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消毒液の独特の匂いが、スンと鼻孔を掠める。
「ちょっと染みるけど我慢して」
「はい」
次の瞬間、飛び上がりそうな痛みが走る。
この『ちょっと染みるけど──』って下り、小さな頃からよく聞くけれどちょっとだった試しがない。
「はい。できたよ」
「何から何まで、本当にすみません……」
陽茉莉は立ち上がって絆創膏のごみを捨てている相澤に、謝罪する。
腰を抜かした陽茉莉のことを、相澤はおんぶして自宅まで連れて帰った。書類を渡したら用事は済むのでタクシーを拾ってくれと頼んだが、却下されたのだ。
「動けない部下を放置するような鬼畜だと思われているなら、結構ショックなんだが?」
「はい、すいません」
ぎろりと睨まれると、それ以上反論できるわけもなく。
そして、こうして傷の手当てまでしてもらったわけである。
(それにしても、いいところに住んでるなー)
相澤がお茶を用意してくれるというので、待っている間に陽茉莉は室内をきょろきょろと見回す。
モダンスタイリッシュスタイルというのだろうか。
目寸で十五畳程度のリビングダイニングの壁には大型テレビ、家具はメタリック調のシンプルなもので統一されている。窓際には観葉植物が置かれていた。
全体の間取りはわからないが、どう見てもひとり暮らしの男性には広すぎるように見えた。陽茉莉が知る限り、相澤は独身のはずだ。
(彼女さんと一緒に住んでいるのかな? でも、それだと今鉢合わせすると誤解を──)
グラスを持った相澤がキッチンから戻ってきて、陽茉莉の前にあるガラス張りのローテーブルにトンと置く。
「あの、係長。ありがとうございます。私、これをいただいたら帰りますね」
陽茉莉は出されたグラスを手に取ると、それを一気に飲み干す。上司の痴情のもつれに巻き込まれるとか、まっぴらごめんだ。
立ち上がろうとすると、「待て」と相澤に留められた。
「今日みたいなこと、よくあるのか?」
「え?」
陽茉莉は何のことかと、相澤を見返す。
「邪鬼に襲われていただろう?」
相澤の言葉に、陽茉莉はハッと息を呑む。
あの不思議な人ならざる者達は、陽茉莉以外には見えない。
ずっとそう思っていただけに、陽茉莉は驚いた。
『邪鬼』というのはよくわからないが、きっとあの化け物のことを指しているのだと予想はついた。
「係長、あのお化けが見えたんですか?」
「もちろん。さっきのあれを退治したのは俺だ」
「退治……。係長は陰陽師かなんかなんですか?」
「陰陽師ではないが、似たようなことをしている」
陽茉莉はまじまじと相澤の顔を見つめる。
陰陽師なんて、漫画とドラマでしか見たことがないのに、似たようなことをしている?
一体この人は何者なのだろう。
「いつから襲われるようになった?」
「ずっと昔……、子供の頃には時々襲われることがあったんですけど、お守りを持つようになってからは大丈夫だったんです。それがここ一ヶ月くらい、急にまた──」
先ほどの恐怖が甦り、陽茉莉はぶるりと震える。
ずっと平気だったのに、なぜ急にこんなことになってしまったのだろう。理由がわからないだけに、恐怖心もなおさらだ。
一方の相澤は、険しい表情のまま考え込んでいた。その様子に、陽茉莉は不安が増すのを感じた。
「あの……」
「新山。お前、このままだと今後も襲われるぞ」
「え……?」
最も恐れていたことを言われ、陽茉莉は動揺する。
今後も襲われる?
今日はたまたま相澤に助けてもらえたからなんとかなったけれど、もしも相澤が来なかったらどうなっていたのだろう? 想像するだけでぞっとする。
「わ、私、どうすればいいんでしょう」
これまではお守りを頼りにしていたのに、効き目が切れてしまったのだろうか。しばらく考え込んでいた相澤は、真っ青になって俯く陽茉莉を見つめる。
「提案なんだが──」
陽茉莉は顔を上げて相澤を見返した。
日本人にしては茶色い瞳と、視線が絡み合う。
「ここで、俺と一緒に住まないか?」
「……は?」
今なんて言った?
俺と一緒に住む?
そう聞こえた気がするけど、気のせい?
あまりに予想外の提案に、陽茉莉は唖然として相澤を見返した。
「いや、変な意味じゃなくてだな、一緒に住めばお前を守ってやれる。それに、俺達の気配を邪鬼は嫌がるから、狙われても実際には襲ってきにくくなる──」
相澤は陽茉莉の顔を見て、焦ったように今の発言の意図を説明し始めた。普段の職場の落ち着いた様子からは想像できない。
そのとき、カチャンと背後のドアが開く音がした。
「ねえ、誰か来てるの……」
少し甘えたような口調に振り返った陽茉莉は、その声を発した人物を見て硬直する。
「え?」
短く切られたサラサラの黒い髪、つぶらな瞳、整った可愛らしい顔立ち……。そこには、どことなく相澤に似た子供がいた。
「ああ、悠翔。ごめんな。起こしちゃったな」
相澤が立ち上がり、優しくその子供の頭を撫でる。
陽茉莉は目をまん丸にしたまま、その様子を見つめた。
「新山、どうしたんだ? そんな顔して」
陽茉莉の様子がおかしいことに気が付いた相澤が、怪訝な顔で首を傾げる。
「か、係長……こんな大きなお子さんがいたんですか!?」
思わず、大きな声を出してしまった。
これは社内に激震が走る大事件である。
女子社員憧れの相澤係長に、実は隠し子がいるなんて!
一方の相澤はぽかんととした表情を浮かべたが、すぐに陽茉莉の言葉の意味を理解したようだ。
「いるわけないだろう! 弟だ!」
相澤の否定する大きな声が、部屋の中に響いた。
「……弟?」
陽茉莉は目の前の男の子改めて見る。
くりっとしたつぶらな瞳と、視線が絡んだ。すると、男の子の顔に、みるみるうちに喜色が浮かんだ。
「お姉ちゃん! また会えたね!」
「え? お姉ちゃん?」
「うん。昨日助けてくれたでしょ?」
「へ?」
今日はわけのわからないことばかりだ。
何のことだがわからず戸惑う陽茉莉をよそに、悠翔と呼ばれた男の子は嬉しそうな笑顔を浮かべて抱きついてきた。腰の辺りにポスンと頭が当たる。
「お兄ちゃん。昨日助けてくれたの、このお姉ちゃんだよ」
悠翔は陽茉莉に抱きついたまま、相澤のほうを向く。
「新山が? そうなのか?」
相澤は驚いた様子だ。
確認するように見つめられたが、陽茉莉には全くこの男の子──悠翔を助けた記憶がない。一方の悠翔は陽茉莉が戸惑っていることに気が付いたようだ。
「僕だよ、僕。これならわかる?」
陽茉莉から手を離した悠翔が、一瞬で姿を消した。
そして、そこにいたのは──。
「え、子犬?」
しかも、その子犬は昨日陽茉莉が助けた子犬にそっくりで──。
「え、なんで! 男の子だったのに犬になった!」
わけがわからないこともここまで続くと、夢を見ているのではないかとすら思えてくる。
「犬ではなくて、狼だ。見ての通り、俺達は〝狼神〟のあやかしだ」
「オオカミのあやかし……?」
呆気にとられる陽茉莉の前で、今度は相澤の姿が銀色の狼へと変わる。もふもふの毛並みの、美しい銀狼だった。
「これで信じられるか?」
目の前の狼が口を開く。
わけがわからないことには慣れっこだと思っていたけれど、ちょっとこれはキャパオーバー。
どうやら、猫を被った上司は実は猫ならぬ狼だったようです。




