第二章 あやかし上司と秘密の同居
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PCに向かって作業していると、ふと背後からひそひそ声が聞こえて来た。時折、「きゃっ」というおおよそ勤務中には相応しくないような黄色い声まで。
何事かと背後を振り返った陽茉莉は、すぐにその理由を理解する。遠目に係長の相澤と商品開発部の高塔副課長が話し込んでいるのを見つけたのだ。
(女子社員がざわついているのは、あれが原因か……)
クールで爽やかな雰囲気の相澤に対し、商品開発部、新商品企画課副課長の高塔一馬は少し眦の下がる優しげな顔立ちをしたイケメンだ。
ふたりは社内で女子社員の人気を二分する、まさに双璧をなす存在だった。
そのふたりが体を寄せて──というと語弊があるかもしれない──肩を並べて、真剣な表情で何かを話し合っているのだ。あそこだけ芸能人の撮影現場だろうかと思うような非日常な光景である。
「イケメンコンビ、絵になるわよねー」
(うん、確かに絵になるわ)
陽茉莉は隣の席に座るアラフォー既婚女子社員──楠木さんが漏らした独り言に、心の中で相槌を打つ。
「ふたりとも、彼女っているのかしら?」
「さぁ? どうなんでしょうね」
「いないわけないわよね。あんだけイケメンだもの。きっと、すごい美人のお嬢様とかだわ」
楠木さんはひとりで自分の問いを完結させると、うんうんと頷く。
「オフのときってどんな感じなのかしらね」
「うーん。どんな感じなんでしょうね?」
陽茉莉は曖昧に笑ってやり過ごす。
私、何も知りませんから、という風情を装って──。
◇ ◇ ◇
あの日、陽茉莉は突然目の前で相澤が狼に変身するという光景を目にした。
「というわけで、今見たとおり俺達はあやかしだ。正確に言うと、〝狼神〟と〝人間〟の半妖だ。そして、この子は俺の弟の悠翔だ」
狼からまた人間の姿に戻った相澤は淡々と語り始める。
「昨日は、たまたま邪鬼を見つけて退治しようとひとりで追いかけていたらしいんだ。ただ、妖力を使い果たして動けなくなったところを女の人に助けられたとは聞いていたが、それが新山だったとはな」
「なるほど。そういうことだったんですね」
邪鬼という得体の知れない者達については小さな頃から何度か襲われていたからなんとなく存在は知っていたけれど、狼になれる人間──正確には半妖がいるなんて想像だにしなかった。
人間、想像を超えたことが起こりすぎるとかえって落ち着くものらしい。もう何もかも理解不能すぎて、違和感がなくなってしまう。
「で、同居の件だが、俺達には邪鬼を制圧する力や祓う力がある他、彼らから忌み嫌われる気配を発している。一緒にいれば新山を守ってやれるはずだし、長時間をともにしていればひとりでいるときも襲われにくくなる。現に、会社内や俺と仕事で一緒にいるときは襲われないだろう?」
会社内では襲われないという事実には、陽茉莉も経験上気付いていた。だからこそ、最近は夜遅くまで会社に居残っていたのだ。
相澤と一緒にいるときに襲われたことがないことも事実だ。
「でも──」
陽茉莉はすぐに返事することができず、口ごもる。
そもそも、恋人でもない未婚の男女が同居するということに抵抗があった。
「さっきも言ったが、このままだと恐らく新山はまた襲われる。襲われやすい体質、と言ったほうがいいのかな」
それを聞いて、陽茉莉はサーッと顔から血の気が引くのを感じた。
──またあれに襲われる。
考えただけでも体が震えてくる。
「お姉ちゃん、ここに僕と一緒に住もうよ」
悠翔が陽茉莉の着ていた上着の端を引く。つぶらな瞳が心配そうにこちらを見つめていた。
(そっか、悠翔君がいるからふたりっきりじゃないんだよね。じゃあ、これってルームシェアってことなのかな?)
陽茉莉は自分にそう言い聞かせる。
そもそも、相澤のように女性に大人気の人が自分などにちょっかいを出してくるとも思えない。ということは、別の意味での身の危険もないだろう。
「──でも、係長は迷惑じゃないですか?」
陽茉莉は相澤におずおずと尋ねる。
居候する立場の陽茉莉はともかく、相澤は自分の家に赤の他人が出入りすることになるのだ。少なからずストレスを感じるだろう。
それに、彼女などがいる場合は誤解される原因になる。
「俺は大丈夫だ。むしろ、新山が家にいて悠翔の相手を引き受けてくれたら助かる。俺は邪鬼の退治で定期的に夜留守にすることがあるから──」
「そうなんですか?」
陽茉莉が相澤を見返すと、相澤はこくりと頷いた。
(なんか、係長のことちょっと誤解していたかも……)
悠翔の相手を引き受けてくれたら助かるというのは、きっと本音だろう。けれど、自分が助かるということ以上に陽茉莉が気を遣わないように言ってくれている気がした。
会社でのふとしたときに目にする印象が強くて散々『猫かぶり』と影で呼んでいたけれど、実は仕事に真面目なだけで根はいい人なのかもしれない。
視線をずらして目が合った悠翔は、陽茉莉を見上げてへらりと微笑んだ。
(か、可愛い!)
子供は皆天使だと言うが、まさに天使の微笑み。
「…………。じゃあ、お世話になってもいいですか?」
「もちろん」
相澤はまるで重大案件を通すための部長会議が終わった後かのような、ほっとしたような表情をする。
「お姉ちゃん、ここに住む? やったぁ!」
悠翔は喜んで叫ぶと、そのままポンッとまた子犬のような姿に変わる。狼だと言われると、確かに足が太くてそう見えなくもない。
けれど、何よりも──。
(可愛い! もふもふ! すんごい可愛い!)
陽茉莉はあまりの可愛らしさに、心の中で悶絶したのだった。




