽茉莉は早速仕込みを始めた。
もも肉を一口大に切って、ショウガの絞り汁と酒と醤油を混ぜたものに漬け込む。二〇分ほどの漬け込み時間を利用して、わかめと油揚げのお味噌汁、サラダ、それに付け合わせのなすのお浸しを用意した。
漬け汁を切ってから小麦粉と片栗粉を混ぜ合わせた粉をまぶす。肉を揚げると、じゅわっと聞いているだけで美味しい音がした。
「いただきまーす!」
「はーい、召し上がれ」
陽茉莉と悠翔は綺麗に盛り付けられたお皿の前に座り、行儀よく手を合わせる。
悠翔は待ちきれない様子で、早速ひとつ目の唐揚げに齧り付く。もぐもぐと小さな口をいっぱいにして頬張り、ふにゃりと笑った。
「おいしーい!」
「本当? よかったー」
料理はやっぱり、食べて美味しいと言ってくれる人がいてこそだ。大喜びする悠翔を見て、陽茉莉は頬を綻ばせた。
そのとき、ふと悠翔が手を止めて自分の皿を見つめる。
「悠翔君、どうしたの?」
「お兄ちゃんの分、ある?」
「あるよ。取っておいてある」
「本当? よかった」
安心したのか、ほっとした表情の悠翔はまた唐揚げを頬張り始めた。
(もう、八時近いけど……)
陽茉莉は壁に掛けられた時計を見上げる。
ここのマンションに住み始めて数日経つ。
しかし、生活リズムが微妙にずれていて、実はほとんどマンション内で相澤と顔を合わせていない。朝は陽茉莉の希望で時間をずらして出社しているので相澤が一時間近く先に家を出て、帰りは大抵相澤のほうが遅い。
(毎晩、どこに行っているのかな? 邪鬼の退治で出かけることが多いって言っていたけど……)
ここまで毎日残業している印象はなかったので、仕事ではないだろう。いつも遅い相澤の帰りを陽茉莉は少し心配に思った。
「ごちそうさまー」
あっという間に全部を食べきった悠翔がパチンと両手を叩く。
「はい、よく食べました! お風呂入って歯を磨いたら寝ようね」
「うん。でも、僕まだ学校の宿題の音読してない」
「じゃあ、聞くよ」
陽茉莉は食器を流しに持って行くと、ソファーに座って悠翔が国語の教科書を読むのに耳を傾ける。
そして、保護者欄に「相澤」とサインすると、それを悠翔に手渡した。
◇ ◇ ◇
結局、相澤が帰宅したのは夜の十時過ぎだった。
部屋着姿でリビングで寛いでいた陽茉莉は、カチャリという鍵を回す音に玄関のほうを見る。
「お帰りなさい!」
陽茉莉は立ち上がって、見ていたテレビを消す。
「ただいま」
リビングに入ってきた相澤はふわりと目元を和らげる。
「見ていていいのに」
「大丈夫です。係長のご飯、すぐ用意しますね。食べてないですよね?」
「うん、食べてない」
ネクタイを緩めながら、相澤が頷く。
陽茉莉はキッチンに行きコンロの火を付けると、温度設定を一八〇度に設定する。陽茉莉がひとり暮らしをしていたマンションのコンロにはなかったこの機能、さすがは高級マンションだと感心してしまう。
「毎日遅いですね?」
「ああ、ちょっと色々あって」
相澤はソファーにドサリと座ると、気だるげに髪の毛を掻き上げる。随分疲れていそうに見える。
「すぐ作りますね」
陽茉莉は素早くエプロンをしてキッチンのカウンター越しに話しかける。相澤は上半身を捻ってこちらを見ると、口元に笑みを浮かべた。
「それ、いいな」
「ああ、唐揚げ。悠翔君から好きって聞きました」
陽茉莉が笑顔で頷いたタイミングで、ピピッとコンロの温度設定完了の電子音が鳴る。菜箸で鶏肉を入れると、じゅわっと泡が上がった。
「よし、できた! 係長、できまし──」
手早く調理を終えて相澤に呼びかけた陽茉莉は、口を噤む。先ほどまでソファーにもたれかかっていた相澤がいなかったのだ。
「係長……?」
陽茉莉はお皿をテーブルの上に乗せると、おずおずとソファーに近付く。そこには、丸くなってすやすやと眠る銀色の狼がいた。
「眠っているのかな?」
そっと手を伸ばすと、ふわふわの毛並みに触れた。
「なんか可愛い」
三〇分近く待っても一向に起きる気配のないその狼を、陽茉莉はつんつんとつつく。ピンと立った耳が僅かに動いてひげが揺れたが、目は閉じられたままだ。
(大きなわんちゃんみたい)
ぐっすり眠っているのに起こすのも気が引ける。
陽茉莉は冷めてきてしまった夕食にふんわりとラップをかけると、それを冷蔵庫へとしまった。
◇ ◇ ◇
翌日、朝起きた陽茉莉はスマホにメッセージが届いたことに気が付いた。
『昨日は済まなかった。一日経ってもジューシーで美味しかった』
キッチンに向かい冷蔵庫を開けると、昨日しまったはずの夕食は綺麗になくなっていた。なんなら今日はお弁当にして持って行こうかと思っていたが、その必要はなかったらしい。
陽茉莉はスマホの画面を眺める。
今朝食事を食べた後、わざわざこれを打ったのだろうか? 時間的に、電車の待ち時間にでも送信したのかもしれない。
陽茉莉が知る限り、相澤はどんなに遅くとも自宅で食事を取る。そして、美味しかったと一言感想をくれる。今朝は陽茉莉がまだ寝ていたから、わざわざこうしてメッセージを残してくれたのだろう。
「律儀だよねー」
どうせ今日も会社で顔を合わせるのだから、そのときに言えばいいのに。
けれどその律儀さは嫌いじゃない。




